コンクリートの森の囁き
第一章 空き缶の独白
アスファルトは熱を帯び、陽炎が立ち上る。僕、相田譲(あいだゆずる)の意識は、路地裏に転がる空き缶の冷たい金属の中に沈んでいた。
「だから何度も言っただろう! このキャッチコピーじゃ、部長のOKは絶対に出ないって!」
つい十分前、会議室に響き渡った上司の怒声が、頭の中で反響する。気圧されるように縮こまり、喉の奥から絞り出した「申し訳ありません」という声は、誰の耳にも届かなかっただろう。限界だった。極度のストレスは、僕の体を自動的にその場で最も目立たない『無機物』へと変えてしまう。今日は、自販機の横に捨てられていたアルミ缶だ。ひしゃげたボディに描かれた、色褪せたジュースのロゴが僕の今の顔だった。
金属の殻を通して、世界はくぐもって聞こえる。地面を伝う振動、遠くのサイレン、風がゴミを揺らす乾いた音。人間だった時の五感とはまるで違う、鈍くて直接的な感覚。いっそこのまま、誰にも気づかれず、雨に打たれ、土に還れたら。そんな虚無的な思考が浮かんだ、その時だった。
「――で、例の件だが。進捗はどうなっている、黒羽よ」
渋く、威厳のある声。すぐ近くから聞こえる。僕は金属の視界を凝らした。ゴミ集積所の縁に、漆黒の羽を持つ一羽のカラスが止まっている。その鋭い眼光は、まるで老練な将軍のようだ。
「はっ。滞りなく。各地区の代表との連携も済んでおります、ヌシ様。ただ、ひとつ懸念が」
カラス――黒羽と呼ばれたその鳥が応えた相手は、ゴミ箱の蓋の上に優雅に座る、巨大な三毛猫だった。片耳がちぎれ、顔にはいくつもの古傷。しかし、その佇まいは森の王者の風格を漂わせている。
「懸念だと?」
「ええ。奴ら……人間の抵抗手段についてです。我々の『人間絶滅計画』を、奴らがただ黙って見過ごすとは思えません」
人間、絶滅、計画?
僕はアルミの体の中で凍りついた。聞き間違いか? だが、彼らの会話は続く。その内容は、僕のちっぽけな悩みなど吹き飛ばすほど、恐ろしく、そしてどこか奇妙なものだった。
第二章 囁かれる黙示録
人間の姿に戻った僕は、自室のベッドの上で震えていた。あれは幻聴だったのだろうか。しかし、あのカラスと猫が交わしていた会話の生々しさは、耳の奥にこびりついて離れない。
「人間は我々の言葉を理解できない、鈍感な生き物だ」
彼らはそう確信している。だからこそ、僕のような存在がすぐそばに転がっていても、平気であんな会話を交わしたのだ。僕が長年抱えてきたこの呪いのような体質が、今、世界の秘密の扉をこじ開けてしまったのかもしれない。
いてもたってもいられず、僕は街に出た。公園のベンチ、神社の境内、商店街の裏路地。動物たちが集いそうな場所を、何かに憑かれたように歩き回る。彼らの真意を知らなければ。
夕暮れの公園。子供たちの声が遠のき、静寂が訪れる頃、再びあの圧力が僕を襲った。それは恐怖からくるストレスだった。僕はとっさに植え込みに駆け込み、意識が遠のく。次に気づいた時、僕は小さなテラコッタの植木鉢になっていた。
ざわめきが聞こえる。見ると、公園の噴水を取り囲むように、無数のハトが集まっていた。彼らは退屈そうに首を振りながら、何やら真剣な議論を交わしている。
「やはり、最終兵器は『無限に出てくるパンくず』ではないかと思うのだが」
「馬鹿を言え。それじゃ我々が肥えるだけだ。人間を絶滅させるには、『永遠に乾かない水たまり』こそが最強だ。奴らの靴をことごとく汚し、精神的ダメージを与えるのだ」
「甘いな。奴らの車に的確にフンを落とし続ける『精密爆撃部隊』の編成こそ急務であろう」
僕は、植木鉢の硬い土の中で、途方もない混乱に陥っていた。彼らは本気で言っているのか? 『人間絶滅計画』と銘打たれたその作戦は、どれもこれもあまりに非効率的で、まるで子供の悪戯のようだ。彼らは本当に、人類を脅かす存在なのだろうか。それとも、僕がまだ知らない、もっと深い意図があるのだろうか。謎は深まるばかりだった。
第三章 カタログの秘密
情報を集めるうち、この地域の動物社会の頂点に君臨する、あの三毛猫――『ヌシ様』の存在が浮かび上がってきた。全ての計画は、彼が根城にしている廃神社の本殿で練られているという。僕は、真実を確かめるため、危険を承知でそこに潜入することを決意した。
月が細く空にかかる深夜、僕は廃神社の境内にいた。自ら作り出した極限の緊張感で、体を震わせる。目標は、本殿の前に鎮座する、古びた賽銭箱。これ以上に会議の様子を盗み聞きするのに適した場所はない。意識が明滅し、気づけば僕は、長い年月を経て黒ずんだ木の一部と化していた。
やがて、境内に影が集まり始めた。猫、犬、カラス、タヌキ、さらにはハクビシンまで。彼らは静かに本殿の前に整列し、ヌシ様の登場を待っている。やがて、本殿の暗がりからヌシ様が姿を現すと、場に厳かな空気が満ちた。
「諸君、今宵は『第一回・人間をビビらせて最高の待遇をゲットする大作戦会議』に集まってくれて感謝する」
ヌシ様の言葉に、僕は賽銭箱の投入口から転げ落ちそうになった。なんだその名前は。『人間絶滅計画』じゃなかったのか?
ざわめく動物たちを、ヌシ様が前足で制す。そして、彼の傍に控えていた一匹の柴犬が、風呂敷包みを恭しく運んできた。中から現れたのは、分厚い一冊の冊子だった。
『最高級人間用おやつカタログ』
表紙には、そんな文字が愛らしい肉球のスタンプと共に記されている。ヌシ様がページをめくると、動物たちの間から感嘆のため息が漏れた。
「見ろ、これが我らの最終目標だ。『一番マグロのトロだけを使った特製ネッコごはん』!」
「おおっ!」
「『A5ランク和牛の霜降りジャーキー、トリュフを添えて』!」
「なんと……!」
カタログには、人間が聞いても呆れるような、贅沢の限りを尽くしたおやつの数々が、稚拙だが愛情のこもった絵で描かれていた。さらに、「猫じゃらしが自動で動くドーム型ハウス」や「無限にボールが湧き出る泉付きドッグラン」といった、奇想天外な遊び場の設計図まで添えられている。
彼らの『人間絶滅計画』とは、人間を物理的に滅ぼすことではなかった。彼らは、人間を困らせ、怖がらせることで、自分たちの生活水準を向上させようと企んでいたのだ。これは、壮大で、手の込んだ、動物たちによる大喜利大会だったのだ。
第四章 共犯者の誕生
「最終的には、飼い主が一番大事にしているソファで爪を研ぐのが最も効果的ではないか!」
「いや、奴らが寝静まった深夜に、全力で部屋中を走り回る『真夜中の大運動会』こそが精神的に最も追い詰める!」
「我々鳥類は、奴らの朝の目覚ましより一時間早く、窓辺で大合唱を行う『暁のレクイエム作戦』を提案する!」
白熱する議論。そのあまりの馬鹿馬鹿しさに、僕は恐怖も緊張も忘れ、賽銭箱の体の中で呆気に取られていた。彼らは本気だ。本気で、どうすれば人間を困らせて、面白い反応を引き出し、ついでにおやつをせしめることができるかを話し合っている。その根底にあるのは、憎しみではなく、むしろ捻くれた愛情のようなものさえ感じられた。
その時だった。安堵と呆れで全身の力が抜けた僕は、致命的なミスを犯した。変身が、解けてしまったのだ。
木の質感が失われ、手足の感覚が戻る。ゴトン、と音を立てて賽銭箱から転がり出た僕は、数十の動物たちの視線を一身に浴びていた。
静寂。時間が止まったかのようだった。カラスがカァ、と短く鳴き、柴犬が「人間……?」と呟くのが聞こえた。
絶体絶命。しかし、僕の心にあったのは恐怖ではなかった。むしろ、この滑稽で愛おしい反逆者たちに、奇妙なシンパシーを覚えていた。
「ま、待ってくれ!」
僕は両手を上げて立ち上がった。ヌシ様が、金色に光る瞳で僕を射抜く。
「……貴様、聞いていたのか」
「あ、ああ。最初から、全部」
僕は覚悟を決めた。この呪われた体質のことを、正直に打ち明けた。ストレスで無機物に変身してしまうこと。そして、彼らの計画を偶然聞いてしまったことを。
動物たちは驚愕に目を見開いている。ヌシ様はしばらく僕を睨みつけていたが、やがてふっと、その口元を緩めた。
「面白い。人間の中にも、我々の言葉を理解できる変わり者がいたとはな」
そして僕は、震える声で、しかしはっきりと提案した。
「もし……もしよければ、僕が協力するよ。君たちの計画、あまりに非効率的すぎる。僕なら、もっと上手くやれる」
第五章 アスファルトの上の共存
それから、僕の人生は一変した。僕は動物たちの秘密の『エージェント』となり、彼らの壮大な茶番劇の片棒を担ぐことになったのだ。
上司に叱責され、道端の小石に変身すれば、すぐそばで猫たちが「最近、カリカリの味が落ちた」と愚痴をこぼす。僕はその情報を元に、後日、飼い主が偶然立ち寄ったペットショップで、最高級フードのサンプルを「偶然」見つけるように仕向ける。
満員電車で押し潰され、カバンの底のボールペンになれば、犬たちの「もっと広い公園で遊びたい」という切実な願いを盗み聞く。僕はコピーライターのスキルを活かし、匿名の投書という形で区役所に「ドッグラン新設を求める市民の声」を届け、計画を実現させる。
ストレスは相変わらず僕の体を無機物に変える。だが、それはもはや逃げるべき苦痛ではなかった。世界に隠されたもう一つの真実を知り、二つの種族の橋渡しをするための、大切な『鍵』になった。
今日も僕は、部長に企画書を突き返され、会社の前の赤い消火栓になっていた。鉄の体は夏の陽射しを浴びて熱い。すぐそばの横断歩道で、一匹の柴犬が飼い主に連れられて信号を待っていた。彼は僕の方をちらりと見ると、近くを通りかかった別の犬に、片目を瞑って見せた。
『作戦通りだワン』
その声は、もちろん飼い主の耳には届かない。
僕だけが知っている。このコンクリートの森で、人間と動物たちが繰り広げる、壮大で、滑稽で、そしてどこまでも愛おしい共犯関係の秘密を。彼らは互いを理解できないと信じ、僕はその誤解の隙間で、世界の調律をそっと行っている。真っ赤な鉄の体の中で、僕は誰にも見咎められることのない、静かな笑みを浮かべた。この奇妙な世界の、孤独で、最高に愉快な共犯者として。