忘却の残響
第一章 砕ける夢の欠片
アキラが見る夢は、いつも無機物の最期だった。
昨夜は、路傍に打ち捨てられたガラス瓶の夢。車のタイヤに轢かれ、甲高い悲鳴を上げて砕け散る一瞬。光を乱反射させながらアスファルトに散らばる緑色の破片が、まるで宝石のようにきらめいて見えた。その前は、インクの切れたボールペンの夢。持ち主の指から滑り落ち、硬い床に転がり、誰にも顧みられずゴミ箱へと向かう、静かで孤独な死。
目覚めるたび、頬に冷たい汗が伝い、心臓が重たい石のように沈んでいる。他人の記憶ではない。自分がかつて触れた、ただの「モノ」たちの、役目を終えた瞬間の記憶。それが毎晩、毎晩、アキラの眠りを苛むのだ。
彼女の生きるこの世界は、少しずつ狂い始めていた。街を歩けば、今はもう存在しないはずの古い建物の幻影が、新しいビルに陽炎のように重なって見える。すれ違う人々の背後には、過去の誰かの残像が淡く付き纏い、風もないのに衣擦れの音だけが聞こえてくる。あらゆる存在が「概念の具現化」であるこの世界から、「忘却」という概念が失われつつあるのだと、誰かが囁いていた。
人々はその異常に慣れ始めていたが、世界は確実に、過去の重みで軋んでいた。
自室に戻ったアキラは、机の上に置かれた一枚の小さな手鏡を手に取った。縁がわずかに欠けている、古びた鏡。これだけが、彼女の能力の例外だった。何度触れても、何度その冷たさを肌で感じても、この鏡の「最期」だけは夢に現れることがなかった。彼女は柔らかい布で、その曇った表面を、祈るようにそっと拭った。
第二章 重なる世界の足音
世界の飽和は、日に日に深刻さを増していた。
街の雑踏は、過去の喧騒と混じり合い、耳を塞ぎたくなるほどの不協和音を奏でている。空には昨日の雲と今日の雲が幾重にも重なり、分厚い鉛色の層となって太陽の光を遮っていた。人々は過去の自分自身の幻影と肩をぶつけながら歩き、その度に実体のない冷たさに身を震わせる。
「終わり」を失った世界。
「終わり」を見続ける自分。
アキラは、その歪な対比に、自分の存在理由のようなものを漠然と感じ始めていた。この終わらない夢は、世界が発する悲鳴そのものなのかもしれない。
何かを知らなくてはならない。そんな衝動に駆られ、彼女は街の中心から外れた、忘れられたように佇む「中央概念書庫」の重い扉を押した。黴と古い紙の匂いが、澱んだ空気と共に鼻腔を満たす。無限に続くかのような書架には、あらゆる概念の成り立ちと崩壊の記録が、埃をかぶって眠っていた。その奥から、静かな咳払いが聞こえた。
「何か、お探しかな」
声の主は、本の山に埋もれるように座る一人の老人だった。
第三章 書庫の賢者
老人はカイと名乗った。彼は自らを、この世界の理を解き明かそうと試みる、しがない「概念物理学者」だと語った。分厚い眼鏡の奥の瞳は、世界の異変を憂う深い叡智の色を宿していた。
アキラは、震える声で自分の見る夢について打ち明けた。無機物の最期を追体験する、呪いのような能力のことを。カイは黙って耳を傾け、やがて深く頷いた。
「やはり、そうか……」
彼は埃っぽい書物の一冊を広げ、震える指で一つの単語をなぞった。そこに記されていたのは『忘却』という文字だった。
「この世界は、概念の織物だ。喜び、悲しみ、始まり、そして終わり。全ての概念が精緻なバランスで成り立っている。だが今、その織物から『忘却』という最も重要な糸が、解けかけている」
カイはアキラの目をじっと見つめた。「君が見る『終わり』の夢は、忘れ去られることで世界の均衡を保っていた、小さな記憶の断末魔だ。世界が忘れる力を失ったせいで、その役割を君一人が、不完全に肩代わりさせられているのだ」
彼の視線が、アキラが思わず握りしめていた「欠けた鏡」に注がれる。
「その鏡は…? なぜか、ひどく懐かしい気配がする」
「これだけは、最期が見えないんです」
アキラの言葉に、カイの顔色が変わった。彼は息を呑み、信じられないものを見るような目で、その鏡を見つめていた。
第四章 鏡が映す真実
カイは書庫の奥深くから、さらに古い羊皮紙の巻物を持ち出してきた。そこには、世界の創生に関わる、禁忌に近い記述があった。
「全ての概念は、最初に一つの『核』となる物体に宿り、そこから世界に広がっていく……。『忘却』の概念が、最初に宿った核…それは、決して砕けることのない『不完全な鏡』であったと記されている」
カイの言葉が、雷のようにアキラを撃った。まさか。この、欠けた鏡が?
「そして…」カイは続けるのをためらった。「その核が、もし世界に完全に顕現できず、人の形をとったとしたら……」
世界の崩壊が、始まった。
書庫の窓の外で、空間がぐにゃりと歪む。過去と現在が乱雑に混じり合い、人々の悲鳴と、とうの昔に死んだ人々の笑い声が、狂った交響曲のように響き渡った。書架の本がひとりでに開き、文字がインクの涙となって流れ出す。世界の負荷が、ついに限界を超えたのだ。
カイはアキラの肩を掴んだ。その瞳には絶望と、そして微かな希望が揺れていた。
「アキラ君、君こそが、この世界に不完全に具現化した『忘却』の概念そのものなんだ。君の能力は、その不完全さの現れだった」
彼は続けた。
「世界を救う方法は、ただ一つ。君が、完全な『忘却』になることだ。だがそれは…君という存在、君に関する全ての記憶が、この世界から永遠に忘れ去られることを意味する」
無機物の最期ではない。自分自身の、完全な消滅。アキラは、静かに頷いた。毎晩見てきたあの静かな終わりが、今、自分自身のものになろうとしていた。
第五章 忘却の誓い
迷いはなかった。終わりのない夢を見続ける苦痛よりも、この重苦しい記憶に埋もれて沈んでいく世界に、安らかな終わりを与えたいという想いが勝っていた。
「行きます」
アキラの短い言葉に、カイは何も言えず、ただ深く頭を垂れた。
目指すは、街で最も高い時計塔。そこは、世界の時間の概念が生まれ、流れ出す場所。概念の力が最も強く集まる場所だった。崩壊する街を駆け抜ける。足元では、アスファルトが過去の土の道へと変貌し、ビル群は原生林の幻影に飲み込まれていく。
時計塔の頂上で、カイはアキラを見送った。
「君のことは忘れない。私の全てを賭して、君という存在を記憶に刻みつけてみせる。それが、私にできる最後の抵抗だ」
老学者の頬を、一筋の涙が伝った。アキラは初めて、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。でも、どうか忘れてください。それが、私の願いだから」
彼女は欠けた鏡を胸に抱き、ゆっくりと目を閉じた。
第六章 世界が彼女を忘れるとき
アキラの身体が、淡い光の粒子となってほどけ始めた。彼女の存在そのものが触媒となり、純粋で完全な「忘却」の概念が、時計塔から世界へと解き放たれていく。
それは、まるで春の雪解けのように静かな浄化だった。
街に重なっていた過去の幻影が、陽光に溶けるように消えていく。空を覆っていた幾重もの雲は晴れ渡り、澄み切った青空が何十年ぶりかに姿を現した。人々の耳から不協和音は消え、その顔から混乱と疲労の色が拭い去られていく。誰もが、何か重たい荷物を下ろしたような、安堵のため息をついた。
書庫にいたカイの記憶からも、アキラという少女の輪郭が急速に薄れていく。誰か、大切な誰かを見送ったはずだった。その少女の名前は? どんな顔をしていた? なぜ自分の頬は、こんなにも濡れているのだろう。理由を思い出せないまま、ただ胸を締め付ける喪失感だけが残った。
光が消えゆく瞬間、アキラは最後に、胸に抱いた鏡に触れた。この鏡の最期だけは見届けたい。しかし、鏡は彼女の願いを拒むかのように、その「終わり」を見せることはなかった。光となった彼女の指の間から、カラン、と乾いた音を立てて、鏡が床にこぼれ落ちた。
第七章 名もなき残響
世界は救われた。人々は「忘れる」という当たり前の恩恵を享受し、平穏な日常を取り戻した。誰も、世界がかつて記憶の重みで崩壊しかけていたことなど、覚えてはいない。
カイは、書庫の自室で窓の外を眺めていた。ふと、机の隅に置かれた一枚の「欠けた鏡」が目に入る。なぜ、こんなものがここにあるのだろう。誰が持ってきたのか、いつからここにあるのか、全く思い出せなかった。
だが、その鏡を手に取った瞬間。
胸の奥深くに、微かで、しかし確かな温かさが灯るのを感じた。そして同時に、理由のわからない、どうしようもないほどの切なさが込み上げてくる。
彼は鏡を握りしめたまま、再び窓の外に目を向けた。
澄み切った空の下、人々が穏やかに行き交う街。そこにはもう、過去の幻影も、悲鳴のようなノイズも存在しない。ただ、なぜだろう。そのありふれた光景の中に、いるはずのない誰かの気配が、春の風のようにふわりと漂っているような気がしてならなかった。
彼の掌の中で、鏡の欠けた部分だけが、まるで忘れられた誰かの涙の跡のように、世界からこぼれ落ちた光を静かに反射していた。
アキラという少女は、世界から忘れ去られた。
しかし、彼女が存在したという確かな事実の残響だけが、その欠けた鏡の中に、そして新しく生まれ変わった世界の中に、今も静かに響き続けている。