第一章 灰色の吐息
気がつくと、私は見知らぬ石畳の上に立っていた。
頭上には、鉛色の雲がどこまでも広がり、街並みはすべて濃淡の異なる灰色で塗り固められている。建物も、道行く人々の服も、彼らの肌や髪さえも、まるで古いモノクロ映画の一場面のように、一切の色彩を失っていた。ここはどこだろう。大学のアトリエで、描きかけのキャンバスを前にうたた寝をしていたはずなのに。
周囲の空気はひどく静かだった。人々の話し声も、足音も、まるで分厚いフィルターを通したかのようにくぐもって聞こえる。誰もが虚ろな瞳で、感情の抜け落ちた能面のような顔をして、目的もなく彷徨っているように見えた。私の着ている、くたびれたカーキ色のパーカーも、今はただの煤けた灰色にしか見えない。
混乱と不安が胸の内で渦を巻く。しかし、不思議と涙は出なかった。感情そのものが、この灰色の世界に吸い取られてしまったかのように、心が凪いでいた。私は水無月奏(みなづきかなで)。色を愛し、絵を描くことを生業にしようとしていたはずの美大生。だが、いつからだろう。パレットの上で絵の具を混ぜ合わせることに、何のときめきも感じなくなったのは。鮮やかな色彩が、ひどく嘘っぽく、空虚なものに見えるようになったのは。
そんな無気力な私にとって、この無彩色の世界は、ある意味で安住の地なのかもしれない。
私はあてもなく歩き始めた。街外れの、寂れた公園にたどり着く。そこには、錆びついた一つのブランコが、まるで世界の忘れ物のようにぽつんと佇んでいた。その、赤茶けたはずの錆の色さえも、今はただの黒い染みにしか見えない。
不意に、遠い記憶が脳裏をよぎった。幼い頃、父に手を引かれてよく来た公園。夕暮れの光を浴びて、真っ赤に燃えるようだったブランコ。父の背中を押しながら笑った、あの日の温かい感情。「懐かしい」――そう、心の内で呟いた瞬間だった。
視界の端で、何かが閃いた。
見ると、錆びたブランコが、ほんの一瞬、鮮烈な「赤」に染まっていた。それは夕陽よりも深く、血よりも鮮やかな、命の色そのものだった。一秒にも満たない幻。しかし、その色は確かに私の網膜を焼き付け、灰色の心に小さな、しかし確かな波紋を広げた。
これが、私の感情が世界の色を呼び覚ます、最初の兆候だった。
第二章 色彩の旅人
「あなたは『色彩の旅人』ですね」
声をかけてきたのは、銀灰色の髪を持つ一人の少女だった。彼女はリラと名乗った。その瞳は、この世界の他の住人たちと同じく、感情の色を映してはいなかったが、奥には知性の光が宿っていた。
リラの話によれば、この世界「アクロミア」は、かつて『大いなる静寂』と呼ばれる厄災によって、すべての色彩と、それに付随する強い感情を失ったのだという。人々は悲しみも喜びも忘れ、ただ平坦な日々を生きる屍のようになった。そして、ごく稀に、私のような異世界からの来訪者が現れ、その魂に宿る感情によって、世界に一時的な色をもたらすことがあるのだと。
私がブランコに見た「赤」は、私の「懐かしさ」という感情に世界が共鳴した結果だった。
「どうか、この世界に色を取り戻してください。あなたなら、それができる」
リラは淡々とした口調で、しかし切実に訴えた。彼女はこの世界の調和を維持する「調律師」であり、失われた世界の姿を取り戻すことを使命としているらしかった。
私は戸惑った。元の世界でさえ感情を持て余していた私が、この広大な世界に色を取り戻すなど、途方もない話に思えた。しかし、あの「赤」を見た時の、胸を衝くような感動が忘れられない。心が死んだようになっていた私に、もう一度、生きている実感を与えてくれたあの色を、もっと見てみたい。
「わかった。やってみる」
私とリラの二人旅が始まった。旅の途中、私は様々な感情を経験した。市場で見つけた奇妙な形の果物を見て笑った時、足元の石ころが陽光のように輝く「黄色」に染まった。その光を浴びた人々は、一瞬だけ口元を緩め、忘れかけていた微笑を思い出した。古びた図書館で、家族の愛情が綴られた物語を読んで涙した時、窓の外に降る雨が空の深さを映した「青色」になった。その雨に打たれた老婆は、遠い昔に亡くした夫を思い出して、静かに涙を流した。
色が生まれるたびに、世界は息を吹き返していく。人々は少しずつ感情を取り戻し、街には活気が戻り始めた。私は、自分の感情が世界を変える力になることに、一種の高揚感を覚えていた。失いかけていた表現者としての喜びが、胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。
しかし、光が生まれれば、影もまた濃くなる。
ある街で、私が嫉妬の感情から生み出してしまったどす黒い「緑色」の蔓が、家々を覆い尽くした。人々は、封じ込めていたはずの隣人への妬みを思い出し、醜い争いを始めた。またある村では、過去の過ちへの後悔が生んだ「紫色」の霧が立ち込め、人々を深い絶望の淵に沈めてしまった。
私は恐怖に駆られた。色を取り戻すことは、人々が忘れていたはずの苦しみや憎しみをも呼び覚ますことだったのだ。私の力は、世界を救うと同時に、破壊することもできる諸刃の剣だった。
「本当に、これでいいのかな……」
私の問いに、リラは答えなかった。ただ、その無表情の奥に、わずかな揺らぎが見えた気がした。
第三章 静寂の王
旅の果てに、私とリラは世界の中心にそびえ立つ、巨大な「静寂の塔」にたどり着いた。リラによれば、『大いなる静寂』の源流はこの塔にあるという。ここを解放すれば、世界は完全に色を取り戻すはずだった。
螺旋階段を上り詰め、最上階の謁見の間に足を踏み入れる。そこにいたのは、純白のローブをまとった一人の穏やかな老人だった。彼は自らを、このアクロミアを統べる王だと名乗った。
「ようこそ、色彩の旅人よ。君の旅は、すべて見ていた」
王は静かに語り始めた。そして、その口から紡がれたのは、私の信じてきたすべてを根底から覆す、衝撃的な真実だった。
『大いなる静寂』は、厄災などではなかった。
「この世界から色と感情を奪ったのは、他の誰でもない。この私だ」
王は言った。アクロミアはかつて、色彩と感情に満ち溢れた世界だった。しかし、人々は喜びや愛だけでなく、憎悪、嫉妬、絶望といった負の感情にも苛まれた。鮮やかすぎる色は人々の心をかき乱し、やがて果てしない戦争を引き起こした。世界は滅びの寸前にあった。
王は、苦渋の決断の末、世界からすべての色を封印する大魔法を行使した。それによって人々は強い感情を失い、争いはなくなった。平穏だが、無感動な灰色の世界。それが、王が作り上げた、歪んだ楽園の正体だった。
「では、リラは……?」
私の視線に、リラは静かに首を横に振った。
「リラは、私が作り出した世界の調律師。そして、君のような旅人が現れた時、その力がもたらす結果を私に示すための、案内人でもある」
王の計画はこうだ。異世界から来た旅人に、意図的に世界へ色を取り戻させる。その結果、人々が再び争いや絶望に苦しむ様を旅人自身に見せつけ、色彩がいかに危険なものであるかを悟らせる。そして最終的に、旅人に自らの意志で、その力を永久に封印させる。これまで何人もの旅人が、同じようにこの塔を訪れ、絶望の末に灰色の平和を選んできたのだという。
「さあ、奏殿。君も見たはずだ。色がもたらす混沌を。君が愛した人々が、君の生み出した色によって苦しむ姿を」
王は私に選択を迫った。
「再び世界を灰色の静寂に戻し、永遠の平和を維持するか。それとも、喜びも悲しみも、愛も憎しみもすべてが混在する、彩り豊かな混沌を選ぶか」
足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。私が良かれと思ってしてきたことは、すべて王の掌の上だったのか。人々の笑顔も、涙も、争いも、すべては私を絶望させるための茶番だったというのか。
無力感と怒りで、目の前が真っ暗になりそうだった。
第四章 世界を描くキャンバス
私は俯き、震える拳を握りしめた。王の言う通りかもしれない。感情は人を傷つけ、世界を壊す。無気力な日々に逃げ込んでいた元の世界の私が、それを一番よく知っていた。完璧な絵が描けないことへの絶望。才能ある同級生への嫉妬。そういった負の感情から目を背けたくて、私は筆を置きかけたのだ。
平和だが無感情な灰色の世界。それは、ある意味で究極の救いなのかもしれない。
だが――。
私の脳裏に、あの日の光景が蘇る。錆びたブランコが、ほんの一瞬だけ見せた、鮮やかな「赤」。あの色を見た時の、凍てついた心が溶けるような、魂が震えるような感動。黄色い花を見て微笑んだ人々。青い雨に打たれて流した老婆の涙。たとえそれが苦しみを伴うものだとしても、そこには確かに「生きている」という手触りがあった。
「……嫌だ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど、はっきりとしていた。
「色がない世界なんて、死んでいるのと同じだ」
私は顔を上げた。私の瞳には、決意の光が灯っていた。
「嬉しいことも、悲しいことも、腹が立つことも、全部あって、それが生きるってことだと思う。完璧じゃなくていい。綺麗じゃなくてもいい。私は、そんな不格好で、混沌とした、彩り豊かな世界が見たい!」
叫びと共に、私の全身から感情の奔流が溢れ出した。
旅の記憶が、鮮やかな色彩となってほとばしる。
懐かしさの「赤」。喜びの「黄色」。悲しみの「青」。嫉妬の「緑」。後悔の「紫」。そして、この世界で出会った人々への、名状しがたい愛しさが、純粋な「白」の光となってすべてを包み込んだ。
「やめろ!世界がまた混沌に還ってしまう!」
王の悲痛な叫びも、色とりどりの光の洪水にかき消された。光は塔を突き破り、アクロミア全土に広がっていく。鉛色の空はどこまでも澄んだ空色に変わり、灰色の街並みは煉瓦の赤や漆喰の白、木々の緑を取り戻していく。
人々は、突然世界に溢れ出した色と、胸の内に蘇った感情の嵐に戸惑い、泣き、笑い、叫び、そして、隣にいる誰かの手を握った。
光が収まった時、謁見の間には、呆然と立ち尽くす王と、静かに涙を流すリラの姿があった。彼女の銀灰色の瞳に、初めて確かな感情の色――安堵と、ほんの少しの寂しさが映っていた。
私は、元の世界には戻らなかった。
色彩を取り戻したこの世界で、もう一度、キャンバスに向かうことを決めた。私の前には、真っ白なキャンバスが置かれている。これから私が描く世界は、かつて目指したような完璧なものではないだろう。光もあれば、影もある。喜びもあれば、悲しみもある。そんな、矛盾を抱えた、どこまでも人間らしい世界だ。
私はパレットに、あらゆる色を載せる。そして、震える手で筆を取った。最初の一筆は、あの日見た、魂を揺さぶるような鮮烈な「赤」だった。