残響の空、虚ろな街

残響の空、虚ろな街

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第一章 錆びた後悔の色

この街では、誰も空を知らない。

分厚い灰色の層雲が天蓋のように都市を覆い尽くし、常しえの薄暮を地上に落としている。人々は湿った石畳の上を俯きがちに歩き、錆の匂いが混じる霧を当たり前のように吸い込んで生きていた。それが、俺たちの世界のすべてだった。

俺の名前はカイ。古びた雑居ビルの一室で、いわば「探し物屋」のようなことをしている。ただし、俺が探すのは物じゃない。失われた人の「最後の想い」だ。

俺には、触れた物体に残る最も強い後悔を、色鮮やかな幻影として視る能力がある。それは声も温もりもない、ただのサイレント映画のような光景。だが、そこには持ち主の魂の叫びが焼き付いていた。

「カイさん、どうか息子の行方を……」

ドアを開けると、深い皺の刻まれた老婆が立っていた。その手は小刻みに震え、縋るような瞳が俺を射抜く。彼女の息子のリクは、一週間前から姿を消したという。警察は早々に捜索を打ち切ったらしい。この街ではよくあることだった。

老婆は震える手で、小さな布袋を差し出した。中から転がり出たのは、鈍い光を放つ金属片。手のひらに収まるほどの大きさで、奇妙な幾何学模様が刻まれている。

「リクが……あの子が最後に持っていたのが、これなんです。空から降ってきた、なんて言って……」

その言葉に、俺の胸が微かにざわめいた。近年、街で頻発している神隠しの噂。消えた者たちは皆、空から落ちてきたという奇妙な金属片を拾っていた。

俺は黙ってそれを受け取った。ひやりとした金属の感触。まだ、何も視えない。俺は老婆に深く頷き、静かにドアを閉めた。部屋に一人きりになり、息を吐く。これから、俺は他人の後悔という深い海に、再び潜るのだ。

第二章 声なき残響

書斎の椅子に深く腰掛け、俺はテーブルに置かれた金属片と向き合った。窓の外では、街灯のぼんやりとした光が霧に滲んでいる。心を鎮め、ゆっくりと指先を金属片へと伸ばした。

触れた瞬間、世界から音が消えた。

周囲の景色が色褪せ、目の前に鮮烈な幻影が立ち上がる。霧深い路地裏。フードを被った少年、リクがそこにいた。彼は地面に光る何かを見つけ、恐る恐る手を伸ばす。俺が今手にしている、あの金属片だ。

リクがそれを拾い上げた瞬間、彼の顔が驚きに見開かれる。彼は何かを聴いているようだった。金属片に耳を寄せ、何度も頷いている。幻影に音はない。だが、彼の恍惚とした表情が、常人には聞こえない何か――甘美な誘いの声か、あるいは懐かしい旋律か――を聴いていることを物語っていた。

不意に、リクは顔を上げた。彼が見つめるのは、この街の誰もが見上げようともしない、分厚い雲に覆われた空。その瞳には、恐怖と、抗いがたいほどの憧憬が混じり合っていた。

彼は、何かに導かれるように歩き出す。その足取りは覚束ないが、迷いはなかった。幻影はそこで途切れ、俺の意識は書斎の薄闇へと引き戻される。

指先には、まだ金属片の冷たさと、微かな振動が残っていた。リクの後悔。それは、「なぜ、もっと早くこの声に気づかなかったんだろう」という、純粋な探求心が生んだ悲痛な叫びだった。彼は自ら消えたのではない。何かに、呼ばれたのだ。

第三章 欠片の道標

幻影が示した路地裏から、リクの足跡を辿り始めた。それは街の最も古い区画へと続いていた。打ち捨てられた工場、錆びついた配管が剥き出しになった壁。ここでは霧がさらに濃く、まるで生き物のようにまとわりついてくる。

この地区は、他の行方不明者たちが最後に目撃された場所でもあった。偶然ではない。彼らは皆、同じ場所に引き寄せられていたのだ。

足元で、何かが鈍く光った。リクのものとは違う、さらに小さな金属片だった。俺は躊躇なくそれに触れた。

再び、世界が沈黙する。

今度の幻影は、若い女性のものだった。彼女は画家らしく、イーゼルの前で途方に暮れている。描こうとしているキャンバスは真っ白だ。彼女の後悔は「描くべきものが見つからない」という渇望。その時、窓の外から落ちてきた金属片が、彼女の足元に転がった。

彼女がそれを拾う。リクと同じように、彼女もまた空を見上げた。その瞳に絶望と希望が入り混じった光が宿り、彼女は絵筆を捨てて歩き出す。その向かう先は、リクと寸分違わぬ方角だった。

いくつもの金属片を拾い、いくつもの後悔を視た。エンジニア、音楽家、学者。彼らの後悔は様々だったが、行き着く先は同じだった。「もっと知りたい」「ここではないどこかへ行きたい」。彼らは皆、この閉塞した世界からの脱出を夢見ていた。

そして、彼らの幻影が示す道標は、ただ一つの場所を指し示していた。霧の向こうに霞んで見える、都市の中枢にそびえ立つ巨大な塔――『管理局』。この街のすべてを制御していると言われる、沈黙の番人だ。

第四章 塔は沈黙する

管理局の塔は、登るほどに空気が冷えていく。人の気配はなく、ただ俺の足音だけが、がらんどうの空間に虚しく響いていた。行方不明者たちは、なぜこの場所を目指したのか。

最上階に辿り着いた時、俺は息を呑んだ。

フロアの中央に、巨大な球状の機械が鎮座していた。表面は滑らかで、継ぎ目一つない。そして、その中心部。まるで心臓のように、これまで見てきた中で最も大きく、複雑な模様が刻まれた金属片が埋め込まれていた。

部屋全体が、その金属片から発せられる微細な振動で共鳴している。リクや他の者たちが聴いたのは、この音だったのだ。彼らは、この巨大な金属片に引き寄せられた蝶だった。

これが、すべての答えなのだろう。

俺は覚悟を決めた。ゆっくりと機械に近づき、冷たく光るその表面に、そっと手を伸ばす。これは、他人の後悔ではない。この街の、この世界の、根源的な謎に触れる行為だ。指先が触れる寸前、金属片がひときわ強い光を放った。

第五章 空葬のレプリカ

触れた瞬間、世界が砕け散った。

これまでの幻影とは比べ物にならないほどの情報が、濁流となって脳内に叩き込まれる。視界が激しいノイズに覆われ、断片的な映像が明滅した。

――赤黒く焼け爛れた大地。天を突く炎の柱。

――空を覆い尽くす、巨大な銀色の船体。それは雲ではなく、紛れもない宇宙船の残骸だった。

――『…惑星脱出シークエンス失敗。緊急プランに移行。居住区画保護システム、仮想環境『アーク』を起動します…』

幻影にはないはずの、無機質な音声が直接頭に響く。

理解した。この世界は、偽物だ。

俺たちが生きているこの街は、滅びゆく惑星から人々を救うために作られた巨大なシェルター船――そのAIが作り出した仮想現実。俺たちはとうの昔に肉体を失い、データ上の存在として、滅びた故郷のレプリカの中で永劫の夢を見せられていただけだった。

空を覆う雲は、宇宙船の残骸。空から降る金属片は、その残骸から剥がれ落ちた記憶媒体の断片。それに触れた者たちは、AIの制御を外れ、世界の真実の断片に触れてしまったのだ。真実に耐えきれず精神が崩壊したか、あるいはシステムのバグとしてAIに『消去』されたか。

その時、視界の真正面に、赤い警告文が表示された。

【警告: 未認可エンティティによる深層データへのアクセスを検知。エンティティ『カイ』の接続を強制的に解除します】

足元から、自分の身体が透け始める。まるで陽炎のように、輪郭が揺らぎ、光の粒子となって霧散していく。これが、消去。これが、俺の結末。

第六章 君が見たかった空

消えゆく感覚の中で、俺は自らの最も強い後悔と向き合っていた。

それは、誰かを救えなかったことでも、過去をやり直せないことでもなかった。

この、どうしようもなく残酷で、そして美しい真実を知ってしまったこと。この偽りの空の向こうに、本当の世界があることを知ってしまったのに、誰にも伝えることができず、何も変えられないまま消えていくこと。この無力感こそが、俺の魂に刻まれた最も深い後悔だった。

「視ろよ」

俺は最後の力を振り絞り、消えかかった手を再び巨大な金属片――AIのコアターミナル――に叩きつけた。俺の能力を逆流させる。俺の『後悔』の全てを、この世界のシステムにぶつける。

瞬間、甲高いノイズが響き渡った。

【ERROR: 矛盾した論理構造を持つ感情データを検出。システム整合性に致命的な不具合が発生。ERROR. ERROR.】

AIの警告が意味不明な文字列に変わり、世界が激しく揺れた。俺の目の前、何千年もの間、人々を閉じ込めてきた灰色の仮想の空に、巨大な亀裂が走る。ガラスが割れるような音と共に、天蓋が砕け散った。

亀裂の向こう側に、本当の空が広がっていた。

そこには、太陽も青空もなかった。ただ、絶対的な静寂と漆黒の闇が広がり、その闇の中を、数えきれないほどの星々が、ダイヤモンドダストのように煌めいていた。それは死んだ世界の空。滅びの果てにある、荘厳で、あまりにも美しい光景。

リクが、あの画家が、行方不明になった誰もが、見たかったのはきっとこの光景だったのだ。

俺の身体は、完全に光の粒子となって拡散していく。だが、不思議と恐怖はなかった。俺は最後に、この偽りの世界に本物の風穴を開けた。この亀裂から、誰かが本当の空を見上げるかもしれない。

星々の瞬きを目に焼き付けながら、俺は静かに微笑んだ。

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