賽はすべて1と投げられた
第一章 頭上の朝食と六面体の神託
僕、アキトの頭上には今朝、湯気の立つ温かいミルクパンが浮かんでいる。ほんのり甘い小麦の香りが鼻孔をくすぐり、ささやかな幸福感を僕の全身に満たしていた。僕の感情は、いつだってこうして料理の形をとって頭上に出現する。これは生まれつきの体質で、誰かを心から愛せば七色のクリームを纏ったウェディングケーキが、理不尽に怒ればマグマのように煮えたぎる激辛麻婆豆腐が現れるのだ。おかげで嘘がつけない不便さはあるが、自分の心に正直でいられるという利点もあった。
「今日のデート、行き先はどうする?」
向かいに座る恋人のユイが、テーブルの上で小さな黒い立方体を転がしながら微笑む。僕たちの世界では、あらゆる決定がこの「運命のサイコロ」に委ねられていた。就職先、住む家、結婚相手、そして今日の昼食のメニューに至るまで、すべては神聖なる六つの目のどれが出るかによって決められる。それは絶対のルールであり、抗うことのできない世界の法則だった。個人の意思や感情よりも、サイコロがもたらす偶然性こそが最も公平なのだと、誰もが信じて疑わなかった。
「よし、決めるか。1と2なら公園、3と4なら映画館、5と6なら美術館だ」
僕は自分のサイコロを手に取った。ひんやりとしたプラスチックの感触が、これから訪れる運命の重さを指先に伝える。ユイと目を合わせ、頷き合う。そして、僕たちは同時にサイコロをテーブルに放った。カラカラと乾いた音を立てて転がる二つの黒い点。僕の頭上のミルクパンが、期待にふっくらと膨らんだ。
第二章 沈黙した選択
しかし、僕たちのサイコロは、どちらも寸分違わず「1」の目を示して止まった。
「あれ?もう一回」
ユイが首を傾げる。僕たちだけでなく、カフェのあちこちから、同じような困惑の声が聞こえ始めた。人々は何度もサイコロを振り直しているが、何度やっても針が吸い寄せられるように「1」の目しか出ない。スマートフォンの画面に映し出されるニュース速報が、その異常が個人的なものではないことを告げていた。『速報:世界中の運命のサイコロ、原因不明の不具合。「1」以外の目が出ない状態に』。
街は、瞬く間に静寂に包まれた。交差点の真ん中で車が止まり、運転手は次の行き先を決められずにハンドルを握りしめている。駅の改札前には、どの電車に乗るべきか決められない人々が石像のように立ち尽くし、スーパーマーケットでは、無数の商品棚の前で立ち往生した人々が虚空を見つめていた。選択とは、この世界における生命活動そのものだったのだ。それが完全に停止した。
僕の頭上に浮かんでいた温かいミルクパンは、いつの間にか形を失い、味も素っ気もない透明なゼリー寄せに変わっていた。ぶるぶると震えるそれは、行き場を失った僕の不安そのものだった。世界から、サイコロの転がる軽やかな音が消えた。代わりに、重く、粘つくような沈黙が支配していた。
第三章 奇妙なフルコースの始まり
一日、また一日と時が過ぎるにつれて、世界の麻痺は深刻さを増していった。人々は選択できないストレスから、徐々に正気を失い始めていた。僕の頭上も、その様相を刻一刻と変えていった。最初は「冷え切って塩辛いだけのコンソメスープ」だったものが、やがて「溶けかけたアスファルトのアイスクリーム」になり、ついには「錆びた鉄の味がするビスケット」まで現れるようになった。街を歩けば、同じように奇妙でグロテスクな料理を頭上に浮かべた人々が、亡霊のように彷徨っている。
選択肢のない世界は、感情の行き場すら奪っていく。喜びも、怒りも、悲しみも、何かを選ぶという行為があって初めて明確な輪郭を持つ。しかし、何も選べない今、人々の感情は混沌とし、それは僕たちの頭上に前衛的で不気味な料理となって具現化されていた。世界は、巨大な悪夢のフルコース会場と化したかのようだった。ユイの頭上にも、かつて浮かんでいた可憐なマカロンの姿はなく、今は棘だらけの乾燥したパンが悲しげに揺れているだけだった。僕たちは、ただ互いの奇妙な料理を見つめ合い、言葉を失うしかなかった。
第四章 絶望のパエリア
混乱が頂点に達した、七日目の朝。僕の頭上に、それまでとは比較にならないほど強烈な存在感を放つ一皿が出現した。
それは、巨大なパエリアパンに盛られた、黄金色のパエリアだった。宝石のように輝くサフランライスの上には、大ぶりのエビやムール貝、色鮮やかなパプリカが惜しげもなく散りばめられ、立ち上る湯気は、魚介の旨味とハーブの香りが複雑に絡み合った、抗いがたい芳香を放っていた。それは、この選択不能の世界において唯一絶対の「選択肢」そのもののように見えた。僕はそれを「究極の選択肢を迫る絶望のパエリア」と直感的に名付けた。
その香りに誘われ、人々が僕の周りに集まり始めた。彼らの目は飢えた獣のようにギラつき、涎を垂らし、一様に僕の頭上のパエリアを指差していた。選択への渇望が、彼らを狂気へと駆り立てていた。
「一口……一口だけ……!」
誰かが叫ぶと、それが合図になったかのように群衆が僕に殺到した。もみくちゃにされる中で、僕自身もまた、その抗いがたい誘惑に屈していた。混乱の中、宙に浮いたパエリアの一粒が、僕の口の中にこぼれ落ちた。その瞬間、脳を突き抜けるような衝撃と共に、僕の全身に爆発的なエネルギーがみなぎった。それは、自由の味だった。
第五章 自由という名の混沌
パエリアを食べた人々は、まるで呪いが解けたかのように一斉に動き出した。彼らはサイコロを投げ捨てる。その目は虚ろではなく、自らの意志の光を宿していた。
「俺は銀行員を辞めて、画家になる!」
「私は、あなたが好きだったの!サイコロが許さなくても!」
人々は堰を切ったように、心の奥底に押し殺していた願望を解き放ち始めた。それは一見、喜ばしい光景に見えた。しかし、秩序を失った自由は、ただの混沌でしかなかった。店からは商品が持ち出され、見ず知らずの人間が殴り合い、街中で愛の告白が連鎖する。サイコロという絶対的な基準を失った世界は、剥き出しの欲望が渦巻く無秩序な地獄へと変貌していた。
僕もまた、ユイの手を引いて走り出していた。どこへ向かうという当てもない。ただ、自分で決めて、自分の足で走るという行為そのものに酔いしれていた。混乱の最中、風に飛ばされた一枚の紙が僕の顔に張り付いた。それは政府機関から漏洩したと思しき文書だった。そこには、信じがたい計画の全貌が記されていた。
『通達:全部門へ。「ワンサイコロ化」計画の実行について』
その文字を読んだ瞬間、僕の頭の中にあったパエリアの熱狂は、急速に冷めていった。
第六章 世界で最もくだらない真相
真相は、あまりにも馬鹿げていた。
世界中のサイコロが「1」しか出さなくなった原因は、壮大な陰謀でも、超常現象でもなかった。世界中のサイコロを製造する唯一の国営工場が、数年前から極秘裏に「ワンサイコロ化」計画を進めていたのだ。理由は、驚くべきことに「コスト削減」だった。六種類の面を印刷するよりも、全部の面に「1」だけを印刷する方が、インク代も手間も大幅に削減できるという、あまりに短絡的で合理的な結論。旧型のサイコロの在庫が尽きたあの日、全世界に一斉供給された「新型サイコロ」が、この混乱を引き起こしたのだった。
そして、その報告書の末尾には、さらに衝撃的な一文が添えられていた。
『追伸:なお、本「ワンサイコロ化」計画の採択は、当時の閣議において、運命のサイコロを振った結果、出目が「6(=承認)」であったことを正式に報告する』
僕の口から、乾いた笑いが漏れた。神の気まぐれでも悪魔の企みでもない。この世界を停止させた原因は、官僚的な効率主義と、そして皮肉にも、その決定を下したサイコロ自身だったのだ。この究極の不条理を前に、人々は怒る気力さえ失った。街のあちこちで、絶望とも諦観ともつかない、引きつった笑い声がこだました。僕たちは、壮大な悲劇の主人公ではなく、ただの不条理喜劇の登場人物に過ぎなかったのだ。
第七章 マーマレードの夜明け
世界は、新しい日常を受け入れ始めた。「1」しか出ないサイコロは、「何もしない」「現状を維持する」という、七番目の選択肢として人々の間に定着した。人々はサイコロを振る。そして「1」が出ると、少しがっかりしたような、それでいて少し安堵したような顔で、その場に留まることを選ぶ。時折、誰かの頭上に「絶望のパエリア」の幻影が現れては小さな騒動を起こしたが、それも新たな日常のスパイスのようなものになっていった。
僕の頭上には、甘くて、しょっぱくて、後味にほのかな苦味が残る、「マーマレードを添えたブリオッシュ」が浮かんでいた。喜びと悲しみ、自由と不自由が混ざり合った、今の僕の心を完璧に表現した一皿だった。
「ねえ、アキト」
隣を歩くユイが、僕の手をそっと握った。彼女の頭上には、小さな野いちごのタルトが可愛らしく乗っている。
「サイコロ、振ってみる?」
彼女はそう言って悪戯っぽく笑った。僕は首を横に振る。
「いや、いい。今日は、僕たちが決めよう。僕たちの足で、どこまでも歩いていこう」
僕たちは、サイコロをポケットにしまったまま、ゆっくりと歩き出した。空にはパエリアの残り香がまだ漂っているような気がした。絶対的な運命も、完全な自由も、おそらくこの世界には存在しない。僕たちは、その不条理な世界の真ん中で、手探りで道を選び、マーマレードのようなほろ苦い明日へと、ただ一歩を踏み出すのだ。