第一章 墨色の依頼
桐谷朔(きりや さく)の世界は、埃とインクの匂いで満たされていた。彼の工房は、時間という名の川から打ち上げられた漂着物たちのための、静かな終着駅だ。古文書修復師。それが彼の天職であり、同時に、一族に伝わる呪いでもあった。
朔の手が、虫食いだらけの和紙や、硬化した羊皮紙に触れるたび、そこに込められた「感情」の残滓が、冷たい水のように彼の精神へ流れ込んでくる。喜び、悲しみ、怒り、愛。彼は、歴史の断片に宿る名もなき人々の魂を、その身に受け止めながら生きてきた。だからこそ、朔は自らの感情を墨で塗りつぶしたかのように、常に平坦に保っていた。感情の奔流に呑まれぬための、唯一の処方箋だった。
その日、工房の古びた扉を叩いたのは、上質な黒いコートをまとった、顔に影を落とした男だった。男は身分を明かさず、ただ一つ、桐の箱を朔の作業台に置いた。
「これを、修復していただきたい」
低い、感情の読めない声だった。箱の中には、これまで朔が扱ったどの古文書とも比較にならないほど、無残に損傷した羊皮紙の束が横たわっていた。焼かれ、裂け、何か腐食性の液体を浴びたかのように溶解している。まるで、歴史そのものが断末魔の叫びを上げたかのような有様だった。
「これは…一体、いつの時代の?」
朔の問いに、男は答えなかった。ただ、こう付け加えた。「報酬は望むままに。しかし、条件が一つ。修復の過程で知り得たことは、決して口外しないと誓っていただきたい」
その夜、朔は工房の明かりの下、最初のページに手をつけた。特殊な溶液に浸した綿で、炭化した部分を慎重に拭う。その瞬間だった。
――ドォンッ!!
鼓膜が破れるほどの衝撃と、内臓を鷲掴みにされるような強烈な「喪失感」が、朔の全身を貫いた。それは、ただ悲しいのではない。世界から色が、音が、意味が、根こそぎ奪われたかのような、絶対的な虚無。朔は椅子から転げ落ち、床に蹲って喘いだ。これまで幾多の悲劇に触れてきたが、これほど純粋で、濃密な絶望は初めてだった。
この羊皮紙には、一体何が記録されているというのか。これは、ただの歴史の記録ではない。何か、得体の知れないもののカルテ(診療録)のように思えた。
第二章 琥珀色の追憶
苦痛に耐えながらも、朔は修復作業を続けた。彼の仕事は、失われたものを繋ぎ合わせることだ。それがたとえ、自らの精神を削る行為であったとしても。不思議なことに、損傷の激しい冒頭部分を過ぎると、羊皮紙の状態は比較的良好になった。そして、流れ込んでくる感情もまた、嘘のように穏やかなものへと変わっていった。
インクの染みを浮かび上がらせ、文字を解読していく。それは、ある共同体の、牧歌的な日々の記録だった。
『今日は、一番下の娘が初めて自分の足で立った。彼女が踏みしめた大地は、太陽の光を浴びて琥珀色に輝いていた』
その一文に触れた瞬間、朔の脳裏に、柔らかな陽光が満ちる草原の風景が広がった。幼子の上げた歓声、それを見守る母親の慈愛に満ちた眼差し。温かい風が頬を撫で、花の蜜の甘い香りが鼻腔をくすぐる。朔は、何十年も前に忘れてしまった、純粋な幸福感に包まれた。それは彼の記憶ではなく、千年も二千年も前の、名もなき誰かの追憶だ。
修復を進めるにつれ、朔は日記の書き手の人生を追体験していった。友との語らい、恋人との初めての口づけ、収穫祭の夜に響き渡る音楽と人々の笑い声。流れ込んでくるのは、いずれも生命の喜びに満ちた、温かい感情ばかりだった。
朔は知らず知らずのうちに、この名もなき一族に、そして日記の書き手に、深い共感を覚えていた。いつもは固く閉ざしている心の扉が、少しずつ開いていくのを感じる。感情を受け入れることは、苦痛だけではなかった。それは、乾いた心に潤いを与える、恵みの雨にもなり得るのだ。
彼はいつしか、この羊皮紙を修復すること自体に、喜びを見出していた。この美しい日々を、失われた歴史を、自分の手で蘇らせる。その使命感が、彼を突き動かしていた。
しかし、日記が後半に差し掛かる頃、その穏やかな世界に、最初の不協和音が響き始める。
『最近、空から奇妙なものが降ってくる。雪ではない、白く、軽い灰のようなものが』
その記述に触れた朔の指先から、じわりと冷たい「不安」が染み込んできた。琥珀色に輝いていた世界に、初めて影が落ちた瞬間だった。
第三章 灰色の予兆
『灰の降る日は、日増しに増えていった。長老たちは、山の神の怒りだと言う』
日記の記述は、次第に不穏な色を帯びていく。朔が追体験する感情も、「不安」から「恐怖」へとその濃度を増していった。草原の草は色褪せ、川の魚は腹を上にして浮いた。共同体を満たしていた笑い声は、咳の音と、すすり泣きに変わっていった。
朔は、まるで自分がその共同体の一員であるかのような錯覚に陥っていた。仲間たちが次々と病に倒れていく無力感。原因不明の厄災に対する、先の見えない恐怖。彼は食事も睡眠も忘れ、羊皮紙にのめり込んでいった。この悲劇の顛末を、一刻も早く知らなければならない。それはもはや、修復師としての義務感だけではなかった。
『空が、病んでいる。かつて青く澄み渡っていた空は、今は常に灰色の帳に覆われている。太陽の光さえ、弱々しい』
朔は、その一文から伝わる深い「絶望」に、思わず手を止めた。窓の外を見る。彼の住む街の空は、当たり前のように青く広がっていた。しかし、羊皮紙の中の世界では、その当たり前が失われつつあった。彼は、自分が享受している日常が、いかに脆く、奇跡的なものであるかを痛感させられた。
そして、ついに朔は、日記の最終部分、冒頭と同じく最も損傷の激しいページにたどり着いた。ここが、全ての謎の核心だ。彼は震える手で、最後の修復に取り掛かった。炭化した繊維を一本一本取り除き、残されたインクの痕跡を繋ぎ合わせていく。
そこに現れたのは、文字ではなかった。それは、稚拙ながらも、見た者の恐怖をありありと伝える一枚の「絵」だった。
地平線の彼方から、天にまで届く巨大な柱が立ち上っている。その先端は大きく広がり、不気味な茸のような形をしていた。
そして、その絵の脇に、震えるような筆跡で、最後の言葉が記されていた。
『我々は、自らの手で太陽を消してしまった。神よ、我々は何という過ちを』
瞬間、朔の精神に、あの最初の「喪失感」が、 이전의 몇百倍もの津波となって押し寄せた。これは、神の怒りでも、自然災害でもない。人為的な、あまりにも愚かで、取り返しのつかない大破壊の記録だった。彼が温かい追憶として体験した美しい世界は、そこに住む人々自身の手によって、一瞬にして焼き尽くされたのだ。
第四章 未来のための修復
意識が朦朧とする中、朔は最後の力を振り絞り、羊皮紙の片隅に記された、小さな図形に目を留めた。それは、いくつかの点を線で結んだ、単純な星図のように見えた。見慣れない星座だ。彼は、何かに導かれるように立ち上がり、工房の天窓を開けた。
夜の冷たい空気が、火照った頬を撫でる。満天の星が、静かに輝いていた。朔は、羊皮紙に描かれた星図と、実際の夜空とを見比べる。そして、全身の血が凍りつくような事実に気づいた。
星の配置が、完全に一致している。
だが、そんなはずはない。数千年の時が経てば、歳差運動によって星座の形は僅かずつ変化していくはずだ。古代の記録と現代の星空が、寸分の狂いもなく一致することなどあり得ない。
――除非、この記録が、過去のものではなかったとしたら?
脳裏に、雷に打たれたような衝撃が走った。そうだ、なぜ気づかなかった。この羊皮紙、このインク、素材がどれも、彼の知らない技術で作られていた。彼はそれを未知の古代技術だと解釈していた。だが、もし、それが未来の技術だったとしたら?
この羊皮紙は、過去の遺物ではない。これは、遥か未来から送られてきた、「警告」なのだ。
朔が修復していた歴史とは、我々がこれから歩むかもしれない、可能性の一つとしての未来の姿だった。桐谷家が代々受け継いできた能力と使命。それは、過去の感情を追体験することではなかった。未来に起こりうる悲劇を、その感情ごと追体験し、同じ過ちを繰り返させないために、歴史の分岐点に標を立てることだったのだ。
「…やはり、気づいたか」
背後から、静かな声がした。振り返ると、あの黒いコートの男が、いつの間にか立っていた。
「我々は、君のような人間を『観測者』と呼ぶ。我々の役目は、様々な可能性の中から、最悪の未来の記録を収集し、それを君たち修復師に託すことだ。君たちの仕事は、ただの保存作業ではない。未来を綴じ、より良い道筋へと導くための、神聖な医療行為なのだよ」
朔は、男の言葉を呆然と聞いていた。自分の仕事が、過去ではなく、未来に向けられたものだったという事実。彼が感じてきた痛みや苦しみは、全て未だ見ぬ誰かを救うためのものだったのだ。
「なぜ、私に?」
「君の一族は、感情への感受性が最も強い。痛みを知る者でなければ、本当の意味で未来を救うことはできないからだ」
男は、修復された羊皮紙を手に取り、静かに言った。「君は、この未来のカルテを完成させた。これで、我々はこの悲劇を回避するための一歩を踏み出せる。…桐谷朔君、真実を知った上で、君はこれからも、この仕事を続けるかね?」
朔は、自分の両手を見つめた。インクと薬品に汚れ、無数の傷が刻まれた手。この手は、ただ紙を繕うためだけにあるのではない。未来を、そこに生きる人々の笑顔を、琥珀色の日々を守るためにあるのだ。
彼がこれまで呪いだと感じてきた、感情の追体験という能力。それは、未来の人々の喜びも悲しみも、自分のことのように感じ、決して見捨てないための、祝福だったのかもしれない。
朔は顔を上げ、穏やかな、しかし揺るぎない声で答えた。
「ええ。これは、僕の仕事です。過去のためではなく、未来のために」
彼の工房には、再び静寂が戻った。しかし、その静寂は、もはや虚無の色をしていなかった。窓の外に広がる、まだ失われていない青い空。それを守るという、静かで、しかし確かな使命感が、彼の胸を満たしていた。朔は、新たな依頼を待つように、修復机を丁寧に磨き始めた。彼の戦いは、まだ始まったばかりだった。