クロノスの天秤
第一章 色彩の質量
俺、水上律(みなかみ りつ)には、世界が他の人間とは少し違って見えている。それは比喩ではない。例えば、この古書店が立ち並ぶ神保町の裏路地。行き交う人々にはただの古びた石畳だろうが、俺の目には百年の時が堆積した深い琥珀色の光の層として映る。一歩踏みしめるたびに、足元から歴史の『質量』がずしりと伝わってくるのだ。
壁に寄りかかれば、煉瓦一枚一枚に染み込んだ幾人もの人々の吐息や、過ぎ去った季節の匂いが、淡い光の粒子となって滲み出してくる。歴史とは、記録された文字や映像だけではない。それは、場所に、物に、空間そのものに蓄積される重みであり、密度なのだ。俺はその『質量』を、色彩として知覚できる。
古いものほど色は濃く、重い。建立千年を超える寺社の柱は、ほとんど黒に近い深紫の光を放ち、手を触れると世界の始まりの重力が指先にのしかかるような錯覚さえ覚える。逆に、出来たばかりの建築物は色が薄く、まるで存在そのものが宙に浮いているように軽い。この能力がいつから備わったのかは分からない。物心ついた時には、世界は鮮やかな歴史の色で満ちていた。
祖父はこの能力を『調律の目』と呼んだ。そして、死ぬ間際に一つの小さな羅針盤を俺に託した。「世界がその重みに耐えきれなくなった時、これがお前を導く」と。黒曜石のように滑らかな円盤の中央には、乳白色の結晶が埋め込まれている。世界の最も深い地層、原初の記憶から削り出されたという『真理の羅針』。それはただ静かに、俺の掌で冷たい光を宿していた。
第二章 欠けた風景
異変は、ある晴れた火曜日の午後に起きた。
いつものように大学からの帰り道、駅前の広場を通りかかった時のことだ。ふと、空気が『軽く』なった。それは、重いコートを脱ぎ捨てた時のような、奇妙な解放感。だが、俺にとっては恐怖の始まりだった。
視線を上げる。そこにあるはずのものが、なかった。街のシンボルだった、百年物の機械式時計台。その重厚な煉瓦造りの塔が放っていた、幾重にも重なった錆色の光と、真鍮の歯車が刻む時間の密度が、跡形もなく消え失せていたのだ。
「え……?」
そこには、ガラス張りのモダンなカフェが建っていた。人々は何も気づかず、テラス席で談笑し、新しい店のコーヒーの香りを褒めている。誰も、ついさっきまでそこに荘厳な時計台が聳え立っていたことなど覚えていない。彼らの記憶からも、時計台という存在の『質量』が完全に抜け落ちていた。
俺は自分の目を疑い、周囲を見回す。だが、世界は何も変わらない顔で続いている。ただ、俺の目だけが、ぽっかりと穴が空いたように色彩と重みを失った空間を捉えていた。風の音も、光の差し込み方も、何もかもが薄っぺらく、虚ろに感じられる。まるで、分厚い本のページがごっそりと引き裂かれ、物語に不自然な空白が生まれたかのように。
歴史が、死んだのだ。
ポケットの中で、『真理の羅針』が微かに震えているのを感じた。
第三章 羅針の囁き
自室に戻った俺は、机の上に『真理の羅針』を置いた。結晶は不安げに明滅を繰り返している。俺は震える指でそれに触れた。失われた時計台の歴史を取り戻したい。いや、せめて何がそこにあったのか、その証だけでも感じ取りたかった。
「頼む……見せてくれ」
祈るように呟くと、羅針の結晶が脈打ち、冷たい光を放った。途端に、部屋の空気が急速に密度を増していく。目の前に、失われた時計台の幻影が陽炎のように立ち昇り始めた。
煉瓦を一つ一つ積み上げる職人の、汗の匂い。完成を祝う人々の歓声。初めて鐘が鳴り響いた時の、空気を震わせる荘厳な音。鳩が舞い、恋人たちが待ち合わせ、子供たちが駆け回った、数えきれない日々の断片。それら全てが、凝縮された光の奔流となって俺の意識に流れ込んでくる。それは、ただの映像ではない。喜びも、悲しみも、希望も、後悔も、その場所に刻まれた感情の全てが、奔流となって俺の心を打った。
「ああ……!」
あまりの情報の奔流に、俺は膝から崩れ落ちた。幻影が消え去った後、部屋には静寂だけが残った。そして、机の上の羅針盤に目をやった俺は、息を呑んだ。乳白色の結晶の縁が、ほんの僅かだが、砂粒のように欠けていた。
力を使うたびに、この羅針は失われていく。失われた歴史の重みを一時的に呼び戻すことは、世界の始まりの記憶を削り取ることと同義だったのだ。それでも、俺は突き止めなければならない。誰が、何のために、世界から歴史を盗んでいるのかを。
第四章 薄れゆく世界
時計台の消失は、始まりに過ぎなかった。
それから数ヶ月、歴史の消失はまるで伝染病のように世界中に広がっていった。ある朝目覚めると、偉大な音楽家の肖像画が美術館から消え、誰も彼の旋律を口ずさめなくなっていた。図書館へ行けば、かつて読み耽った英雄譚が記された本が、全く別の物語に置き換わっていた。人々はそれに気づかない。彼らの世界では、初めからその音楽家も英雄も存在しなかったことになっているのだ。
世界は急速にその色彩と深みを失い、薄っぺらな書き割りのように変質していく。友人の会話の中に、かつて共有したはずの思い出の痕跡が消えていることに気づいた時、俺は耐え難い孤独に襲われた。俺だけが、失われたものの形を、その温もりを、重みを覚えている。
調査を進めるうち、ある法則性に気づいた。消されていくのは、人々の記憶から薄れかけた歴史や、争いの火種となった悲劇的な出来事が多かった。まるで、誰かが意図的に、世界の『重荷』を下ろそうとしているかのように。これは、無差別な破壊ではない。冷徹な意思を持った『選別』だ。
俺は、祖父の遺した言葉を思い出した。「世界がその重みに耐えきれなくなった時……」。まさか。この現象は、世界の崩壊を防ぐための行為だというのか?だが、そうだとしても、人々の生きた証を無慈悲に消し去ることが許されるはずがない。
『真理の羅針』の針は、ただ一点を指して震えていた。世界の最深部、全ての歴史が始まった場所――『原初の地層』を。
第五章 原初の光
羅針の導きに従い、俺が辿り着いたのは、地図上のどこにも記されていない地の底だった。そこは、時間の概念すら曖昧になるような空間。空気はまるで水銀のように重く、一歩進むごとに全身が軋む。そして、目の前には、想像を絶する光景が広がっていた。
ありとあらゆる時代の、ありとあらゆる場所の歴史の色が、巨大な光の渦となって渦巻いている。琥珀、深緋、瑠璃、月白。無数の色彩が混ざり合い、一つの巨大な意識体を形成していた。人ならざる存在。それが、そこにいた。
『よくぞ来た、調律の子よ』
声ではない。直接、脳に響く思念だった。暖かく、そして無限に古い。
「お前が……歴史を消しているのか」
『消しているのではない。間引いているのだ』
光の集合体――『世界の真の記憶』とでも呼ぶべき存在は、静かに語り始めた。世界は、生命と同じように生まれ、そして死ぬ。時間の経過と共に堆積する歴史の『質量』は、喜びも悲しみも等しく世界に降り積もり、やがてその重みが臨界点を超えた時、世界は自重によって崩壊するのだという。
『私はこの世界が生まれた時からの記憶そのもの。永い間、肥大しすぎた歴史の層を少しずつ削ぎ落とし、世界の寿命を延ばしてきた。だが、私の力もまた、摩耗しつつある』
思念が俺の心を貫く。
『そなたのその目は、次の役目を担うために与えられたもの。新たな世界の調律師となるために』
世界の浄化でも、再構築でもない。それは、あまりにも悲しい延命措置だった。世界を愛するが故に、その一部を切り捨て続ける、永遠の営み。そして、その残酷な役目を、俺が引き継げというのか。
第六章 選択の刻
俺は激しく葛藤した。守るべき世界と、消し去られるべき歴史。その天秤の上で、俺の心は引き裂かれそうだった。人々の笑顔も、涙も、過ちさえも、全てがかけがえのないものではないのか。それを『間引く』権利が、誰にあるというのだ。
俺は最後の力を振り絞り、『真理の羅針』を強く握りしめた。結晶が大きく欠けるのを覚悟で、一つの記憶を再生する。
それは、俺が幼い頃、今はもうない田舎町の夏祭りの光景だった。今は亡き祖母の、温かい手の感触。夜店が放つ甘い綿飴の匂い。夜空に咲いては消える花火の儚い光と、その音に驚いて泣き出す幼い俺をあやす人々の優しい笑い声。
その祭りも、その町も、とうに歴史の層から剥がれ落ち、今では誰の記憶にも残っていない。だが、確かにそこにあったのだ。人々のささやかで、しかし宝石のように輝かしい生きた証が。
涙が頬を伝った。失われたものは、戻らない。しかし、忘却の中に全てを葬り去っていいはずがない。
光の渦が静かに俺の決断を待っている。
俺は顔を上げた。瞳には、再生された夏祭りの光の残滓が揺らめいていた。
「……分かった。俺が引き受けよう」
それは降伏ではなかった。失われゆく全ての歴史に対する、最大限の敬意と愛情を込めた、俺なりの宣戦布告だった。消えゆくものの痛みを、その重みを、俺だけは決して忘れない。その全てを背負って、俺はこの世界の均衡を保ってみせる。
第七章 孤独な守り手
俺は、新たな『間引く者』となった。世界の歴史を間引き、その寿命を延ばす、孤独な守り手。
俺の見る世界は、以前とは全く違って見えた。一つ一つの歴史の色が、いつか消えゆく運命にあることを知ってしまった今、その輝きは以前にも増して儚く、そして尊く感じられる。街角の何気ない風景も、人々の他愛ない会話も、その全てが愛おしい。
時折、俺は大きく欠けてしまった『真理の羅針』を手に、失われた歴史の断片をそっと再生する。誰も知らない英雄の最後の雄叫びを聴き、忘れられた王国の祭りの音楽に耳を澄ます。そして、その重みを、その尊さを、俺の魂に深く刻みつける。
世界は存続する。人々は何も知らず、昨日と同じように笑い、明日を夢見るだろう。それでいい。その当たり前の日常を守るためなら、俺は喜んでこの永遠の孤独を受け入れよう。
今日もまた、世界のどこかで一つの歴史の色が、静かにその輝きを失っていく。俺はただ、その光が完全に消え去るまで、じっと見つめ続ける。その瞳に、失われた無数の歴史の色彩を宿しながら。
それが、俺に与えられた宿命なのだから。