瑠璃色の残滓は囁く
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瑠璃色の残滓は囁く

第一章 彩色の違和感

僕、水無月湊の目には、世界は常に色彩で溢れていた。それは比喩ではない。人が触れた物、時を過ごした場所には、その瞬間の感情が「残滓」として染み付く。喜びは温かな橙に、悲しみは深く沈む藍に、怒りは焦げ付くような赤に。僕にとって世界は、無数の感情が織りなす巨大なタペストリーのようなものだった。

この白亜の壁に囲まれたエウテルペ学園も例外ではない。廊下をすれ違う生徒たちの足元からは、期待や不安の入り混じった淡い色が煙のように立ち上り、教室の机には、授業中の退屈さが滲み出た鈍い灰色がこびりついている。僕はその全てを視界の端に追いやりながら、息を潜めるように日々を過ごしていた。

「湊、また難しい顔してる」

中庭の古いベンチで隣に座った陽菜が、屈託なく笑う。彼女の周囲にはいつも、向日葵のような明るい黄色のオーラが揺らめいていた。このベンチは僕たちのお気に入りの場所で、触れるたびに陽菜との他愛ない会話の記憶が、鮮やかな橙色の光となって指先から伝わってくる。それが心地よかった。

だが、その数日後、僕の世界に最初の不協和音が響いた。

「陽菜、中庭に行かないか」

僕が誘うと、彼女は一瞬、不思議そうに首を傾げた。

「中庭? 別にいいけど……何か用事あったっけ」

その言葉に、胸が小さく軋む。まるで、あのベンチで過ごした時間が最初から存在しなかったかのような口ぶり。僕は一人、放課後の中庭へ向かった。ベンチにそっと手を触れる。そこに在ったはずの、温かな橙色の残滓は跡形もなく消え、代わりに触れた指先を凍らせるような、くすんだ灰色が広がっているだけだった。

第二章 逆行する時計

陽菜の記憶に空いた小さな穴。その正体を探るうち、僕は学園に古くから伝わる奇妙な噂を耳にした。「真夜中の卒業式」――卒業シーズンでもないのに、不定期に選ばれた生徒だけが参加を許されるという、謎めいた儀式だ。

そんな折、祖父の遺品整理をしていた母から、古びた懐中時計を渡された。銀細工の蓋には、エウテルペ学園の校章が精巧に彫り込まれている。常に正確な時刻を指すのが自慢だったというその時計は、しかし、僕の手の中で時折、カチリ、と微かな音を立てて秒針を逆行させた。まるで失われた時間を取り戻そうとするかのように。

言いようのない引力に導かれ、僕は懐中時計を握りしめて再び中庭のベンチへと向かった。冷たい灰色の残滓に触れた瞬間、時計が掌で熱を帯びる。視界が白く点滅し、時間の奔流が逆巻く感覚に襲われた。

目の前に、幻が浮かび上がる。

数秒間の、過去の光景。僕と陽菜が、あの日のようにベンチで笑い合っている。だが、幻の中の陽菜の笑顔の奥に、僕は視てしまった。一瞬だけ彼女の瞳をよぎった、胸が張り裂けそうな深い悲しみの紫色を。そして幻が消える直前、彼女の手から一冊の黒い手帳が滑り落ちるのを、確かに。

第三章 失われた記憶の欠片

陽菜だけではない。「真夜中の卒業式」を経験した生徒は、他にもいるはずだ。僕は図書館の古びた書架にその答えを求めた。過去の学園名簿を一枚一枚めくっていくと、ある奇妙な共通点に気づく。数年ごとに、特定の友人グループが、まるで示し合わせたかのように疎遠になっている記録。彼らがよく使っていたという旧音楽室や、天文部の部室だった屋上の片隅からは、一様に奇妙な色の残滓が放たれていた。

それは、喜びでも悲しみでもない。あらゆる感情が抜け落ちた、空虚で、どこまでも冷たい瑠璃色だった。

懐中時計を手に、旧音楽室のピアノの鍵盤に触れる。途端に、時計が激しく振動した。耳鳴りと共に、断片的な光景が脳裏に流れ込んでくる。

泣きじゃくる女生徒。誰かの名前を必死に呼ぶ男子生徒。彼らのオーラは、愛情や友情を示す鮮やかな色で燃え上がっていた。だが次の瞬間、どこからか現れた荘厳な鐘の音が響き渡ると、彼らの表情から一切の色が抜け落ち、瞳は虚ろな瑠璃色に染まっていく。まるで感情だけを綺麗に抜き取られた人形のように。

これは、記憶が「消された」のではなく、「抜き取られた」のだ。僕は直感的に悟った。この学園は、生徒たちの記憶を喰らっている。

第四章 感情の浸食

真実に近づくにつれて、僕自身の感情が高ぶっていくのを感じた。焦燥、怒り、そして恐怖。僕の周囲で、小さな異変が起き始める。手に取った本のページが風もないのにめくれ、窓ガラスに微かな亀裂が走る。これが、噂に聞く「感情の浸食現象」の兆候なのか。感情の豊かな生徒ほど、その許容量を超えた時に周囲の現実を歪ませるという、この学園だけの法則。

その時だった。

ゴウッ、という地鳴りと共に、学園全体が大きく揺れた。悲鳴が遠くから聞こえる。どこかで大規模な浸食現象が発生したのだ。廊下の壁が粘土のように歪み、天井からパラパラと砂が降り注ぐ。生徒たちがパニックに陥る中、僕の足は一つの場所へと向かっていた。校長室だ。

校長室の重厚な扉の前には、これまで見たこともないほど濃密な残滓が渦巻いていた。抜き取られた記憶の冷たい瑠璃色と、全てを諦めたような深い悲しみの紫色が、お互いを喰らい合うように混ざり合っている。ポケットの懐中時計が、壊れたようにカタカタと震え、針が狂った速度で逆回転を始めた。この先に、全ての答えがある。

第五章 校長の告白

扉を開けると、時任校長は静かに窓の外を眺めていた。まるで僕が来ることを知っていたかのように、ゆっくりと振り返る。

「その懐中時計は、私の娘の形見でね」

彼の声は、凪いだ湖面のように穏やかだった。

「そして、君のその『眼』のことも、昔から気づいていたよ、水無月君」

校長は全てを語った。数十年前にこの学園で起きた、悲劇的な事故。感情の浸食現象が連鎖的に発生し、学園が半壊。その混乱の中で、彼は最愛の娘を失った。彼女は、誰よりも感情豊かで、誰よりも友人を愛する生徒だったという。

「悲劇を繰り返してはならなかった」

時任校長は、自らが最初の生徒として「真夜中の卒業式」を考案し、このシステムを構築したのだと告白した。強すぎる友情、深すぎる愛情――浸食現象の引き金となり得る高負荷の感情に紐付いた記憶だけを、本人の同意の上で分離・封印する。それが学園の平穏を守るための、苦渋の選択だった。

「瑠璃色の残滓は、封印された記憶そのものだ。そしてその懐中時計は、学園全体の記憶を管理する、ただ一つの鍵なのだよ」

彼は僕を真っ直ぐに見据え、選択を迫った。

「君は、どうしたい? この歪んだ平穏を守るか。それとも、全てを解き放ち、あの混沌を再びこの学園に呼び戻すか」

第六章 瑠璃色の選択

平穏か、真実か。脳裏に、陽菜の虚ろな笑顔がよぎる。空っぽの瑠璃色に染まった友人たちの瞳が浮かぶ。そして、目の前で静かに佇む校長の、何十年も癒えることのない深い悲しみのオーラが胸を刺した。

失われた記憶は、痛みだけではない。そこには、かけがえのない喜びや、誰かを大切に想う温かな光も含まれているはずだ。それを「なかったこと」にして生きる平穏に、果たして価値はあるのだろうか。

「感情は、管理されるべきものじゃない」

僕は、静かに、しかしはっきりと告げた。

「向き合うべきものだと思います。たとえ、それがどれだけ痛くても」

僕は校長室を飛び出し、学園の中央にそびえる古い時計台へと走った。螺旋階段を駆け上がり、巨大な文字盤の裏側にある機構へとたどり着く。そこには、懐中時計がぴったりと収まる窪みがあった。システムの心臓部だ。

震える手で懐中時計をはめ込む。カチリ、と小さな音が響いた瞬間、狂ったように逆回転していた針が止まり、そして、ゆっくりと正しい方向へ時を刻み始めた。

その瞬間、学園中に封印されていた瑠璃色の光が、無数の粒子となって解き放たれた。それはまるで、長い眠りから覚めた蝶の群れのように、夜空へと舞い上がっていった。

第七章 夜明けの再構築

光の粒子が、雪のように学園に降り注ぐ。生徒たちの頭に、失われた記憶が奔流となって流れ込んだ。忘れていた親友の名前、交わした約束、喧嘩した日の涙、そして恋の痛み。あちこちで嗚咽と、驚きと、そして喜びの声が上がる。

「湊……!」

僕の前に駆け寄ってきた陽菜が、その瞳に涙を溢れさせながら、忘れていたはずの僕たちの合言葉を呟いた。彼女のオーラは、再びあの向日葵のような、温かい黄色に輝いていた。

だが同時に、溢れ出した感情は再び世界を軋ませ始めた。校舎の壁に亀裂が走り、中庭の木々が苦しそうに枝をよじる。浸食現象の再発。しかし、以前のような無秩序なパニックは起きなかった。

生徒たちは、泣きながら、戸惑いながらも、互いの手を取り合っていた。溢れ出す感情を一人で抱え込まず、共有し、受け止めようとしていた。壊れかけた学園で、彼らは初めて、自分たちの心と本当の意味で向き合い始めたのだ。

僕は、夜明けの光に照らされる学園を見下ろした。色とりどりの感情のオーラが混沌と渦巻き、世界を鮮やかに染め上げている。それは危険で、不安定で、けれど間違いなく「生きている」光景だった。

隣に、いつの間にか時任校長が立っていた。彼の瞳には、深い悲しみと共に、微かな希望の光が宿っている。

「ここからが、本当の始まりなのだな」

その呟きは、僕たちの未来への問いかけのようだった。壊れかけた世界で、僕たちは自分たちの手で、感情と共に生きていく方法を、これから見つけ出していくのだ。

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