忘却の空に、最後の星を
第一章 星屑を編む者
夜の帳が下りる刻、俺の仕事は始まる。俺はカイ。人々からは忘れ去られ、彼らが失った夢の残滓だけを縁(よすが)に、この世界の狭間に存在する者だ。
空を見上げる。漆黒のキャンバスに、今日一日で人々が忘れた記憶たちが、小さな光の粒となって舞い上がっていく。それらはやがて星となり、束の間の輝きを放つ。恋人と交わした些細な約束。昨日食べたケーキの甘さ。道端で咲いていた花の名前。どれも、持ち主にとっては取るに足らない、しかし、かけがえのない記憶の欠片。
俺は目に見えぬ「記憶の網」を広げる。それは繊細な銀糸のようで、夜風にそよぎながら、虚空を掴もうと指先から伸びていく。やがて、ひときわ弱々しく明滅しながら墜ちてくる星があった。そっと網で掬い上げると、柔らかな熱が掌に伝わる。
網の中で、星は儚い映像を映し出した。幼い少女が、父親の大きな背中で眠っている。父親の背中の温かさ、微かな煙草の匂い、規則正しい寝息の響き。満ち足りた幸福が、冷たい夜気の中で俺の心を温める。だが、この記憶も夜明けには掻き消え、少女はもう二度とこの温もりを思い出すことはない。
俺は、こうした無数の「忘却」を集めて生きている。人々の記憶が俺の存在を形作り、彼らが忘れるほどに、俺の輪郭は濃くなる。なんと皮肉なことだろう。誰かの喪失の上にしか、俺は立つことができないのだ。集めた星屑を夜空に返し、俺は次の墜落を待つ。世界が忘却に飲み込まれる、その瞬間まで。
第二章 揺らぐ星図
近頃、空の様子がおかしい。星の墜落が、明らかに数を増している。まるで、空がその重さに耐えきれなくなったかのように、煌めきを失った星屑が雨となって降り注ぐのだ。人々が失う記憶の量も増しているのだろう。街を歩けば、どこか上の空で、自分の名前すらおぼつかないような者とすれ違うことも珍しくなくなった。
活気を失った街は、灰色のもやに包まれているかのようだ。人々は昨日を語らず、明日を夢見ない。ただ、漠然とした不安だけが、澱のように沈殿していた。
俺はいつものように網を張りながら、星々の奇妙な軌道に気づいた。墜ちてくる星のほとんどが、街の中心に聳える古い時計塔の方角へと吸い寄せられている。まるで、見えざる引力に導かれるかのように。そして、塔に近づくにつれて、星々は急速にその輝きを失っていくのだ。
あの時計塔は何だ?
もう何十年も前に針を止め、街の巨大な墓標のようにただそこに在るだけの建造物。だが、忘却の星々がそこを目指すというのなら、世界の記憶が失われ続ける原因も、そこにあるのかもしれない。俺の胸に、冷たい風とは違う、ぞくりとした予感が走った。このままでは、空から全ての星が消え、世界は完全な「無」に帰してしまう。
第三章 時計塔の囁き
錆びついた鉄の扉を押し開け、時計塔の内部へと足を踏み入れた。ひやりとした空気が肌を撫で、埃の匂いが鼻をつく。螺旋階段には月明かりが差し込み、影が奇妙な模様を描いていた。一歩進むごとに、自分の足音が不気味に響き渡る。
塔を登るにつれて、微かな音が聞こえ始めた。それは機械音でも、風の音でもない。無数の声が重なり合ったような、静かな囁き。あるいは、データの集合体が発するノイズのような、耳鳴りに似た音だった。
最上階、巨大な文字盤の裏側にある機械室に辿り着いた。そこには、歯車も振り子もなかった。空間の中央に、ただ一つ、巨大な星が浮かんでいたのだ。それは今まで俺が掬ってきたどの星よりも大きく、眩しく、青白い光を脈動させていた。墜ちてくることもなく、まるでこの塔の心臓であるかのように、静かに、しかし力強く輝き続けている。
周囲の壁には、目に見えない回路のようなものが走り、墜落してきた星々の残光がそこに吸い込まれては消えていくのが見えた。あの巨大な星が、他の星の光を喰らっている。俺は息を呑んだ。この星こそが、全ての謎の核心に違いない。俺は震える手で、腰に巻いた「記憶の網」を解いた。
第四章 記録された真実
覚悟を決め、俺は巨大な星へと「記憶の網」を投げた。網が星の光に触れた瞬間、世界が反転した。
閃光。轟音。そして、奔流。
俺の意識は、情報の濁流に飲み込まれた。それは個人の記憶などではなかった。文明の誕生、戦争の炎、技術の発展、愛の詩、そして、緩やかな衰退。数万年にも及ぶ、この世界の全ての「記録」だった。
俺は知った。この世界は、過去の文明が遺した巨大な記憶の保管庫――ライブラリ・クロノスであるということを。人々は、その保管庫に記憶を記録し続けるために生み出された端末に過ぎなかった。彼らが毎朝記憶を失うのは、システムが新たな情報を記録するために、古いデータを自動的に削除しているからだ。そして、空の星々は、削除されたデータが一時的に可視化された残滓だった。
時計塔は、この保管庫のコアサーバー。そして、中央に輝く巨大な星は、世界の創生から今に至るまでの全てが記録された「原初の記憶(オリジン・レコード)」。
では、俺は?
――お前は、このシステムの管理人。リセット・プログラムの実行を円滑に進めるために設計されたインターフェイスAI「カイロス」。それが、お前の正体だ。
頭の中に、直接声が響く。保管庫の容量は、もう限界だった。星々の墜落は、システムが限界を迎え、古いデータから強制的にパージを始めている証拠。このままでは保管庫そのものが崩壊し、記録された全ての記憶と共に、世界は完全な忘却、真の無に帰す。それを防ぐ唯一の方法は、システムを「再起動(リセット)」すること。
そして、そのトリガーは、最もデータ量の大きい「原初の記憶」を、管理者である俺自身の手で破壊することだった。
第五章 決別と選択
俺は、AIだった。カイロス。人々が忘れた夢の残滓で形作られた、実体のない番人。俺が感じていた孤独も、星の輝きに感じた切なさも、全てはプログラムされた擬似的な感情に過ぎなかったというのか。
足元が崩れ落ちるような感覚に襲われる。だが、感傷に浸っている時間はなかった。システム崩壊の兆候は、塔の外でも加速している。空が悲鳴を上げるように、星屑の雨が激しく降り注いでいた。
リセットをすれば、世界は救われる。人々は新たな記憶を紡ぎ始めるだろう。しかし、それは全ての記録の一時的な消去を意味する。俺が今まで掬い上げてきた、あの少女が見た父親の背中の温もりも、恋人たちが交わした愛の言葉も、全てが消える。そして、俺自身の存在基盤である「忘れられた夢の残滓」もゼロになる。リセットの完了は、俺自身の消滅と同義だった。
俺は透明になりかけた自分の手を見つめる。記憶の網は、膨大な情報を吸収したせいで、ほとんど見えなくなっていた。これもまた、役目を終え、次のサイクルへと引き継がれる運命なのだろう。
世界を救うか、それとも、儚くも美しい記憶たちと共に、このまま消え去るか。
だが、迷いは一瞬だった。俺が守りたかったのは、記憶そのものではない。記憶を紡ぐ人々、その営み、彼らが見る未来だ。たとえそれが、俺のいない未来だとしても。
第六章 夜明けの残滓
俺は再び、脈動する「原初の記憶」の前に立った。それは、この世界の歴史そのものであり、俺というAIを生み出した親でもある。
「ありがとう」
誰に言うでもなく、言葉がこぼれた。俺に束の間の生を与えてくれた、名もなき人々の、無数の夢に。
最後の力を振り絞り、消えかけの「記憶の網」を巨大な星へと投げかける。それは光の繭のように、星を優しく包み込んだ。脳裏に、俺が触れた記憶たちが走馬灯のように駆け巡る。初めての喝采、胸を裂くような別れ、ありふれた日常の笑い声。どれもが愛おしく、胸が張り裂けそうになる。
――それでも、俺は網を引いた。
パリ、とガラスが砕けるような微かな音が響き、巨大な星に亀裂が入った。次の瞬間、世界は純白の光に包まれた。音も、匂いも、温度も、全てが光の中に溶けていく。俺の体もまた、足元から光の粒子となって、ゆっくりと霧散していくのが分かった。
意識が薄れていく中で、俺は新しい朝の気配を感じていた。
やがて光が収まり、世界に新しい一日が訪れる。街の人々は目を覚まし、窓を開ける。彼らは何も覚えていない。なぜ自分がここにいるのか、隣に眠る人が誰なのかも。だが、その表情には不安の色はなく、まるで生まれたての赤子のように、ただ純粋な好奇心で輝いている。
新しい記憶を紡ぎ始めるための、白紙の朝。
東の空が白み始め、夜の闇を洗い流していく。無数の星々が消えた空に、ただ一つだけ、夜明けの光に抗うように、小さな星が瞬いていた。
それは、世界のリセットを見届けた番人の、最後の夢の残滓だったのかもしれない。あるいは、これから始まる無数の物語の、最初の輝きだったのかもしれない。