追憶の編集者

追憶の編集者

6 6093 文字 読了目安: 約12分
文字サイズ:

第一章 霧の中の残響

息が詰まるような、湿った空気だった。肺の奥まで冷気が染み渡り、全身の産毛が逆立つ。視界は厚い白濁に覆われ、数メートル先ですら輪郭が曖昧になる。まるで世界全体が、巨大なフィルター越しに見られているかのようだった。漣(さざなみ)は、その霧の中に立っていた。しかし、それは彼の五感が捉える現実ではなかった。

「もう一度、頼む。もっと鮮明に、あの瞬間を」

漣の声は、自身の耳には届かない。彼の意識は、目の前の古びたアパートの一室に座る老人、佐伯(さえき)の深奥に繋がっていた。佐伯は、10年前の「霧の消失事件」の唯一の生存者にして、最も正確な記憶の持ち主とされていた。漣が持つ稀有な能力――「追憶の共振(レゾナンス・メモリー)」。それは、他者の非常に鮮明な記憶に、あたかも自身がそこにいたかのように入り込み、過去の出来事を体験できる能力だった。だが、その能力は同時に、記憶の持ち主の感情や感覚をも共有するため、精神的な負担が甚大だった。漣はこれまで、この能力を封印してきた。しかし、10年前の事件で失った幼馴染、アヤメの面影が、彼を再び過去へと駆り立てていた。

佐伯の記憶の中の霧は、まるで生きているかのようにうねっていた。遠くから聞こえる人々の叫び声、それが徐々に、そして不自然に静寂に飲み込まれていく。漣の隣を、顔の見えない人々が足早に通り過ぎていく。彼らの纏うパニックと恐怖の感情が、漣の心臓を締め付ける。佐伯の記憶は完璧で、微細な音、匂い、肌を刺すような冷気までを再現した。漣は、記憶の中で佐伯の幼い娘の手を握りしめ、必死に進もうとするその老人の感情を追体験していた。

その時、霧の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえた。アヤメだ。彼女もまた、この霧の中を彷徨っていたのだ。漣は佐伯の記憶の中で、その声の方向へ意識を向けた。薄い人影が、霧の中に浮かび上がる。アヤメだ。彼女は何かを叫びながら、こちらに向かってくるようだった。しかし、次の瞬間、その姿は突然、音もなく霧の中に溶け込んだ。まるで、初めからそこにいなかったかのように。

「くそっ……!」

漣は記憶から弾き出され、自身の部屋の床にへたり込んだ。全身から汗が噴き出し、心臓が警鐘を鳴らすように脈打つ。鮮烈な霧の冷気が、今も肌に残っているような錯覚に陥る。あの事件以来、漣はアヤメの消失の瞬間に立ち会う記憶を求めていた。佐伯の記憶は、その瞬間を正確に捉えていた。しかし、同時に奇妙な違和感があった。

漣は再び、佐伯の記憶の深い場所に潜り込む。今度は、佐伯の視点ではなく、より客観的な観察者の視点で、アヤメが消えた瞬間を繰り返し再生する。

アヤメが霧の中に消える。その一瞬前、佐伯は確かに、娘を庇うようにして、アヤメと反対方向へと体を向けた。その行動に、漣は奇妙な既視感を覚える。そして、その佐伯の背後に、微かに、ほんの一瞬だけ、幼い子供の影が映り込んでいることに気づいた。その子供は、怯えた表情で、アヤメの方向を指さしていた。その顔は、漣自身に酷似していた。

「まさか……」

漣の背筋に、冷たいものが走った。

第二章 探求と違和感

佐伯の記憶の中の自分自身の影。それは、漣に新たな、そして深い疑問を抱かせた。佐伯はなぜ、あの時、アヤメから目を背けたのか? そして、記憶の中に映り込んだ、幼い日の自分は、一体何をしていたのか? 漣は、真実を知るため、佐伯の記憶の細部に執拗に喰らいついた。

佐伯の記憶は、驚くほど鮮明だった。霧の発生から、人々がパニックに陥り、次々と霧の中に消えていく様子。佐伯は幼い娘の手を固く握り、道を見失いながらも、必死に安全な場所を探していた。彼の目を通して、漣は霧が街を包み込む音のない恐怖を追体験した。湿った土の匂い、遠くで響くサイレンの音、そして足元の石畳の冷たい感触。全てが現実のように迫ってきた。

だが、漣は繰り返すうちに、佐伯の記憶の中に、いくつかの不自然な「空白」があることに気づき始めた。感情の空白だ。佐伯は娘を守ろうとする父親として、確かに恐怖と焦燥を感じていた。しかし、アヤメが消えた瞬間、彼の感情はまるでスイッチが切られたかのように、一瞬だけ無色透明になるのだ。娘を守ることに意識が集中しているとはいえ、そこには何らかの反応があってもおかしくないはずだ。

「完璧な記憶、だと?」

漣は自室で呟いた。佐伯は事件後、何度も警察の尋問を受け、そのたびに全く同じ証言を繰り返してきたという。その一貫性が、彼の記憶が「完璧」であると見なされる所以だった。しかし、漣の目には、その「完璧さ」が逆に不自然に映り始めていた。まるで、誰かが描いた一枚の絵のように、完璧すぎて修正の余地がない。

漣は再び、佐伯のアパートを訪れた。佐伯は静かに、しかしどこか諦めたような眼差しで漣を迎えた。

「まだ、納得できないのかね」

佐伯の声は、記憶の中で聞いたものよりも、遥かに深く、そして重かった。

「佐伯さんの記憶は、完璧すぎます。どこか、不自然なほどに」

漣は真っ直ぐに佐伯の目を見つめた。

佐伯は、表情一つ変えずにコーヒーカップを口に運んだ。その老いた指先が、微かに震えているのを漣は見逃さなかった。

「あの霧の中で、何を見たか、何を感じたか……それは私にしか分からないことだ。しかし、君は私の記憶を共有できる。ならば、そこに何があるか、君が一番よく知っているはずだろう」

その言葉が、漣の心に深く突き刺さった。佐伯は、漣が記憶にアクセスしていることを、全て知っていた。そして、漣が感じている違和感も、全て見透かしているかのようだった。その瞬間、漣は決定的な確信を得た。佐伯は、ただの目撃者ではない。彼は、この記憶を「編集」したのだ。そして、その編集の裏には、漣がまだ知らない、深淵な真実が隠されている。

第三章 転の核心:記憶の編集者

「なぜ、隠したんですか?」

漣の声は震えていた。佐伯の記憶が「完璧な偽り」であったという確信は、漣がこれまで信じてきた全てを揺るがせた。真実を求めてきたはずなのに、辿り着いたのは、巧妙に加工された幻だったのだ。

佐伯は、沈黙したまま、窓の外の灰色の空を見上げていた。その横顔は、深い悲しみと、ある種の決意に満ちていた。

「真実とは、往々にして残酷なものだ。そして、それを語る者によって、その形はいくらでも変わる」

佐伯はゆっくりと口を開いた。彼の声は、あの日の霧のように、重く、そして感情を吸い込むかのように響いた。

「あの日、私は娘を守ろうと必死だった。霧の中で、方向感覚を失い、恐怖に駆られていた。その時、君とアヤメちゃんが、私たちのそばを通り過ぎた」

漣は息を呑んだ。佐伯の記憶には、そこから先の重要な部分が「欠落」していた。

「私も、そして娘も、パニック状態だった。君も、アヤメちゃんも。私たちは、互いにぶつかりそうになったんだ。その瞬間、娘の手を引いていた私は、反射的に、娘を庇うように、君たちから体を反らしてしまった」

佐伯の言葉は、漣の脳裏に、断片的な映像を呼び起こした。佐伯の記憶が意図的に隠していた、最も重要な「過ち」の瞬間だ。

「その時、アヤメちゃんは、バランスを崩して……そして、霧の深い方へと、吸い込まれていった。私が、もし一瞬でも手を差し伸べていたら、もし、娘のことだけを考えていなければ……」

佐伯の瞳に、深い後悔の念が浮かんだ。彼の「完璧な記憶」は、彼自身の「良心」が作り上げた、自己への罰と、愛する娘を守るための盾だったのだ。彼は、アヤメの消失に直接的な加害者ではない。しかし、その時、助けの手を差し伸べられなかったという罪悪感が、彼を記憶の編集へと駆り立てたのだ。自分の行動が、間接的にアヤメを消失させた、という苦い真実を、彼は誰にも語れなかった。

「あなたは、アヤメが消えた瞬間の、その一瞬の自分の過ちを、隠したかっただけなんですね……」

漣は理解した。しかし、佐伯の言葉はそこで終わらなかった。

「しかし、それだけではない」

佐伯は漣の目を真正面から見据えた。その眼差しは、覚悟と、ある種の慈愛に満ちていた。

「私の記憶から、君の姿を消し去ったのは、君を守るためでもあったんだ、漣君」

漣の全身に、電撃が走った。佐伯の記憶の中に映り込んだ、幼い日の自分の姿。その意味が、今、恐るべき真実として、漣の前に立ち現れようとしていた。佐伯は、アヤメの消失の真の引き金を、誰よりもよく知っていたのだ。

第四章 自己への回帰と真実

佐伯の告白は、漣の認識の全てを根底から覆した。彼の「完璧な記憶」が、実は自己防衛と慈悲によって編集された偽りだったこと。そして、その偽りの奥底に、さらに残酷な真実が隠されていること。それは、漣自身が、あの霧の消失事件の深層に深く関わっていたという、吐き気を催すほどの衝撃的な事実だった。

「私の記憶から、君の姿を消した…?」

漣は呆然と繰り返した。佐伯は静かに頷いた。

「あの日、霧の中で、私も娘もパニックに陥っていた。そして君も。君は、霧の向こうに、アヤメちゃんの姿を見つけて、夢中で駆け寄ろうとした。しかし、その時、君は足元を滑らせ、娘にぶつかってしまったんだ。娘は転倒し、その拍子に私の手から離れて、霧の奥へと、数歩、吸い込まれていった」

漣の脳裏に、佐伯の記憶の中で見た、自身の影が鮮明にフラッシュバックした。幼い自分が、何かを指さし、怯えた表情をしていたあの瞬間。それは、アヤメが消えた直後ではなく、その直前、佐伯の娘が霧の奥へ消えかけた瞬間だったのだ。

「私は、反射的に娘を追った。その時、アヤメちゃんが、倒れた君を起こそうと、君に駆け寄ってきたんだ。しかし、娘を追うことに必死だった私は、一瞬、君たちから目を離してしまった。次に振り向いた時には……アヤメちゃんの姿は、霧の中に消えていた」

佐伯は顔を覆った。彼の肩が、微かに震えている。

「私は、君のせいだとは思っていない。あの日、あの霧の中で、誰もがパニックだった。誰にでも起こりうることだった。だが、もし、君がこの真実を知れば、君自身を永遠に許せなくなるだろうと思った。だから、私は自分の記憶を編集した。私がアヤメちゃんに手を差し伸べられなかったこと、そして、そのきっかけを君が作ってしまったこと。その両方を、私の過ちとして、記憶の中に封じ込めたんだ」

漣の頭の中は、真っ白になった。幼い頃の、曖昧な記憶の断片が、一気に押し寄せてくる。霧の中、地面に座り込む自分。伸ばされたアヤメの手。そして、彼女の驚いたような顔。その記憶が、佐伯の言葉と完璧に合致した。

アヤメは、漣が転んだのを見て、助けようと駆け寄ってきた。その善意が、彼女自身の消失へと繋がってしまった。そして、幼い漣は、その事実を、あまりに強烈な衝撃として受け止め、記憶の奥底へと封じ込めていたのだ。佐伯は、そんな漣の心を守るために、自らを「記憶の編集者」と化した。

「……僕が、アヤメを……」

漣は膝から崩れ落ちた。これまでの人生を支配してきたアヤメの消失の謎。その核心には、自分自身の、あまりに幼い、そして無意識の罪が横たわっていた。それは、犯人探しという安易な答えでは辿り着けない、人間の記憶の不確かさ、弱さ、そして赦しと自己欺瞞が絡み合った、あまりにも複雑な真実だった。

佐伯は、そっと漣の肩に手を置いた。その手は、温かく、そして深く、漣の罪悪感を包み込むようだった。

「人は皆、それぞれの真実を生きている。そして、時として、その真実を捻じ曲げ、あるいは封じ込めることで、なんとか生きていこうとする。私も、君も、あの霧の中で、そうするしかなかったのだ」

漣の目に、大粒の涙が溢れ出した。それは、幼い頃からずっと胸の奥にしまい込んできた、途方もない罪悪感と、それを赦そうとしてくれた佐伯への、複雑な感情が混じり合ったものだった。彼は、自分の能力「追憶の共振」が、他者の記憶を暴くだけでなく、自分自身の封じ込めてきた過去とも、向き合うためのものだったと、今、悟った。

第五章 記憶のその先へ

真実を知った漣は、佐伯と向き合った。二人の間に言葉はなかったが、そこには、深い理解と、痛みと、そして赦しが静かに流れていた。佐伯は、漣の過去の傷を守るために、自身の記憶を偽り続けた。そして漣は、その偽りによって守られていた自己の罪を、今、受け止めた。

「ありがとう、佐伯さん」

漣は掠れた声で言った。

佐伯は、少しだけ笑った。その笑顔は、どこか吹っ切れたような、清々しさがあった。

「真実を知ることは、いつだって苦しい。だが、それが君を、前に進める力になるだろう」

漣は、佐伯のアパートを後にした。夕日が窓辺に差し込み、部屋の隅々までを暖かく照らしていた。しかし、漣の心の中は、晴れやかながらも、深い影を落としていた。アヤメはもう戻らない。そして、彼女の消失の真実が、誰かの悪意によって引き起こされたものではなく、予測不能な状況と、人間の脆い感情が絡み合った結果だったという事実は、彼に新たな苦悩を与えた。

彼はこれまで、アヤメの消失を「事件」として捉え、犯人や原因を追究することで、自らの痛みから逃れようとしてきた。しかし、真実とは、単純な善悪二元論では語れない、複雑なグラデーションの中にあった。佐伯の行動も、漣自身の行動も、全てはあの霧の中で、極限状態に置かれた人間の、本能的な反応から生まれたものだった。そこに、絶対的な悪意はなかった。しかし、結果として、大切なものが失われた。

漣は、自分の部屋に戻り、窓を開けた。夕暮れの風が、彼の髪を優しく撫でる。

「アヤメ……」

彼は、心の中で幼馴染の名前を呼んだ。彼女が消えた霧は、もはや恐怖の象徴ではない。それは、人間の脆さ、記憶の曖昧さ、そしてそれでもなお、互いを想い合うことのできる優しさを教えてくれた、静かな記憶の帳(とばり)だった。

「追憶の共振」という能力は、他者の「完璧な記憶」を暴くことで、真実を掴むためのものだと漣は信じていた。しかし、その記憶は、時に守るべきもの、愛するものを守るための「編集」が施されている。そして、その編集された記憶の先に、最も隠されていた真実、つまり自分自身の過去と向き合うことこそが、この能力の真の目的だったのだ。

漣はもう、過去から逃げない。アヤメの消失は、未解決のままだ。しかし、漣の内面では、一つの区切りがつき、新しい夜明けが訪れようとしていた。彼は、この苦い真実を抱えながらも、それでも前を向いて生きていく覚悟を決めた。記憶は、時に人を縛りつけ、時に人を欺く。しかし、真摯に向き合うことで、それは未来を照らす光にもなりうるのだ。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る