融解する世界と最後の記憶
第一章 融ける尖塔
その日、街の空は奇妙なほどに静かだった。人々が空を見上げることもなく、ただ足早にアスファルトの上を通り過ぎていく。彼らの視線の先、かつて街の誇りであった「調和の尖塔」が、まるで熱された砂糖菓子のようにゆっくりと融解しているというのに。
「またか……」
カイは尖塔を見上げる広場の中央に立ち、低く呟いた。崩壊ではない。溶解だ。物理法則を無視したその現象――『忘却の浸食』は、もはや日常の風景と化していた。人々がその歴史を、その意味を忘れたとき、建造物は世界からその姿を消していく。
だが、この尖塔は違う。昨日まで、誰もがその名を口にし、その歴史を語り継いできたはずだ。一夜にして、街の集合知からその存在意義が抜け落ちたとでもいうのだろうか。
カイはゆっくりと尖塔の土台へと歩み寄った。空気が時間粒子でわずかに揺らめき、オゾンのような微かな匂いが鼻をつく。彼は手袋を外し、ひび割れた石材にそっと指先を触れさせた。ひんやりとした感触。その奥に眠る、残留思念の渦。
目を閉じ、意識を集中させる。指先が微かに熱を帯び、やがて淡い光を放った。光が収束し、カイの指の先に、小さな、しかし完璧な形状の結晶が一つ、現れた。通常ならば、それは建立時の喜びや、何百年もの間、人々が見上げてきた畏敬の念を宿し、琥珀色や瑠璃色に輝くはずだった。
しかし、彼の指先に現れたのは、光を全く反射しない、不気味なほどに透明な結晶だった。まるで、そこにあるべき感情が、ごっそりと抜き取られたかのような――『空白の結晶』。
ポケットから古びた懐中時計を取り出す。銀製の蓋を開けると、文字盤の中央で封じられた『時の砂』が、かすかな音を立てていた。だが、尖塔に近づくにつれて、その振動は徐々に激しさを増し、今やカイの手の中でカタカタと悲鳴を上げている。消された歴史の残響に、時計が共鳴しているのだ。
広場を行き交う人々は、融けゆく尖塔にも、その下で佇むカイにも、一切の関心を払わない。彼らの顔からは表情が抜け落ち、まるで夢の中を歩いているかのようだった。この世界は、静かに狂い始めている。
第二章 空白の結晶
埃っぽいアトリエに戻ったカイは、窓から差し込む夕陽を背に、机の上に置いた透明な結晶を睨みつけていた。それはまるで、見る者の心を吸い込む虚無のようだった。
彼の能力は祝福であり、呪いでもあった。この結晶を砕いて摂取すれば、そこに宿る感情を追体験できる。だが、同時に、結晶が持つ本来の『記憶』の断片に精神が侵食される危険が伴うのだ。喜びの結晶は多幸感を、悲しみの結晶は底なしの絶望を、そして怒りの結晶は破壊衝動をもたらす。
では、『空白』は何をもたらすのか。
カイは息を呑んだ。答えの出ない問いに、思考が空転する。だが、知らねばならない。この静かな狂気の正体を突き止めるために。彼は意を決し、ピンセットで結晶の欠片を慎重に折り取ると、躊躇いが理性を上回る前に、舌の上に乗せた。
刹那、世界から音が消えた。
視界が真っ白に染まり、ノイズ混じりの映像が脳裏にフラッシュバックする。調和の尖塔。しかし、それは本来あるべき姿ではなかった。人々が互いに罵り合い、石を投げつけ、憎悪の炎が尖塔を焼いている。本来の歴史では、尖塔は民族間の和解の象徴として建てられたはずだ。この記憶はなんだ? 改竄されている。いや――上書きされているのだ。本来の『調和』の記憶の上に、偽りの『憎悪』の記憶が乱暴に塗りたくられ、そしてその両方ともが、最終的に『空白』によって消し去られている。
激しい頭痛と共に、カイは現実へと引き戻された。
「ぐっ……!」
机に手をつき、荒い息を繰り返す。これは単なる忘却ではない。何者かが意図的に、歴史を『消去』している。人々の記憶を書き換え、その感情ごと無に帰し、物理世界から存在そのものを抹消しているのだ。
第三章 時の残響
懐中時計の振動が、カイを次の場所へと導いていた。そこは、かつて「叡智の殿堂」と呼ばれた巨大な図書館の跡地だった。今では半分が溶解し、歪んだ書架が空に向かって牙を剥いている。
ここでも人々は無関心だった。かつて知識を求めて集った場所が消えゆく様に、誰も涙を流さない。時計の振動は、これまでで最も激しい。時の砂がガラスの内側で荒れ狂い、まるで嵐のようだ。
カイが瓦礫に足を踏み入れた瞬間、時計が閃光を放った。
「うわっ!」
目の前に、半透明の幻影が立ち上る。時間粒子が濃縮され、消滅した過去の情景を映し出しているのだ。書物を抱えた学者たち、議論を交わす若者たち、静かにページをめくる老婆。平和な図書館の日常。
だが、幻影は次の瞬間、ノイズと共に歪んだ。学者たちは互いの本を破り捨て、若者たちは知識ではなく、互いの無知を罵り合っている。平和な情景は一変し、そこには知性が暴走した果ての、醜い争いだけがあった。
カイは崩れた壁に手を触れた。指先に生まれたのは、深い『悲しみ』の結晶。しかし、その藍色の輝きの中に、不自然な黒い筋が混じっていた。これもまた、改竄された記憶の痕跡だった。
一体、誰が。なぜ、こんなことを。
第四章 集合的無意識の声
アトリエに戻ったカイは、ある仮説に行き着いた。もし、一つの結晶が改竄された記憶の断片なら、二つの異なる場所から採取した結晶を組み合わせれば、改竄の法則、あるいは消去された『真実』の輪郭が見えるのではないか。
彼は懐中時計の蓋を開け、尖塔で見つけた『空白の結晶』と、図書館で見つけた『悲しみの結晶』を、文字盤に刻まれた二つの刻印の上に、そっと置いた。
その瞬間、時計が甲高い音を発し、時の砂が逆流を始めた。部屋が揺れ、カイの意識は凄まじい力で肉体から引き剥がされた。光の奔流に呑まれ、時間の概念がない、どこまでも広がる思念の海へと叩きつけられる。
ここは、世界の深層。個々の意識が溶け合い、一つの巨大な流れをなす場所。
人類の『集合的無意識』の領域だった。
『……何故、眠りを妨げる』
声ではない。直接、カイの精神に響く、幾億もの人々の思念が束ねられたような、巨大な意志。
「お前がやったのか。歴史を消しているのは!」カイは思念で叫んだ。
『消去ではない。治療だ』
意志は静かに答える。カイの目の前に、ビジョンが広げられた。
第五章 削除された過ち
それは、カイが今まで見たこともない歴史の断片だった。科学技術が極限まで発達し、人々が物理的な接触を失い、あらゆるコミュニケーションが仮想空間で行われるようになった時代。人々は他者の痛みに共感する能力を失い、互いをただの記号、情報として処理するようになった。
些細な意見の相違が、瞬く間に世界規模の憎悪へと増幅された。バーチャルな戦争は、やがて現実世界を侵食し、人類は自らが作り出した情報兵器によって、互いを無慈悲に破壊し尽くした。それは、人類が犯した、あまりにも愚かで、しかし誰もが陥る可能性のある『普遍的な過ち』の記録だった。
『この記憶は毒だ』と、集合的無意識は語りかける。『この過ちを学ぶたび、人々は他者への不信を募らせ、世界は再び同じ道を辿ろうとする。その負荷が、世界そのものを不安定にし、忘却の浸食を加速させていたのだ』
自己防衛本能だったのだ。人類という種が自らを存続させるために、集合的無意識が、自らの記憶野から最も有害な「癌」を摘出しようとしていた。それが、歴史の消去の真相だった。
『我々は、この毒を削除することで、世界の崩壊を先延ばしにしている。偽りの平和かもしれぬ。だが、それは確実な破滅よりは良い』
第六章 最後の選択
カイの意識は、激しい衝撃と共にアトリエへと引き戻された。目の前の懐中時計は静まり返っているが、その文字盤の中央には、これまで見たこともない、光り輝く歯車のような幻影が浮かび上がっていた。
あれが、集合的無意識が歴史を消去している『削除機能』のコアに違いない。
カイは理解した。この機能を止めれば、消去された真実の歴史が世界に解き放たれる。人々は、自らが犯した『普遍的な過ち』を再び知ることになるだろう。それは、未来永劫、その過ちと向き合い続けるという、茨の道を歩む選択だ。
だが、このまま放置すれば、人々は何も知らぬまま、歴史という羅針盤を失い、偽りの安寧の中でゆっくりと精神的に死んでいく。どちらが正しいのか。カイには分からなかった。
偽りの楽園か、真実の地獄か。
彼は震える手で、光の歯車へと手を伸ばした。人には、過ちから学ぶ力があると信じたかった。いや、信じなければならなかった。偽りの上に築かれた未来など、砂上の楼閣に過ぎないのだから。
指先が、幻影に触れた。
第七章 再演される悲劇
パリン、とガラスが砕けるような清らかな音が、世界に響き渡った。
その瞬間、削除されていた『真実の記憶』が、奔流となって世界中の人々の意識に流れ込んだ。街角で、カフェで、オフィスで、人々は一斉に動きを止め、虚空を見つめた。彼らの瞳に、忘れ去られていた憎悪と、不信と、絶望の色が、じわりと蘇っていく。
隣人と談笑していた主婦が、相手に猜疑の目を向け始めた。笑顔で商品を渡していた店員の手が、微かに震えている。人々は、互いの中に、あの『普遍的な過ち』の萌芽を見出してしまったのだ。
カイは窓の外を見た。融解しかけていた「調和の尖塔」が、まるで時間を逆行するように、その優美な姿を取り戻しつつあった。失われた歴史が、物理世界に回帰しているのだ。
それは、一見すると世界の再生のように見えた。
だが、カイには分かっていた。これは祝福ではない。破滅への序曲だ。歴史は繰り返される。人々が再びあの過ちを犯すという、絶望的な未来が、今、確定したのだ。
風が吹き込み、カイの頬を撫でる。彼は、自らの指先に視線を落とした。
そこに、今まで見たこともないほどに深く、そして鮮やかな、真紅の結晶が生まれ始めていた。それは、街に満ち始めた、新しい『憎悪』の結晶だった。
空は、奇妙なほどに静かだった。