第一章 静寂の欠片
歴史修復士である僕、カイの仕事場は、埃とインク、そして遥かなる時間の匂いが混じり合った場所だった。巨大な書架に並ぶのは、公式に編纂された人類史の記録媒体『クロノ・レコード』。だが、僕の心を捉えて離さないのは、その対極にある未整理の棚に眠る、発掘されたばかりの「時の化石」だ。琥珀のように鈍い光を放つそれらは、失われた時代の記憶を内包した結晶。僕たち修復士は、それに触れることで過去を追体験し、歴史の空白を埋めていく。
その日、僕が地下保管庫の片隅で見つけたのは、これまで誰も見たことのない奇妙な化石だった。通常、時の化石は内包する記憶の熱量に応じて、微かな色や温度を帯びている。しかし、手のひらに収まるほどのその乳白色の石は、氷のように冷たく、まるで全ての音を吸い込んでしまったかのような、深淵な静寂を湛えていた。鑑定機は何のエラーも示さない。間違いなく、これは誰かの、あるいは何かの記憶の結晶だ。
「触れるな、カイ」
背後からかかったのは、師であるエリオットの低く、乾いた声だった。彼は僕の手の中の石を一瞥し、深い皺の刻まれた顔を厳しく歪めた。
「それは『無響』の化石だ。公式記録から完全に抹消された『沈黙の時代』のものだと言われている。呪われた時代の遺物だよ」
呪われた時代。その言葉は、僕の好奇心に火をつけた。歴史とは、勝者が編纂した物語に過ぎない。抹消されたという事実こそが、そこに触れなければならない真実が眠っている証左ではないか。僕は、師の制止を振り切るように、化石を強く握りしめた。
その瞬間、世界から音が消えた。
耳鳴りすらしない、完全な真空。目の前に広がるのは、色彩を失いかけた街並みと、口を動かしながらも何の音声も発しない人々の姿。風はそよいでいるのに、その音は聞こえない。赤ん坊が泣き叫んでいるのに、その声は届かない。それは恐怖を通り越して、神聖さすら感じるほどの絶対的な静寂だった。そして僕は、その世界の片隅で、空を見上げて何かを必死に探している一人の少女の姿を、確かに見た。
意識が現実に戻った時、僕の額には汗が滲んでいた。心臓が激しく脈打っている。師は悲しげな目で僕を見つめていた。
「歴史の深淵を覗く者は、代償を払う。お前も知っているはずだ」
もちろん、知っている。時の化石に触れるたび、修復士は自身の記憶を僅かずつ摩耗させていくのだ。過去の奔流に、自らの存在が洗い流されていくような感覚。だが、あの静寂の世界と、空を見上げる少女の瞳が、僕の魂に焼き付いて離れなかった。僕は、この歴史の謎を解き明かすと、静かに決意した。
第二章 摩耗する記憶
あの日以来、僕は『無響』の化石に取り憑かれた。師の目を盗んでは地下保管庫に籠もり、幾度となくあの静寂の世界へ旅立った。触れるたびに、ビジョンは鮮明になっていく。僕は、あの少女――名をリラというらしい――の視点を借りて、音のない世界を歩き回った。
リラは、街の時計塔でたった一人で暮らしていた。彼女は言葉を発さず、人々との交流も避けているように見えた。彼女の日課は、空を見上げ、何かを待つこと。そして夜になると、小さなオルゴールを分解し、その歯車を磨き上げることだった。だが、そのオルゴールが音を奏でることは決してない。彼女の世界では、音楽も、歌も、人々の笑い声さえも存在しないのだ。
化石との接触を重ねるにつれ、僕の身にも確かな変化が現れ始めた。最初は些細なことだった。昨日の夕食に何を食べたか、思い出せない。友人と交わした約束を、うっかり忘れてしまう。だが、ある朝、僕は決定的な喪失に気づいた。
洗面台の鏡に向かい、無意識に鼻歌を口ずさもうとした時、メロディーが全く浮かんでこなかったのだ。幼い頃、母がいつも歌ってくれた子守唄。優しくて、温かい、僕の世界の原風景とも言えるあの旋律が、頭の中から綺麗に消え去っていた。思い出そうとすればするほど、記憶は深い霧の向こうへと遠ざかっていく。胸にぽっかりと穴が空いたような、途方もない喪失感が僕を襲った。
「それが代償だ」
僕の異変に気づいたエリオットが、静かに言った。
「失われた歴史を呼び起こすことは、自らの歴史を差し出すことと同義だ。特に『沈黙の時代』は、触れる者の記憶の中から『音』に関するものを優先的に奪っていく。歌、音楽、愛する者の声…お前は、それら全てを失っても、真実とやらが知りたいのか?」
師の言葉は重く僕にのしかかった。恐怖はあった。僕という人間を形成してきた大切な記憶が、砂の城のように崩れていく。しかし、僕の脳裏には、音のない世界でたった一人、空を見上げるリラの孤独な姿が浮かんでいた。彼女は何を待っているのか。なぜ世界から音は消えたのか。僕はもう、引き返すことはできなかった。失っていく記憶の痛みが、むしろ僕を駆り立てる燃料となっていた。この喪失に見合うだけの真実が、きっとあの化石の奥底に眠っているはずだと信じて。
第三章 沈黙の福音
幾度目かの接触で、僕はついに『沈黙の時代』の核心へと辿り着いた。それは、僕が想像していたような呪われた歴史などではなかった。むしろ、それは人類が犯した過ちに対する、あまりにも切実で、悲痛な祈りのような時代だったのだ。
リラの記憶を通して僕が見たのは、彼女が生まれるより少し前の世界。そこは「音」に満ち溢れていた。人々は「共鳴術」と呼ばれる技術を発展させ、音の振動によって感情を増幅させ、他者と共有していた。喜びの歌は国中に響き渡り、人々の心を一つにした。しかし、その技術は諸刃の剣だった。ひとたび憎悪や悲しみの感情が生まれれば、それは瞬く間に増幅され、音の波となって世界中に伝染した。
やがて、些細な対立から生まれた負の感情の共鳴は、世界規模の戦争を引き起こした。憎しみの絶叫が空を覆い、人々は互いに傷つけ合った。世界は破滅の寸前にあった。
生き残った科学者や指導者たちは、苦渋の決断を下す。これ以上、人類が音によって自滅するのを防ぐために、世界から「音」という概念そのものを消し去るしかない、と。彼らは巨大な装置『サイレント・オーブ』を建造し、あらゆる音の振動を中和する特殊な波長を世界に放った。
そして、その最後のスイッチを押す役目を託されたのが、特殊な聴覚を持ち、音の波長に唯一耐性があった一族の末裔――少女リラだったのだ。
彼女は、両親から託された使命を理解していた。世界を救うために、世界から歌を、音楽を、鳥のさえずりや風の音、そして愛する人々の声を奪わなければならない。彼女が時計塔で磨いていたオルゴールは、かつて母親が歌ってくれた子守唄のメロディーを奏でる、形見の品だった。彼女は、その音色を世界から消し去る最後の瞬間に、そのメロディーを永遠に記憶に刻み込もうとしていたのだ。
ビジョンの最後、僕は幼いリラが『サイレント・オーブ』の前に立つ姿を見た。彼女は涙を流しながら、かすかに動く唇で、音にならない子守唄を口ずさむ。そして、震える手でスイッチを押した。世界が、完全な静寂に包まれた。
その瞬間、僕の脳内に激しい稲妻が走った。リラが口ずさんでいた音にならない子守唄のメロディー。それは、僕が失ったはずの、母が歌ってくれた子守唄と全く同じ旋律だった。
そうだ。リラは、僕の遠い、遠い祖先なのだ。
僕の記憶が失われるのは、単なる仕事の代償ではなかった。それは、歴史の奔流に触れた僕に対し、子孫が二度と過ちを繰り返さぬようにと願う、祖先の悲痛な祈りが干渉していたのだ。「音」の持つ恐ろしさを忘れるな、と。僕の記憶から音を奪うことで、彼女は僕に警告し続けていたのだ。
第四章 風の音を聴く者
全ての真実を知った僕は、時の化石を手にしたまま、何時間も呆然としていた。歴史から抹消されたのは、人類の愚かな過ちと、それを正すために全てを犠牲にした少女の崇高な祈りだった。これを公式記録として公表すべきか?「共鳴術」の存在を現代に伝えれば、人類はまた同じ過ちを繰り返すかもしれない。しかし、このまま沈黙を守れば、リラの犠牲と苦悩は、永遠に誰にも知られぬまま闇に葬られてしまう。
僕は師のエリオットに全てを話した。彼は静かに僕の話を聞き終えると、ゆっくりと口を開いた。
「歴史とは、ただ記録されるべき事実の羅列ではない。それは未来への教訓であり、時にはそっと胸にしまっておくべき祈りでもある。お前がどうすべきか、私には言えん。だが、お前はもう、ただの修復士ではない。リラの祈りを受け継いだ者だ」
その言葉に、僕は自分の進むべき道を見出した気がした。
数日後、僕は公式記録に『沈黙の時代』に関する報告書を提出した。そこには「原因不明の環境変動により、一時的に音響伝達に異常が生じた時代」とだけ記した。「共鳴術」や『サイレント・オーブ』についての記述は一切ない。僕は、人類が再び手を出すべきではないパンドラの箱を、固く閉ざすことを選んだ。
しかし、僕はもう一つの記録を、個人的な日誌として書き留めた。音のない世界で、たった一人で世界を救った少女リラの物語。彼女が愛した子守唄の旋律(もはや僕の記憶にはないため、化石から読み取った波形データを添えて)。そして、彼女の犠牲の上に、僕たちが今こうして音のある世界で生きているという感謝を。これは誰かに見せるためではない。僕が、僕たちの子孫が、決して忘れてはならない祈りの記録だ。
多くの記憶を失った。友人の顔、好きだった本のタイトル、そして母の声。僕の世界は以前よりずっと静かになってしまった。だが、不思議と心は満たされていた。失った記憶の代わりに、僕はもっと根源的で、大切なものを手に入れた気がする。
仕事場の窓を開けると、心地よい風が吹き込んできた。以前の僕なら気にも留めなかったであろう、微かな風の音。木の葉が擦れ合う音。遠くで聞こえる人々のざわめき。それら一つ一つが、奇跡のように尊く、愛おしく感じられた。
それは、僕の遠い祖先が、命をかけて守りたかった世界の音だった。僕は目を閉じ、その音に静かに耳を澄ます。もう子守唄を思い出すことはできないけれど、この世界の全ての音が、僕にとっては新しい子守唄のように優しく響いていた。僕は、歴史を修復するのではなく、歴史の祈りと共に生きていく者になったのだ。