第一章 不協和音の記憶
月島響(つきしま ひびき)にとって、世界は耐えがたいノイズに満ちていた。彼は、物に宿る人間の強い記憶を「音」として聴いてしまう、特異な共感覚の持ち主だった。それは映像でも言葉でもない。喜びは軽やかなハープのアルペジオとして、悲しみはチェロの低く長い嗚咽として、そして怒りは、耳を劈くような金属の摩擦音として、彼の鼓膜を直接揺さぶるのだ。
この呪われた才能ゆえに、響は人との関わりを極力避け、古いピアノの調律師として生きていた。木と金属と羊毛のフェルトで構成されたピアノは、無数の記憶を吸い込んでいる。だが、その多くは練習の苛立ちや発表会の緊張といった、ありふれた感情の残響だ。彼はそれらの音を一つひとつ調律するように、あるべき響きへと整えていく。その作業だけが、響に束の間の静寂を与えてくれた。
その日、彼が訪れたのは、丘の上にひっそりと佇む古い洋館だった。依頼主は、小野寺美咲と名乗る、澄んだ瞳を持つ若い女性。彼女は亡き祖父が遺したという、一台のグランドピアノの調律を依頼してきた。黒檀の艶が失われ、象牙の鍵盤が黄ばんだそのピアノは、まるで巨大な棺のように静まり返っていた。
「祖父が、宝物のように大切にしていたピアノなんです。もう一度、あの頃の音を聴きたくて……」
美咲の言葉には、深い愛情が滲んでいた。響は黙って頷くと、そっと鍵盤に指を伸ばした。その瞬間だった。
――ガツンッ!!
鈍く、湿った打撃音。骨が軋むような、嫌な感触まで伝わってくる。続けて、絞り出すような苦悶の息遣い。そして、世界が砕け散るかのような、甲高い不協和音。それは単なるノイズではなかった。暴力。憎悪。そして、絶望。響がこれまで経験したことのない、あまりにも生々しく、破壊的な「記憶の音」だった。
全身の血が逆流するような感覚に襲われ、響は思わず手を引いた。額には脂汗が滲む。間違いない。このピアノは知っている。ここで誰かが――おそらくは、命を奪われたのだ。
「どうか、なさいましたか?」
心配そうに顔を覗き込む美咲に、響はかろうじて「いえ、なんでも」と答えるのが精一杯だった。彼の内側で、静寂を求める心と、このおぞましい記憶の音の正体を突き止めなければならないという奇妙な義務感が、激しくせめぎ合いを始めていた。彼は、このピアノの「調律」が、単なる音合わせでは済まないことを予感していた。それは、封印された死の記憶を解き明かす、危険な作業の始まりだった。
第二章 調律師の迷宮
一度は断ろうとした依頼を、響は引き受けざるを得なかった。美咲の純粋な眼差しと、彼女が語る祖父との思い出話が、彼を縛り付けたのだ。「祖父は、このピアノでよく私に子守唄を弾いてくれました。その音色は、世界で一番優しい音でした」と語る彼女に、あの残忍な不協和音の真実を告げることなどできるはずもなかった。
調律作業は、困難を極めた。ピアノに触れるたび、あの暴力的な音がフラッシュバックのように響の精神を侵食する。彼は工具を握る手に力を込め、意識を目の前の弦とハンマーに集中させた。だが、作業を進めるうちに、彼は新たな「音」を聴き始める。
ポツ、ポツ……と窓ガラスを叩く、冷たい雨の音。カタ、カタ、と規則正しく時を刻む、古い懐中時計の秒針の音。そして、微かに震える、若い女性の囁き声のような音。それらは断片的な残響として現れては消え、響を深い迷宮へと誘い込んだ。
響は美咲や、屋敷に出入りする他の家族とも、それとなく言葉を交わした。祖父・小野寺壮一は、三年前の嵐の夜に、この書斎で心不全を起こし亡くなったとされていた。第一発見者は美咲だったという。壮一の死後、彼の莫大な遺産を巡って、長男夫婦と次男との間には、目に見えない緊張が走っていた。誰もが祖父の死を悼んでいるように見えながら、その瞳の奥には、どこか冷たい光が宿っているように響には感じられた。
誰もが怪しい。長男は事業に失敗し、壮一に金の無心をしていたという。次男は芸術家気取りで、常に金の出処を探していた。そして、穏やかに見える長男の妻もまた、高価な装飾品を身につけていた。彼らがこの書斎で交わしたであろう、欲望に満ちた会話の残響が、まるで不快な低周波のように響の耳の奥で鳴り続けていた。
「月島さん、どうか無理なさらないでください。顔色が悪いですわ」
美咲が淹れてくれた紅茶のカップを持つ手が、微かに震えていた。彼女の純粋な気遣いが、逆に響の罪悪感を煽る。自分は、彼女の敬愛する祖父が、この家族の誰かに殺された可能性を探っているのだ。
「大丈夫です。もう少しで……芯の音が、見えてきそうですから」
彼は嘘をついた。実際には、音の断片は増えるばかりで、核心からは遠ざかる一方だった。打撃音、雨音、時計の音、囁き声……。バラバラのパズルのピースは、あまりにも多すぎた。このままでは、ピアノの音色を調律する前に、自分の精神が先に不協和音を奏でて壊れてしまうだろう。焦りと恐怖が、じわじわと彼の心を蝕んでいった。
第三章 共鳴する真実
調律作業の最終日。響は、最後の鍵盤に触れようとしていた。窓の外では、あの日と同じように、冷たい雨が降り始めている。彼は深く息を吸い込み、意を決して高音部の、最も繊細な音を司る鍵盤を叩いた。
その瞬間、世界から一切の音が消えた。
静寂。そして、次の刹那、これまで断片的だった全ての「音」が、一つの交響曲となって彼の内側で鳴り響いた。それはもう、耳で聴く音ではなかった。魂で聴く、記憶の奔流だった。
――激しい雨音。屋敷に忍び込む、泥臭い足音。ガシャン、と何かが割れる音。驚いた壮一の声。
「誰だ!」
もみ合う二人。カタ、カタ、と恐怖に速まる懐中時計の秒針。泥棒が、棚の上に置かれていた小さな木箱に手を伸ばす。
「それだけは、やめろ!」
壮一の悲痛な叫び。それは、孫娘の美咲が幼い頃、初めて自分の手で作ってプレゼントしてくれた、不格好だが愛おしいオルゴールだった。壮一は泥棒に掴みかかる。その拍子に、泥棒の手が壮一の胸を強く突いた。
――ガツンッ!!
響が最初に聴いた、あの鈍い打撃音。それは殴られた音ではなかった。突き飛ばされた壮一が、グランドピアノの角に後頭部を強かに打ち付けた音だった。
絞り出すような苦悶の息遣い。床に崩れ落ちる巨体。そして、ポケットから滑り落ちた懐中時計のガラスが、床に叩きつけられて粉々に砕け散る、甲高い不協和音。
最後に聴こえたのは、遠ざかる泥棒の足音と、か細く、途切れ途切れになる壮一の囁きだった。
「……み、さき……」
全ての音が止んだ時、響は呆然と鍵盤の前に座り込んでいた。涙が、彼の頬を伝っていた。
これは、殺人の記憶などではなかった。一人の男が、孫娘との思い出の品を、命を懸けて守ろうとした「愛」の記憶だったのだ。
響はハッと顔を上げた。なぜ、ピアノがこの記憶を?
彼の視線は、ピアノの傍らに置かれた小さな棚に向けられた。そこには、古びた木製のオルゴールが、そっと置かれていた。ピアノと同じ、マホガニー材で作られたオルゴールが。
共鳴だ。ピアノとオルゴールが、同じ素材であるがゆえに、記憶を共鳴させていたのだ。自分が聴いていたのは、ピアノではなく、この小さなオルゴールに宿った、壮一の最後の記憶だった。
第四章 追憶のソナタ
響は、震える声で美咲に全てを話した。祖父が亡くなった夜、屋敷に強盗が入り、その強盗から彼女のオルゴールを守ろうとして、事故で亡くなったことを。警察の記録を調べれば、その時期に近隣で逮捕された強盗犯がいるはずだと。
美咲は、オルゴールを胸に抱きしめ、静かに涙を流した。それは悲しみの涙であると同時に、祖父の深い愛情を知った、温かい涙でもあった。遺産を巡ってぎくしゃくしていた家族も、壮一の死の真実を知り、言葉を失っていた。彼らは、金銭よりも遥かに大切なものを、見失っていたことに気づかされたのだ。
全てのわだかまりが解けた後、響は改めてピアノの前に座った。そして、調律を終えたばかりの鍵盤に、そっと指を降ろした。
彼が弾き始めたのは、美咲が子守唄として聴いていたという、穏やかで優しい旋律だった。
その音色は、どこまでも澄み渡っていた。暴力的な不協和音は、もうどこにもない。そこにあるのは、深い悲しみを乗り越えた先にある、温かな愛情と、追憶の響きだけだった。一音一音が、壮一の優しい囁きのように、書斎を満たしていく。
演奏を終えた響は、静かに立ち上がった。美咲と家族は、ただ涙を浮かべながら、深く頭を下げた。
洋館を後にした時、雨はすっかり上がっていた。空には、洗い流されたような青が広がっている。響は、ふと立ち止まり、耳を澄ませた。
風が木々の葉を揺らす音。遠くで子供たちが笑い合う声。街の喧騒。これまで彼を苛んできた世界のノイズが、今はまるで、それぞれに物語を持つ、美しい音楽のように聴こえた。
呪いだと思っていた自分の力は、誰かの真実の想いを掬い上げ、人と人とを繋ぐためのものだったのかもしれない。彼は初めて、自分に与えられたこの耳を、肯定することができた。
月島響は、空を見上げたまま、ゆっくりと歩き出す。彼の調律師としての、そして一人の人間としての新たな人生が、今、静かに始まった。世界に満ちる無数の音は、もう彼を傷つけない。それは、彼がこれから調律していくべき、愛おしい旋律の数々だった。