幸福のジオラマ

幸福のジオラマ

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第一章 ガラスケースの中のワルツ

アスファルトの匂いが、夏の終わりの湿った空気に溶け込んでいた。警視庁捜査一課の刑事、桐島朔(きりしま さく)は、規制線の内側で立ち尽くす。現場は都心から少し離れた、古びたアパートの一室。ドアを開けた瞬間に鼻をついたのは、死の腐臭ではなく、微かなヒノキの香りと、古い絵の具の匂いだった。

被害者は、高田宗助、七十八歳。孤独死として処理されるはずだった発見は、室内の中央に鎮座する異様なオブジェによって、一級の殺人事件へと姿を変えた。

それは、縦横三十センチほどのガラスケースに収められた、精巧なジオラマだった。

照明を落としたダンスホール。燕尾服の若い男と、純白のドレスをまとった女が、ワルツを踊っている。その表情は、見る者が息をのむほどの幸福に満ち溢れていた。磨き上げられた床にはシャンデリアの光が反射し、壁際の小さな楽団の人形たちは、まるで本当に音楽を奏でているかのように、生き生きとしている。

あまりにも完璧で、あまりにも美しい。そのジオラマだけが、埃っぽい部屋の中で、柔らかな光を放っていた。

「被害者の身元照会、完了しました。このジオラマは、五十年前の、被害者と亡き妻の結婚披露宴の様子だそうです。親族が写真を持っていました」

部下の報告に、桐島は眉一つ動かさなかった。彼は死体からジオラマへ、そしてまた死体へと、氷のように冷たい視線を往復させる。高田老人は、ベッドの上で穏やかな顔をして死んでいた。外傷はない。毒物反応もまだ不明だ。ただ、その傍らに、この場違いなほど美しい「幸福の記憶」が置かれている。

これが三件目だった。孤独な老人、夢破れた若者、事業に失敗した中年男性。被害者の境遇は様々だが、共通点は二つ。一つは、穏やかな死に顔。そしてもう一つは、現場に残された、被害者の人生で最も輝いていた瞬間を切り取ったジオラマ。

マスコミは、犯人を「ジオラマ作家」と名付け、センセーショナルに報じ始めた。犯行の残忍さよりも、その芸術性に焦点を当てた記事が世に溢れる。

「まるで、人生の最後に最高のプレゼントを贈っているみたいじゃないですか」

若い鑑識官が、畏怖の念を込めて呟いた。桐島はその言葉を聞き流す。プレゼント? 馬鹿げている。これは紛れもない殺人だ。人の命を弄び、自己満足の芸術に浸る、悪趣味な異常者の犯行。桐島の心は、乾いたコンクリートのように固く、冷え切っていた。幸福などという曖昧で脆いものを、彼は信じていなかった。過去に担当したある事件で、守るべき命を守れなかったあの日から、彼の時間はずっと凍りついたままだった。だから、この犯人が許せない。幸福を弄ぶその手口が、何よりも我慢ならなかった。

桐島はガラスケースに指を伸ばし、そっと触れた。ひんやりとした感触が、彼の苛立ちを増幅させる。ガラスの向こう側で、永遠のワルツを踊り続ける小さな二人。その幸福は、本物か、それとも偽物か。桐島は、この歪んだ芸術家の正体を暴き、その手で裁きを下すことを、改めて心に誓った。

第二章 歪んだ救済者

「ジオラマ作家」を巡る世論は、奇妙な熱を帯びていた。被害者はいずれも社会的に孤立し、何らかの絶望を抱えていたことが明らかになるにつれ、犯人を「歪んだ救済者」として英雄視する声まで上がり始めたのだ。SNSには「#ジオラマ作家」のハッシュタグが溢れ、犯人の美学を考察する者、同情する者、模倣犯を示唆する者まで現れた。

捜査会議の空気は重かった。

「犯人は被害者に寄り添い、その人生を肯定した上で、安らかな死を与えている…というプロファイリングが出ています」

桐島はその報告書を、虫でも見るかのような目で見つめた。

「感傷に浸っている暇があるのか。殺人は殺人だ。理由がどうであれ、人の命を奪う権利など誰にもない」

彼の低い声が、会議室に響き渡る。同僚たちの間に、気まずい沈黙が流れた。誰もが、桐島の過去の傷を知っていたからだ。彼がなぜそこまで「命」という言葉に固執するのかを。

桐島は心理分析などという雲を掴むような捜査を嫌い、地道な物証の洗い出しに没頭した。彼はこれまでのジオラマを専門家と共に徹底的に分析した。使われている素材、接着剤の種類、人形の細かな造形。その執念は、やがて一つの光明を見出す。

「この塗料…」

専門家が拡大モニターを指差した。「『ルミナス・ドロップ』。ごく一部の専門工房でのみ扱われている、特殊な蓄光塗料です。光を吸収し、暗闇で非常に柔らかく、長時間発光するのが特徴。しかも、この色合いを出すには、特別な調合が必要になる」

道が開けた。桐島はすぐさま、この特殊塗料を扱う工房をリストアップさせ、購入者の割り出しを命じた。彼の乾いた心に、獲物を追い詰める猟犬の熱が、久しぶりに蘇っていた。犯人の感傷的な自己満足など、どうでもいい。ただ、法の下に引きずり出し、罪を償わせる。それだけが、彼の正義だった。

捜査線上に浮かび上がったのは、数名の購入者。その中に、桐島の目が釘付けになる名前があった。

長峰 灯(ながみね あかり)。二十四歳。ジオラマ作家。

そして、その名前には、忘れようとしても忘れられない、一つの情報が付記されていた。

『五年前、両親が死亡した高速道路での多重事故の生存者。当時の担当刑事、桐島朔』

記憶の蓋が、軋みを立ててこじ開けられる。雨の匂い、サイレンの音、そして、血の海の中で呆然と座り込み、虚空を見つめていた少女の姿。あの時、自分は彼女に何と言っただろうか。

「強く、生きろ」

そうだ。ありきたりで、無責任な言葉を投げつけた。それが、当時の自分にできる精一杯の慰めだった。

桐島の全身を、嫌な汗が伝った。偶然か、それとも。彼は、震える手で長峰灯の住所が書かれたメモを握りしめ、一人、車に乗り込んだ。

第三章 看取り人の告白

長峰灯のアトリエは、古い倉庫を改装した、静かな場所に佇んでいた。桐島が重い鉄の扉を開けると、そこは別世界だった。壁一面の棚に、無数のジオラマが並べられている。陽光が差し込む窓辺、雪の降る駅、祭りの夜店。どれもが、誰かの人生の一場面を切り取ったかのように、温かく、そしてどこか切ない光を放っていた。

部屋の奥で、車椅子に乗った一人の女性が、こちらに背を向けて作業をしていた。それが長峰灯だった。事故で彼女は、二度と歩けない体になっていた。

「…桐島刑事さん、ですね」

彼女は振り返ることなく、静かに言った。その声は、凪いだ湖面のように穏やかだった。

「お待ちしていました」

桐島は息をのんだ。彼女の周りには、事件現場で見たものと同じスタイルのジオラマがいくつも置かれている。確信が、冷たい刃となって彼の胸を突き刺す。

「なぜ、あんなことをした」

絞り出すような声に、長峰はゆっくりと振り返った。その顔は、五年前の記憶にある少女の面影を残しながらも、全てを受け入れたかのような、不思議な透明感を湛えていた。

「なぜ、と問いますか。あなたは五年前、私に『強く生きろ』と言いました。でも、考えたことはありますか? なぜ、生きることが絶対的に『正しい』のかを」

彼女の視線が、アトリエの一角に向けられる。そこに、桐島が見たことのないジオラマがあった。事故現場だ。しかし、それは桐島の記憶にある地獄絵図ではなかった。ひしゃげた車の中で、彼女の両親が光に包まれ、穏やかに微笑んでいる。幻想的で、非現実的な光景だった。

「私は、あの事故で死ぬべきでした。でも、生き残ってしまった。それからの日々は、意味のない苦痛の連続でした。そんな時、ある人から依頼が来たのです。『私の人生で一番幸せだった日を、形にしてほしい』と」

長峰は語り始めた。彼女は犯人ではなかった。少なくとも、桐島が想像していたような、快楽殺人者では。

「高田さんも、他の皆さんも、自ら死を選んだのです。病、孤独、絶望…理由は様々でした。でも、彼らはただ無意味に死にたかったわけじゃない。自分の人生に、確かに輝く瞬間があったことを証明し、その光を胸に抱いて、旅立ちたかった。私は、その最後のお手伝いをしていただけです」

彼女は「看取り人」だったのだ。依頼を受け、その人の最も幸せな記憶を聞き取り、ジオラマを制作する。そして、依頼人が自ら命を絶つその日に、完成したジオラマを届ける。それは嘱託殺人であり、自殺幇助だ。法の下では、紛れもない犯罪。

しかし、桐島の価値観は、音を立てて崩れ始めていた。彼が追い詰めてきたのは、歪んだ殺人鬼ではなく、絶望した人々の最後の願いを叶えようとした、一人の傷ついた女性だった。

「あなたの『強く生きろ』という言葉が、私をこの道に進ませたのかもしれません」

長峰の言葉が、桐島の胸に深く突き刺さる。正義とは何か。救いとは何か。彼が信じてきた全てが、足元から揺らいでいた。

第四章 未完成の公園

法の執行者として、桐島は長峰灯を逮捕しなければならなかった。しかし、彼の足は鉛のように重く、動かなかった。彼女の行為は、許されるものではない。だが、彼女が与えたものが、絶望の中にいた人々にとって、一種の「救済」であったことも、否定できない事実だった。

桐島は、自分がこれまでいかに狭い世界で生きてきたかを思い知らされていた。犯人を憎み、追い詰め、裁く。そのサイクルの繰り返しの中で、人の心の痛みや、その奥にある微かな光に、目を向けようとしたことがあっただろうか。五年前、少女に空虚な言葉を投げつけた自分と、何も変わっていない。

その時、桐島の視線は、アトリエの隅に置かれた、一つの未完成のジオラマに吸い寄せられた。作業台の上には、作りかけの公園の模型があった。小さなブランコ、砂場、そして一本の大きな桜の木。それは、見覚えのある風景だった。

「なぜ、これを…」

それは、桐島が幼い頃、今は亡き父と毎週のようにキャッチボールをした公園だった。彼の心の奥底にしまい込んでいた、温かく、そして二度と戻らない幸福の記憶。なぜ、彼女がそれを知っているのか。

長峰は、彼の心を見透かすように、静かに答えた。

「あなたの心の声が、聞こえた気がしたんです。刑事さん、あなたもずっと、救いを求めていた。誰かに、あなたの人生にも確かな幸福があったと、認めてほしかった」

その言葉は、桐島が長年築き上げてきた心の壁を、いとも容易く打ち砕いた。堪えきれなくなった涙が、頬を伝って流れ落ちる。彼は、犯人を追うことで、自分自身の過去の痛みから目を背けていただけだったのだ。救えなかった命への罪悪感。失われた幸福への渇望。長峰は、彼が追い詰めた「犯人」であると同時に、彼の心の深淵を映し出す「鏡」でもあった。

桐島が、最終的にどのような決断を下したのか。その詳細は、公式な記録には残されていない。「ジオラマ作家」事件は、容疑者不詳のまま、やがて世間の関心から消えていった。

数年後。

都会の喧騒から離れた、小さな町の片隅に、一軒の工房がある。かつて刑事だった男、桐島朔は、そこで静かに木を削っていた。警察を辞した彼が、今、何を作っているのかを知る者は少ない。

窓から差し込む午後の光が、彼の手元にある小さな人形を照らす。それは、キャッチボールをしようと、グローブを構える少年の姿だった。その表情は、まだ完成には程遠い。

桐島は、彫刻刀を置くと、その未完成の人形に、そっと指で触れた。彼の口元には、かつての彼には決して見られなかった、穏やかで、微かな微笑みが浮かんでいた。

それは、誰かのためのものではない。彼が、自分自身の失われた幸福を取り戻し、そして未来へと歩き出すための、最初の小さな一歩だった。空は高く、澄み渡っていた。

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