時紡ぐ者のレクイエム
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時紡ぐ者のレクイエム

第一章 矛盾した記憶の工房

カイの指先が、鈍色の懐中時計に触れた。その瞬間、世界が軋む。知らない少女の甲高い悲鳴、飴細工のように歪む時計塔の尖塔、そして肌を突き刺す無数の結晶片の冷たさ。まただ。彼の脳裏に、身に覚えのない『過去』が、まるで昨日の出来事のように焼き付く。

「どうした、カイ。また悪い夢でも見たか」

工房の主、老いた時計師のザッハリが、油の匂いが染みついた布でレンズを拭きながら言った。カイは息を弾ませ、時計から手を離す。心臓が氷の塊を飲み込んだように冷たく、速く脈打っていた。

「いえ…なんでもありません。この時計、時間結晶の同調率がかなり落ちていますね」

彼は努めて平静を装い、仕事に戻る。この街、アウリオンでは、『時間』は鉱物だった。大地から掘り出された『時間結晶』は、時計の動力源となり、街灯を灯し、人々の生活を支える。カイは、そんな結晶製品を修理するしがない技師だ。しかし、彼には秘密があった。生物や物体に触れると、それが経験するはずの『未来』を、自身の『過去の記憶』として追体験してしまうのだ。

それはまだ起きていない出来事。だから、記憶は常に矛盾を孕んでいる。今見たビジョンの中の時計塔は、広場の中心でまだ建設の足場が組まれている最中のものだ。崩れるはずがない。この矛盾した記憶が、彼の精神をゆっくりと、しかし確実に蝕んでいた。街の人々は、時折虚空を見つめて呟く彼を『時狂い』と呼び、遠巻きにした。孤独は、彼の古い友人だった。

工房の窓から見える空には、結晶を運ぶ飛行船がゆっくりと漂っている。その腹から零れ落ちる結晶の粉が、午後の光を浴びてきらきらと舞っていた。美しい光景のはずなのに、カイにはそれが世界の涙のように見えてならなかった。

第二章 クロノスガードの影

街角で、時間が悲鳴を上げた。市場で果物を売っていた老婆が、客にリンゴを手渡そうとした、まさにその瞬間に凍り付いた。老婆も、客も、宙に浮いたリンゴも、まるで精巧な彫像のように静止している。局所的な『時間停止』。最近、街のあちこちで頻発している現象だった。

カイは息を殺し、路地の影に身を潜める。あの静止した光景は、彼が数週間前に『記憶』した断片と全く同じだった。彼の悪夢が、現実を侵食し始めている。

その時、背後に鋭い声が響いた。

「見つけたぞ、『時間病』の感染源」

振り向くと、純白の制服に身を包んだ男たちが立っていた。世界の時間秩序を維持する管理者組織『クロノスガード』。その先頭に立つ男、ギデオンは、氷のような瞳でカイを射抜いていた。

「貴様のその狂った記憶が、世界の時間を歪めている。我々と来てもらう」

「違う! 俺は何もしていない!」

カイは咄嗟に駆け出した。石畳を蹴る足音と、背後から迫る追手の怒声が入り混じる。追い詰められた先の袋小路で、カイは覚悟を決めた。だが、横の扉が不意に開き、中から腕が伸びて彼を引きずり込んだ。

「こっちへ!」

息を切らすカイの前にいたのは、クロノスガードの制服を着た若い女性だった。栗色の髪を揺らし、強い意志を宿した瞳で彼を見つめている。

「私はエルマ。あなたを助けたい」

彼女の視線が、カイが首から下げている小さな砂時計に注がれていた。

第三章 逆流する砂の声

エルマが用意した隠れ家は、古い図書館の書庫だった。黴と古い紙の匂いが満ちている。彼女はクロノスガードの一員だが、ギデオンたちの強硬なやり方に疑問を抱いていた。

「その砂時計…『過去の声を聞く砂時計』でしょう? 私の一族に伝わる遺物なの」

カイは無言で、掌に収まるほどの小さな砂時計を握りしめた。通常とは逆に、砂が下から上へと静かに流れ続ける奇妙な品だ。父親の唯一の形見だった。

「父さんは言ってた。これは、迷った時の道標だって…」

エルマに促され、カイは砂時計に意識を集中させた。例の、時計塔が崩れる『未来の記憶』を思い浮かべる。すると、砂時計が淡い光を放ち、カイの記憶と共鳴を始めた。ガラスの中で逆流する砂の速度が上がり、やがて、囁くような声が響き始めた。

『心臓が…蝕まれていく…』

『新たな器を探さねば…世界の時間が…止まる…』

それは、過去の管理者が遺した悲痛なエコーだった。砂時計は、一度使われた『時間』の断片に宿る記憶を再生する。そして今、カイの『未来の記憶』が、まだ使われていない、純粋な未来の時間と同期していることを示していた。

「これは…幻覚なんかじゃない」カイは震える声で言った。「本当に、これから起こることなんだ」

エルマは彼の目を見つめ、固く頷いた。「ええ。そして、その声は『大時計の心臓』のことを言っている」

第四章 大時計の心臓

エルマがクロノスガードの機密文書から盗み見た情報によれば、世界の時間を司る根源的な巨大時間結晶、通称『大時計の心臓』は、建設中の時計塔の地下深くに安置されているという。そして、その心臓が原因不明の劣化を起こしていることも。

「ギデオンたちは、あなたの特異な体質が心臓に悪影響を与えていると考えている。でも、私は逆だと思う。心臓が助けを求めて、あなたに未来を見せているのよ」

二人は追手を避けながら、時計塔を目指した。塔に近づくほど、カイの頭をよぎるビジョンの奔流は激しくなる。自分の身体が、指先からゆっくりと透き通った結晶に変わっていくような、奇妙な感覚に襲われた。

時計塔の地下は、巨大な洞窟だった。空気は澄み切り、壁一面に埋め込まれた時間結晶が星々のように瞬いている。そして、その中央に『大時計の心臓』はあった。かつては太陽のような輝きを放っていたであろう巨大な結晶は、今は弱々しく明滅し、その表面にはおびただしい数の亀裂が走っていた。そこから漏れ出す時間の歪みが、空間を蜃気楼のように揺らめかせている。

「ここまでだ、感染者」

背後からギデオンの声が響く。彼は部下を率いて、二人を包囲していた。

「その汚れた手で心臓に触れるな!」

ギデオンが叫んだ瞬間、カイは衝動的に駆け出していた。彼の『記憶』が、そうしろと告げていた。ひび割れた心臓に、そっと指を触れる。

その瞬間、世界から音が消えた。

カイの内に、数えきれないほどの『未来の記憶』が、一本の壮大な物語として流れ込んできた。少女の悲鳴、崩れる塔、人々の嘆き。それらはすべて、彼が間に合わなかった場合の、起こりえた未来の断片。

そして、彼はすべてを理解した。

彼が見ていたのは、世界の破滅の記憶ではない。

彼自身が、この世界を救うために『大時計の心臓』となる、その瞬間までの道のりの記憶だった。

第五章 未来を紡ぐ者

「俺は…病原菌じゃなかった」カイは、振り返りもせず呟いた。「俺は…薬だったんだ」

ギデオンは絶句し、エルマは息を呑む。カイの身体が、足元から淡い光を放ち始めていた。それは、新しい時間が生まれる瞬きのようだった。

「俺が取り込んできた未来は、未来の俺が、過去の俺に送った道標だった。この瞬間に辿り着くための、ただ一つの道筋。崩壊を止めるには、俺が新しい心臓になるしかない」

彼は、エルマの方へゆっくりと振り返った。その表情には、もはや苦悩の色はなかった。ただ、穏やかな寂寥感が漂っている。

「君の悲鳴を聞かずに済んで、よかった」

そう言って、彼は首から下げていた『過去の声を聞く砂時計』を外し、エルマに差し出した。

「これで、時々僕の声を聞いてくれ。僕が紡ぐ未来の、最初の音だ」

エルマは涙をこらえながら、震える手でそれを受け取る。

カイは再び心臓へと向き直り、そのひび割れた中心へと歩みを進めた。一歩踏み出すごとに、彼の身体は光り輝く結晶へと変わっていく。肉体が失われ、意識が時間に溶け込んでいく。それは痛みではなく、むしろ懐かしい場所へ還るような、安らかな感覚だった。

古い心臓の亀裂が、カイという新しい光で満たされていく。弱々しかった明滅は、やがて力強く、規則正しい鼓動へと変わった。地下洞窟全体が、温かい光に包まれた。

第六章 結晶世界のレクイエム

カイの意識は、世界と一つになった。彼はもはや個ではなく、流れる時間そのものだった。彼の鼓動が、街に朝を運び、人々の営みを支え、花を咲かせ、星を巡らせる。彼は、孤独な少年ではなく、世界を見守る永遠の視点となった。それは果てしない孤独であり、同時に、すべてを愛するための無限の抱擁でもあった。

数年後。エルマは、クロノスガードを改革し、『大時計の心臓』の新たな管理者となっていた。彼女は時折、時計塔の地下深くを訪れ、力強く輝く心臓の前に立つ。そして、カイから託された砂時計を、そっと耳に当てる。

すると、逆流する砂の中から、微かな、しかし温かいエコーが聞こえてくる。それは言葉ではない。ただ、穏やかで優しい、時間の鼓動。新しい一日が始まる予感。愛する者たちの未来を祝福する、静かな祈り。

カイは未来を『記憶』する者ではなかった。

自らの存在を捧げることで、未来を『創造』する者となったのだ。

彼のレクイエム(鎮魂歌)は、悲しみではなく、世界に永遠に流れ続ける、希望の旋律となった。


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