***第一章 灰色の邂逅***
絵筆を握る指先が、夕焼けの最後の赤を捉えようとした瞬間、世界は音もなく反転した。
美大生の相馬湊(そうま みなと)は、燃えるような茜色の空をキャンバスに写し取っていた。彼の世界は色彩で構成されていた。光の角度で変わる葉の緑、アスファルトに落ちる影の青、少女の頬を染める淡い桃色。それら全てが、彼にとっての言葉であり、感情だった。だが、まばたき一つ。その全てが奪われた。
気づけば、湊は石畳の広場に立っていた。見慣れない、しかしどこか懐かしいような欧風の街並み。だが、異常だった。すべてが色を失っていたのだ。空も、建物も、道行く人々の服や髪も、まるで年代物のモノクロ映画のように、濃淡の異なる灰色で塗りつぶされていた。風の匂いも、石畳の感触も、人々のざわめきも現実のものなのに、視界だけが現実感を失っている。パニックに陥った湊は、自分の手を見た。血の気も、肌の温かみも感じられない、灰色の手。ポケットから愛用の絵の具セットを取り出す。チューブに貼られたラベルの文字は読めるが、そこにあるはずの「カドミウムレッド」も「セルリアンブルー」も、ただの黒い染みにしか見えなかった。
「あの……大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは、瞳までが銀灰色をした少女だった。年の頃は十代半ばだろうか。心配そうに湊の顔を覗き込んでいる。
「色、が……ない。どうして、世界は白黒なんだ?」
湊の言葉に、少女は不思議そうに小首を傾げた。
「イロ? ああ、お祖母様から聞いたことがあります。世界が『褪色病(たいしょくびょう)』に罹る前の、大昔にあったという……きらきらした魔法のことですね」
褪色病。少女――リラと名乗った――の話によれば、この世界の人々は、生まれてから一度も「色」というものを見たことがないという。遠い昔、世界から徐々に色彩が失われ始め、今ではそれが当たり前の日常となっていた。人々は形と濃淡だけで物事を認識し、感情さえもどこか抑制された、静かな世界で生きていた。
湊だけが、この灰色の世界で唯一、失われた色彩を記憶している異邦人だった。彼は絶望した。画家を目指す彼にとって、色を失うことは魂を失うことに等しい。元の世界に帰る術もわからず、彼はただ、彩度のない街をさまようことしかできなかった。彼の心もまた、急速に灰色に染まっていくようだった。
***第二章 彩り師の使命と代償***
絶望の日々が数週間続いたある日、湊は衝動的に絵を描き始めた。リラが住む孤児院の壁に、持参したキャンバスを立てかけ、記憶の中にある故郷の風景を描き始めたのだ。灰色の世界では何色か判別できない絵の具を、彼は記憶だけを頼りにパレットナイフで混ぜ合わせる。
「これは、空の色。澄み渡る、青」
湊がそう呟きながら、空の部分を塗りつぶした瞬間、奇跡が起きた。絵筆から放たれた青が、キャンバスの枠を越えて光の粒子のように舞い上がり、目の前の石壁に、そしてリラの灰色の瞳に、一瞬だけ鮮やかな空の色を映し出したのだ。
「……あ……!」
リラが息を呑む。周囲にいた子供たちも、大人たちも、生まれて初めて見る「青」という現象に言葉を失い、その場に釘付けになった。湊が絵筆を進めるたびに、緑の木々が、赤い屋根が、黄色い花が、現実の世界に幻のように溢れ出し、人々の心を震わせた。
その日を境に、湊は「彩り師」と呼ばれるようになった。彼の絵は、このモノクロームの世界に一時的な色彩をもたらす唯一の希望だった。人々は彼の元に集い、失われた色の物語をねだった。「愛する人に贈る花の色は?」「喜びの祭りの色は?」「暖かいスープの色は?」湊は彼らの願いに応え、次々と絵を描いた。自分の才能が、これほどまでに人を幸福にできる。その事実は、彼の乾いた心に新たな使命感を芽生えさせた。
だが、彼は気づき始めていた。絵を一枚完成させるたびに、頭の中に奇妙な空白が生まれることに。
ある日、彼は燃えるような夕焼けを描いた。人々がその壮麗な赤に感嘆の声を上げる中、湊は胸に突き刺さるような喪失感に襲われた。思い出そうとしても、故郷で初めて見たあの夕焼けの感動が、まるで古びた写真のように色褪せて思い出せない。ディテールが抜け落ち、感情の温かみが消えている。
彼は恐ろしい仮説にたどり着いた。この世界で「色」を生み出すための顔料は、チューブの中の絵の具ではない。彼自身の、色彩を伴った「記憶」そのものが、顔料として消費されているのではないか、と。
***第三章 白紙の書庫の真実***
恐怖と使命感の狭間で揺れながらも、湊は絵を描き続けた。だが、記憶の欠落は着実に彼を蝕んでいった。友人の顔、通った学び舎の風景、好きだった音楽の旋律。それらが次々と、輪郭のぼやけた灰色のもやに変わっていく。
リラは、日に日に憔E(げっそり)としていく湊の姿を心配していた。彼女は街の最も高い場所にそびえ立つ「静寂の塔」の伝説を湊に話した。そこには世界のすべてを知る賢者がおり、褪色病の真実を知っているという。一縷の望みをかけ、湊はリラと共に塔の頂を目指した。
螺旋階段を上り詰めた先には、広大な円形の部屋があった。しかし、そこに賢者の姿はなく、部屋の中央には、ただ一冊、何も書かれていない真っ白な本が静かに浮かんでいるだけだった。湊がその本に手を伸ばした瞬間、声が直接、脳内に響き渡った。それは個人の声ではなく、風の音や紙の擦れる音、無数の囁きが混ざり合ったような、世界の「意思」そのものの声だった。
『――汝、異邦の彩りを持つ者よ』
声は語った。この世界は、病に侵されているのではない。ここは、役割を終えた物語、忘れられた概念、あらゆる存在が還る場所――「白紙の書庫」なのだと。世界から色が失われたのは、病ではなく、万物がその役目を終え、本来あるべき「無」の状態へと静かに還っていく、自然な摂理だった。
『汝が描く色は、終わるべき物語に無理やり続きを書き足す行為。汝の世界との繋がりが、それを可能にする』
『だが、代償は必要だ。汝が「赤」を描くとき、我々は汝の記憶から「赤」を抽出する。愛の記憶、情熱の記憶、夕焼けの記憶。それらが顔料となり、この世界に一時的な染みを作る』
世界の意思は淡々と告げた。このまま色を与え続ければ、湊はすべての記憶を失い、彼という物語は完全に消滅し、この白紙の世界に吸収される、と。摂理に従い、静かに自己を保ったままこの世界と共にかすれていくか。あるいは、自己のすべてを顔料に変え、消えゆく世界に儚い彩りを与えるか。
選択を迫られた湊は、足元から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。自分が消える。その絶対的な恐怖が、彼の心を灰色よりも暗い闇に突き落とした。
***第四章 君に贈る夜明けの色***
塔から戻った湊は、数日間、部屋に閉じこもり、絵筆を握ることができなかった。記憶は、彼のアイデンティティそのものだった。それを失うことは、死よりも恐ろしい。しかし、窓の外を見れば、人々は灰色の世界で静かに生きている。彼が与えた一瞬の色を、宝物のように語り合いながら。特にリラの、色を語るときの銀灰色の瞳の輝きが、彼の胸を締め付けた。
彼は決断した。
どうせこの世界から出られないのなら。どうせいつかは自分もこの世界の摂理の中で薄れていくのなら。ならば、すべてを捧げよう。自分がここに存在した証として、この世界にたった一つ、決して消えない色を残していこう。
湊は、街の中央広場に、これまでで最も大きなキャンバスを設置した。そして、最後の大作に取り掛かることを宣言した。人々が固唾を飲んで見守る中、彼はパレットに絵の具を置かなかった。ただ目を閉じ、深く息を吸う。
最初に、彼は「緑」を思い描いた。故郷の夏、友人と駆け抜けた草原の記憶。笑い声と共に、彼の内なる緑が光となり、キャンバスに広がる。次に「黄色」。幼い頃、母が作ってくれた卵焼きの温かい記憶。それは優しい光となって、緑の大地に降り注いだ。
家族との団欒。初恋の甘酸っぱさ。涙した夜空の星。彼が人生で得てきた大切な記憶が、次々と美しい色彩の顔料へと変わり、壮大な絵を織りなしていく。彼の輪郭は、色を生み出すたびに少しずつ透明になっていった。
最後に、彼はリラと出会ったこの灰色の街を思い浮かべた。色を知らないはずの彼女が、必死に「色」を語ってくれた時の、あの純粋な輝き。その記憶は、何色にも染まらない、最も尊い「光」の色だった。
「――これは、君に贈る、夜明けの色だ」
湊の最後の力が、キャンバスに強烈な光を放った。それは、暗闇を破り、世界を祝福するような、希望に満ちた黄金色の夜明けの光景だった。広場に溢れた光は、人々の灰色の瞳に、肌に、心に、焼き付くように染み込んでいく。リラの瞳には、大粒の涙と共に、生まれて初めて見る本物の朝日が映っていた。
絵が完成した瞬間、相馬湊という青年は、最後の記憶の欠片と共に、光の粒子となってふわりと宙に舞った。そして、自らが描いた夜明けの光の中に、静かに溶けて消えていった。
湊という存在は、完全に消滅した。しかし、彼が最後に与えた「色」は、人々の心の中に残り、決して消えることはなかった。この世界は物理的にはモノクロームのままだ。だが、人々は湊がくれた記憶の光を頼りに、心の中に豊かな色彩を思い描くことができるようになった。灰色の空を見上げては夜明けの黄金を思い、灰色の花を見ては燃えるような赤を語り合った。
リラは、湊の物語を語り継ぐ者となった。彼女は子供たちに、かつてこの世界を彩った一人の画家の物語と、彼が命と引き換えに教えてくれた「色」という名の希望を、繰り返し語り聞かせるのだった。世界は静かなままだったが、人々の心には、永遠に消えない夜明けが灯り続けていた。
白紙のパレットと夜明けの顔料
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