第一章 街角の密談、オフィスに潜む獣たち
その朝、高野誠の日常は、缶コーヒーを持つ一匹の野良猫によって崩壊した。
いつも通りの通勤路、少し埃っぽい公園のベンチ。誠は、いつものようにスマホでニュースを読みながら、目の前を横切る野良猫をぼんやりと見ていた。どこにでもいる、ごく普通の茶トラ猫だ。それが、誠の視界に入った瞬間、スローモーションのように変貌を遂げた。毛並みはピシッと整ったスーツに、四肢は革靴を履いた足と、小脇に書類を抱えた腕に。そして、その口元には、どこからどう見てもコンビニの缶コーヒーが!
「チッ、また部長かよ。朝っぱらからグダグダと…」
低い、それでいてどこか世知辛い中年男性の声が、公園の静寂を切り裂いた。誠は思わずスマホを落としそうになり、目をゴシゴシと擦った。が、幻覚ではない。目の前の「猫」は、缶コーヒーを一口飲むと、ため息交じりにベンチから立ち上がり、革靴を鳴らして去っていく。その背中は、まさしく朝の満員電車で見かける疲れたサラリーマンそのものだった。
「な、なんだ、今の…」
誠は混乱した。寝不足か、ストレスか。しかし、その現象はそこから始まったばかりだった。
会社に着くと、さらに奇妙な光景が待ち受けていた。オフィスの窓枠に止まっていた数羽の鳩が、誠の目にはピシッとした制服を着た女性社員と、頭を禿げ上がらせたベテラン社員に見えたのだ。
「課長、企画書の進捗ですが、競合他社の動きも鑑みると、ここはやはり…」
頭を下げて報告するベテラン社員風の鳩。
「えー、また残業ぉ? マジ勘弁してほしいんですけどぉ」
スマホをいじりながら嘆く女性社員風の鳩。
誠は、自分が一体どうなってしまったのか理解できなかった。周りの同僚たちは、何の変哲もない鳩が窓枠で首を傾げている光景にしか見えていないようで、彼らが誠の困惑した視線に気づくことはなかった。誠が「おい、君たち!」と声を上げそうになると、隣の席の先輩が「高野、どうかしたか?」と声をかけてきた。誠は慌てて「いえ、ちょっと、ぼーっとしてました…」とごまかしたが、心臓はバクバクと鳴り響いていた。
その日一日、誠は地獄だった。給湯室では、カラスがOL風の女性に見え、休憩時間のゴシップに花を咲かせている。
「聞いた? あの部署の部長、また浮気してるんだって。最悪よねぇ」
「えー、ほんとぉ? やっぱ男って結局そこなんだよねぇ」
カラスたちは、お茶をすすりながら、人間さながらのひそひそ話に興じていた。誠がその「カラス」たちの前を通りかかると、一匹がギョロリと誠を見て「あんたも気をつけなさいよ、この手の話は、どこでどう転がるかわかんないんだから」と釘を刺してきた。誠は冷や汗をかきながら、そそくさとその場を後にした。
自分だけが、街中の動物たちが人間のように見え、人間のように振る舞っている。しかもその言動は、彼らが本来持つ動物の本能と、人間社会の滑稽な側面が入り混じった、シュールで、しかしどこか生々しいものだった。誠は、この日を境に、自分の世界が根底からひっくり返ってしまったことを実感した。
第二章 恋と、会議室の密林
誠の日常は、もはや「日常」とは呼べないものになっていた。通勤途中、オフィス、昼食時、そして帰り道。どこに行っても、人間と見まごうばかりの動物たちが、人間社会の縮図のようなドラマを繰り広げている。
例えば、会議室。重要なプレゼンテーションの最中、窓の外では、数十羽の雀が、誠にはスーツを着た若い社員たちに見えた。彼らは、小さなパンくずを巡って激しい口論を繰り広げ、「それは俺の取り分だ!」「何を言うか、昨日のお前は何も貢献してないだろう!」と、さながら企業の派閥争いを見ているかのようだった。誠は、その光景に気を取られ、うっかり上司からの質問に答え損ねてしまった。
「高野、集中しろ。今日のプレゼンは肝心なんだぞ」
上司の厳しい声に、誠は慌てて謝った。周りの同僚たちは、誠が突然窓の外を凝視し始めたことにいぶかしげな視線を送る。彼らには、雀がただ鳴き交わしているだけにしか見えていないのだ。
誠は、この奇妙な能力のせいで、他人とのコミュニケーションがさらに苦手になっていた。もともと内気で、職場の飲み会でも隅っこで目立たないようにしているタイプだった。それが今では、動物たちの「人間化した言動」に気を取られ、目の前の人間との会話がおろそかになることが増えた。
そんな誠にも、密かに思いを寄せる人がいた。同期の佐藤美咲さんだ。彼女は明るく、誰にでも分け隔てなく接するタイプで、特に動物が好きだった。休憩時間に、スマホで猫の動画を見ては「あー、かわいい!」と顔をほころばせる姿を、誠はいつもそっと見ていた。
ある日の昼休み、誠は勇気を振り絞り、佐藤さんに話しかけようと会社の裏庭に出た。そこには、佐藤さんが飼っているというトイプードルが散歩に来ていた。誠は、その犬を見て、思わず息を呑んだ。
そのトイプードルは、誠の目には、恰幅の良い、品の良さそうな紳士に見えた。高級そうなスーツを身につけ、足元には磨き上げられた革靴。手には杖を持っている。
「おやおや、君が高野誠くんですか?」
紳士は、誠を見据えて言った。その声は、どこか威厳がありながらも、茶目っ気を感じさせた。
誠は固まった。まさか、佐藤さんの犬までが…!
「娘(佐藤さん)から話は聞いてますよ。内気だが真面目な青年だと。それで、君はうちの奥さんを幸せにできるのかね?」
紳士は、杖をコツンと地面に突き、誠を値踏みするように見つめた。
誠は混乱の極みに達した。まさか、犬から直接、佐藤さんとの関係について問われるとは!しかもその口調は、まるで娘を嫁に出す父親のようではないか。
「え、あ、いや、まだそんな…」
しどろもどろになる誠に、紳士はフッと笑った。
「まぁ、焦らずとも良い。だがな、世界は君が思うよりずっと滑稽だ。その滑稽さを受け入れられぬ者に、娘は任せられんぞ」
そう言い残し、紳士は優雅に尻尾を振り、佐藤さんの元へと駆け寄っていった。誠には、それがただのトイプードルが佐藤さんの足元に擦り寄っている姿に見えたが、その言葉だけは、誠の心に深く突き刺さった。
第三章 世界は滑稽な劇場
誠は、もはや自分が精神的に限界なのかもしれないと思い、心療内科を受診した。しかし、医者は誠の話を真面目に聞いた上で、「ストレス性の幻覚でしょう。まずは睡眠を十分に取り、リラックスしてください」と、一般的な診断を下すのみだった。医者には、窓の外で繰り広げられる「鳩たちの社内政治」も、「カラスたちの愚痴大会」も、ただの鳥の鳴き声にしか聞こえていない。誠は、自分の孤独を痛感した。
「世界は君が思うよりずっと滑稽だ」。佐藤さんの犬が言った言葉が、誠の頭の中でこだましていた。
ある週末、誠は佐藤さんと初めて二人きりで食事に行く機会を得た。イタリアンの洒落たレストラン。誠は緊張でガチガチだったが、佐藤さんの笑顔に少しだけ心が和らいだ。しかし、その安堵も長くは続かなかった。
店内の隅で優雅に座っていた一匹の猫が、誠の目には、高級レストランのレビューアー然とした、いかにもグルメな壮年男性に見えたのだ。
「フン、このクソ高い魚料理、味が薄いニャー!」
猫は、ナイフとフォークを叩きつけるように振り回しながら、人間さながらの声で怒鳴り散らした。その姿は、周囲の客にはただの猫がテーブルの下でじゃれているようにしか見えていない。だが、誠には、そのグルメ猫の怒りが鮮明に聞こえた。
さらに、窓の外では、カップルが別れ話をしている。その様子を、電線に止まったハトが、誠にはまるで野次馬のオバサンたちに見えた。
「あらあら、また別れてるわよ。男が悪いわねぇ、やっぱり」
「そうよねぇ。そんなんじゃ、次の相手もすぐ見つかるわけないわよ」
ハトたちは、頭を突き合わせながら、カップルの破局を肴に、まるで井戸端会議に興じているようだった。
誠は、佐藤さんとの会話に全く集中できなかった。内心では「いい加減にしてくれ!」と叫びたかったが、佐藤さんの前では平静を装うしかなかった。
「高野さん? どうかしました?」
佐藤さんが心配そうに尋ねる。
「いえ、なんでもありません! このパスタ、美味しいですね!」
誠は無理に明るい声を出し、パスタを口に運んだ。その時、足元に先日のトイプードル紳士が、いつの間にか現れていた。
「まだ気づかないのかね、高野くん」
紳士は、誠の足元でそっと語りかける。
「君は自分の殻に閉じこもりすぎている。世界は、君が思うよりずっと滑稽で、だからこそ美しいんだ。彼ら(動物たち)は、君にそれを見せようとしているだけだ」
その言葉が、誠の脳裏に稲妻のように走った。
そうだ、彼ら動物たちは、自分に人間社会の滑稽な側面、本能的な欲望、そしてその中で必死に生きる姿を、擬人化して見せていたのではないか? 自分はこれまで、人間関係の複雑さや、本音と建前のギャップに怯え、常に一歩引いていた。だが、動物たちの率直で、しかしどこか人間臭い言動は、人間社会の縮図そのものだ。彼らは、人間が普段隠している「本音」を、剥き出しにして見せている。それはあまりにも滑稽で、時には残酷だが、彼らはその「滑稽さ」を必死に生き抜いている。
誠は、その瞬間、視界が晴れるような感覚を覚えた。この能力は、自分が人間社会に馴染むための、あるいは人間社会の真実を学ぶための、奇妙な「ギフト」なのかもしれない。
第四章 獣たちの教え、人間の戦略
誠は、自分の奇妙な能力を受け入れ始めた。いや、むしろそれを「活用」し始めたと言ってもいい。動物たちが人間として見せる言動は、彼の目にはもはや幻覚ではなく、人間社会の縮図であり、戦略の宝庫に見えてきたのだ。
職場での会議中。誠は、いつもなら発言を躊躇してしまうような場面でも、以前とは違う行動を取るようになった。窓の外の電線に止まったカラス(OL風)が、「言いたいことは言っとかないと、パンくず(チャンス)は他人に取られるわよ! 自分の意見を言わない奴は、餌にすらありつけないんだからね!」と、けたたましい声で忠告する。その声は、他の同僚には「カーカー」という単なる鳴き声にしか聞こえないが、誠には強烈なメッセージとして響いた。
「…あの、私見ですが」
誠は意を決して、自分の意見を述べた。最初はどもりがちだったが、カラスの言葉が背中を押してくれた。彼らの言動は、時にストレートすぎて笑えるほどだが、その裏には「生存競争」という確かな本能が働いている。人間社会もまた、形を変えた生存競争なのだと、誠は彼らから学んだ。
例えば、飲み会で上司の冗談にどう反応すべきか迷った時、テーブルの下をチョロチョロと動くネズミが、誠にはベテランの芸人に見えた。
「フフン、ここで笑わない奴は、空気の読めない奴だぜ。でも、媚びすぎてもいけない。さじ加減が肝心だ」
ネズミ芸人は、絶妙なタイミングで顔芸を披露し、誠を鼓舞する。誠は、その助言を受けて、決して媚びることなく、しかし場を盛り上げる笑いを返すことができた。
佐藤さんとの関係も、少しずつ進展を見せていた。彼女は、誠が以前よりも明るく、積極的に話すようになったことに驚き、そして喜んでくれた。二人で公園を散歩している時、佐藤さんは道端の野良猫を優しく撫でた。
「この子、いつもここにいるの。なんだか、賢そうな目をしてるでしょ?」
佐藤さんの言葉を聞きながら、誠は、その野良猫が、誠にはあの「缶コーヒーを持った疲れた部長」に見えていることに気づいた。部長は、佐藤さんの撫でる手に目を細めながら、誠に向かって小さく頷いた。
「娘をよろしく頼むよ、高野くん。君なら、娘を幸せにできるかもしれない。ただし…」
部長猫は、顔を近づけてきて囁いた。
「人間関係ってのは、猫の気まぐれと同じくらい複雑で、いつ裏切られるか分からないもんだ。その覚悟があるなら、だがね」
誠は苦笑した。動物たちの言葉は、相変わらずシュールで、時には身も蓋もないが、それは人間社会の真実を突いている。彼はもう、以前のように人間関係を恐れることはなかった。彼らの滑稽な生存戦略を通して、人間社会の滑稽さ、そしてその中で自分らしく生きる術を、少しずつ身につけていたのだ。
第五章 檻なき世界、余韻の先へ
誠の能力は、ある日突然、薄れ始めた。最初はその変化に気づかなかったが、次第に、街中の動物たちが、誠の目にも「ただの動物」に見えるようになっていった。
ある朝、通勤途中の公園のベンチ。誠は、あの初めて遭遇した野良猫を探した。果たして、いた。ごく普通の茶トラ猫が、日向で気持ちよさそうに丸まっている。缶コーヒーは持っていないし、愚痴もこぼさない。誠は、少し寂しさを感じたが、同時に、自分の内面に、大きな変化が訪れたことを悟った。もう、動物たちの「人間化した姿」の助けは必要ない。彼は、彼らから人間社会の真実を学び、自分自身の殻を破ることができたのだ。
佐藤さんとのデート中。カフェの窓から見える鳩が、もうただの鳩に見える。しかし、誠は、あの鳩がかつて「今日のパンくずはどこの派閥が…」と真剣に議論していたことを思い出し、思わず笑みがこぼれた。
「高野さん、どうしたんですか?」
佐藤さんが不思議そうに尋ねる。
「いえ、なんでもないです。ただ…世界って、意外と面白いなって」
誠は、佐藤さんの手をそっと握った。彼女の指先は温かかった。
誠は、もう以前のような内気な自分ではない。彼は、動物たちが擬人化して見せてくれた「人間社会の滑稽な真実」を心に深く刻み、それを恐れるのではなく、愛するようになった。人間は、時に本能的で、時に理不尽で、時に滑稽な生き物だ。だが、その滑稽さの中にこそ、人間らしい愛おしさや、生きるための知恵が隠されている。
彼の奇妙な能力は、完全に消滅した。だが、誠の内面には、彼らが教えてくれた「世界は滑稽だが、だからこそ愛おしい」という教訓が、深く根付いていた。彼はもう、人間社会という檻の中で怯えることはない。むしろ、その檻の中で、自分らしく、そして滑稽さを楽しみながら生きる術を見つけたのだ。
もしかしたら、あの能力は、誠が人間社会で生きるために必要な「視点」を手に入れるまでの一時的な「ギフト」だったのかもしれない。彼が見ていた「人間化した動物たち」の滑稽な姿は、実は人間自身が本能的に持っている「滑稽さ」や「必死さ」の象徴だったのだろう。そして、誠はその滑稽さを受け入れ、人間として一歩前に踏み出すことができた。世界は相変わらず滑稽だが、彼はその滑稽さを愛し、その中で自分らしく生きる道を歩み始めたのだ。