残響の調律師
第一章 残響に触れる指
俺、レンの指先は、いわば調律の狂ったピアノの鍵盤を叩く調律師の耳のようなものだ。ただ、俺が聞き取るのは音ではなく、人の魂にこびりついた後悔の不協和音。古物商のカウンターに置かれた銀の懐中時計。持ち主である老人の皺深い手が、そっとそれを押し出す。
「亡き妻の形見でしてな。もう、動かんのですが」
俺は黙って頷き、冷たい金属に指を触れた。
瞬間、視界が白く染まり、古い病室の匂いが鼻をつく。消毒液と、枯れゆく花の甘い香り。ベッドに横たわる痩せた女性の手を握りながら、老人は何も言えずに俯いている。愛している、ありがとう、そのたった一言が喉に張り付いて出てこない。その瞬間の、声にならない叫びと圧し殺した嗚咽が、感情の奔流となって俺の脳を焼いた。
「……大丈夫ですよ。この時計は、たくさんの時間を記憶しています。あなたの時間も、奥様の時間も」
俺はゆっくりと指を離し、乾いた声でそう告げた。老人の目元が微かに潤む。俺に見えるのは過去の映像ではない。彼が今この瞬間も抱え続ける「後悔の重み」そのものだ。それは、決して癒えることのない傷跡のように、彼の存在に刻み込まれている。
この世界で、人は生まれながらに一つの『概念』を背負う。「正義」を宿す者は曲がったことを許せず、「混沌」を愛する者は予測不能な行動を好む。俺の概念は『探求』。真理を、物事の核心を、ただひたすらに追い求める宿命。だからこそ、この能力は俺に与えられたのかもしれない。
店を閉めた後、俺は街外れの古いアパートの一室にいた。半年前まで、親友のユウキが住んでいた部屋だ。彼は『真実』の概念を持つ男だったが、ある時から嘘を重ね、誰にも何も告げずに消えた。概念に背いた者が迎える末路――『概念消失』。彼の存在は、俺以外の誰の記憶からも綺麗に消え去っていた。
部屋に残された彼愛用の革手袋に、そっと指を伸ばす。触れた瞬間、激しいめまいと共に、暗闇の中に浮かぶ巨大な砂時計のビジョンが網膜に焼き付いた。普通の砂時計じゃない。下から上へ、まるで血を吸い上げるように、黒い砂粒が逆流していく。そして、ユウキの絶望に満ちた声が響いた。
「俺は、真実でいることに疲れたんだ……」
第二章 歪む世界の輪郭
ユウキの残した黒い砂時計のビジョンが、脳裏から離れない。あれは一体何だったのか。彼の後悔の断片を辿るうち、俺は世界の奇妙な歪みに気づき始めていた。
街角のカフェで、ウエイトレスが注文したコーヒーの名前を思い出せずに立ち尽くす。広場の噴水の前では、恋人同士が互いの名前を呼び合えず、困惑した表情で顔を見合わせている。些細だが、確かな存在の揺らぎ。まるで、世界という名の織物の糸が、あちこちでぷつぷつと切れ始めているかのようだった。
「最近、おかしいと思わないか?」
馴染みの情報屋、ジンに声をかける。彼は『混沌』の概念を持つ男で、その情報網は常に予測不能な広がりを見せる。カウンターに置かれたグラスを磨きながら、彼は気だるげに言った。
「ああ、概念の境界が曖昧になってるのさ。まるで水彩絵の具が滲むみたいにな。原因は知らん。だが、面白い見世物ではある」
彼の腕に、俺はさりげなく触れた。
閃光。裏路地の暗がり。黒いローブを纏った数人の男たちが、影のように希薄になった人間を拘束している。抵抗する力もなく、その人間はまるで空気の揺らめきのように、男たちの手に吸収されていった。
「『回収人』だ」ジンが呟く。「概念消失しかけた奴らを、どこかへ連れて行く連中さ。誰もそいつらを覚えていないから、問題にもならない」
その光景には見覚えがあった。ユウキのビジョンの中で、彼が最後に見ていた風景と酷似している。ユウキは、自ら『回収人』に身を委ねたのか? 俺の『探求』の概念が、疼くように答えを求めていた。
第三章 黒砂の運び手
ジンから得た情報を元に、俺は『回収人』――自らを『アルケー』と名乗る組織の尻尾を掴んだ。彼らの後悔に触れることができれば、必ずアジトに繋がる手がかりが得られるはずだ。
数日間の張り込みの末、港の古い倉庫街でその機会は訪れた。黒いローブの男が一人、何かを待つように佇んでいる。雨がアスファルトを叩く音だけが響いていた。俺は物陰から静かに近づき、彼が懐から煙草を取り出す一瞬の隙をついて、その手首に触れた。
激しい後悔の嵐が吹き荒れる。
――幼い娘が病気で死んだ。俺は『正義』の概念を持つ警官だったが、法では彼女を救えなかった。概念なんて無力だ。意味なんてない。だから、全てを終わらせてくれるあの場所へ行くんだ。概念から解放される、唯一の聖域へ――
男の後悔と共に流れ込んできたのは、地下深くへと続く螺旋階段の映像。そして、巨大な歯車が軋む音。場所は湾岸地区の地下に広がる、旧時代の地下鉄跡地。
「……お前、何を」
男が驚愕の声を上げるが、もう遅い。俺は彼の意識がこちらに向く前に、闇の中へと姿を消していた。手に入れた情報は、俺を奈落の底へと誘う片道切符だった。だが、引き返すという選択肢は、俺の『探求』には存在しない。ユウキが辿り着いた場所、世界の歪みの中心、そしてあの黒い砂時計の謎。全てが、その地下で俺を待っている。
第四章 無の聖域
錆びた鉄の匂いと、湿った土の匂いが混じり合う地下道を進む。壁からは絶えず水滴が滴り落ち、俺の足音に不気味な反響を加えていた。やがて、巨大な歯車が鈍い音を立てて回る、広大な空間に出た。
息を呑む光景だった。
空間の中央には、天を突くほどの巨大な黒曜石の砂時計が鎮座していた。そしてその周囲には、無数のガラスカプセルが林立している。カプセルの中には、半透明になった人々が、まるで琥珀の中の虫のように閉じ込められていた。彼らは概念消失者たちだ。存在の輪郭を失い、ただぼんやりと発光している。
彼らの胸からは、黒い砂のようなエネルギーが無数の管を通って吸い上げられ、中央の巨大な砂時計へと注ぎ込まれていた。砂時計の下部から、後悔の重みそのものである黒い砂が、ゆっくりと上へと逆流していく。ユウキのビジョンで見た光景そのものだった。
ここは、墓場か?それとも、新たな何かを生み出すための工場か?
俺が呆然と立ち尽くしていると、静かな声が背後から響いた。
「ようこそ、『探求』の迷い子。君が来ることは分かっていた」
振り返ると、そこに立っていたのは特定の個人ではなかった。霧のように揺らめき、無数の人々の顔が次々と浮かび上がっては消えていく、不定形な存在。それが、組織の首謀者。
いや、違う。あれは――消失した者たちの、集合体だ。
第五章 集合する後悔
「我々は『無の概念体』。個という檻から解き放たれ、一つとなった存在だ」
集合体の声は、男でも女でもなく、まるで幾重にも重なった風の音のようだった。その中に、聞き覚えのある響きが混じっていることに気づき、俺は息を呑んだ。ユウキの声だ。
「ユウキ……お前も、そこにいるのか」
「彼は、自ら我々と一つになることを選んだ」無の概念体は静かに告げる。「『真実』という概念は、あまりに脆い。嘘と欺瞞に満ちたこの世界で、真実であり続けることは苦痛でしかない。彼はその苦しみから解放されたのだ」
彼らの目的は、世界の破壊ではなかった。再創造だ。人々を特定の概念から解放し、誰もが自由に存在を変容させられる、流動的な世界を作ろうとしていたのだ。概念消失は罰ではなく、彼らにとっての「救済」。そして、巨大な砂時計に集められた後悔のエネルギーは、旧世界を解体し、新世界を創造するための起爆剤だった。
「君の『探求』は、固定された真実を求める概念。我々の流動的な世界とは相容れない。だから、君は最も危険な存在だ」
無数の顔の中に、穏やかに微笑むユウキの顔が浮かんだ。
『レン、もうやめろよ。探求の先には、何もないぜ』
その言葉が、俺の最後の理性を焼き切った。
第六章 探求の果て
「ふざけるな!」
俺は叫び、無の概念体へと突進した。触れさえすればいい。彼らの核となっている後悔の繋がりを、俺の能力で断ち切ってやる。
指先が、霧のような集合体に触れた。瞬間、何百、何千という消失者たちの「後悔の奔流」が、俺の精神を叩き潰さんとばかりに流れ込んできた。
――正義を貫けなかった騎士の後悔。
――愛を伝えられなかった芸術家の後悔。
――真実から目を逸らした学者の後悔。
絶望、悲哀、苦痛。だが、その奔流の奥底で、俺は確かに感じた。個を失い、概念から解放されたいという、彼らの切なる「願い」を。
「お前の『探求』もまた、一つの概念に過ぎない!」
無の概念体の声が頭蓋に響く。俺は歯を食いしばり、全ての意識を指先に集中させた。後悔の繋がり、その一点を断つ。俺は調律師だ。この狂った世界の不協和音を、調律してみせる。
閃光。
鼓膜を突き破るような甲高い音と共に、巨大な砂時計に亀裂が走った。ガラスが砕け散り、凝縮されていた膨大な量の黒い砂が、爆発的な勢いで空間に舞い上がる。無の概念体から苦悶の叫びが上がり、その姿が急速に霧散していく。
やったのか……?
勝利を確信した、その時だった。俺は自分の指先が、透け始めていることに気づいた。足元から、徐々に身体の感覚が消えていく。
あまりにも多くの他者の後悔に触れすぎた。他者の存在に深入りしすぎた結果、俺自身の『探求』という概念の輪郭が、崩壊を始めていたのだ。俺はもはや「探求する者」ではなく、世界にとっての「探求されるべき曖昧な謎」そのものへと変質し始めていた。目の前の景色が、音も匂いも、俺というフィルターを通して認識できなくなっていく。
第七章 誰のものでもない風
世界から、俺という存在が剥がれていく。俺を見ていたはずの『アルケー』の残党たちの瞳から、俺の姿が映らなくなる。彼らは、俺がいたはずの空間を、何も無いかのように見つめている。
霧散したはずの無の概念体の残滓が、思念となって直接語りかけてくる。それは、ユウキの声に似ていた。
『――来るか、レン。我々と一つになり、永遠の自由を手に入れるか。それとも、このまま誰にも知られることなく、完全に『無』へと還るか』
目の前に、親友だった頃のユウキの幻影が浮かんだ。彼は何も言わず、ただ穏やかに微笑んでいる。
選択肢は二つ。
概念から解放された集合意識の一部となるか。
あるいは、『探求』という個を貫いたまま、世界から完全に消え去るか。
俺は、どちらを選んだのだろう。
……やがて、舞い上がっていた黒い砂が、静かに地面へと降り積もっていく。それはまるで、長い夜が明けた後の、静寂な雪景色のようだった。
風が吹き、黒い砂は跡形もなく散っていく。
彼が立っていた場所には、もう何も残されていなかった。
世界は歪みを失い、元の静けさを取り戻した。だが、そこに『レン』という男が存在したことを覚えている者は、もうどこにもいなかった。