影喰らいの残響
第一章 逆さの影と囁く街
アスファルトが雨の記憶を吐き出す、湿った匂いがした。僕、柝木 融(きぎ とおる)は、古物商の店の軒先で、街が纏う光学的な幻影をぼんやりと眺めていた。人々が『反響視界(エコービジョン)』と呼ぶ過去の残像だ。数時間前のものだろうか、足早に横切る人々の淡い光が、現実の通行人と重なり合っては消えていく。この街ではありふれた光景。だが、僕の目には、それ以上のものが映っていた。
人間の足元に伸びる影。その黒々とした水面には、時折、持ち主の真実が『逆さまの世界の像』として揺らめく。隠された意図、秘めた過去、本人すら気づかぬ予感。僕にとって、影は嘘をつけない魂の鏡だった。
店の電話が鳴ったのは、そんな午後のことだった。受話器から聞こえてきたのは、旧友、高槻が死んだという知らせだった。建設中のビルの足場からの転落事故。警察はそう結論づけたらしい。彼のそそっかしい性格を思えばあり得ない話ではなかったが、胸の奥で何かが静かに軋んだ。
数日後、高槻のアパートを訪れた。彼の遺影は、不器用そうに笑っている。部屋の隅で、彼の母親が泣き崩れていた。その憔悴した影に、僕は目をやった。悲しみの底に沈む逆さの像。それは純粋な哀悼だった。だが、ふと視線を転じた先にあった、壁に映る高槻自身の静止した影に、僕は息を呑んだ。
逆さまの世界が、赤黒く明滅している。それは苦痛と驚愕。そして、その像の中心に、彼が死ぬ間際に見たはずのない、奇妙な『螺旋を描くシンボル』が、烙印のように焼き付いていた。事故ではない。彼は、死ぬ直前、このシンボルを見ていたのだ。
第二章 歪んだ時計の文字盤
警察は取り合わなかった。僕の視るものなど、証明のしようがない。結局、高槻の死は、よくある不運な事故として処理されてしまった。諦めきれない僕は、彼の遺品を整理する遺族に許可をもらい、部屋の片隅に残された段ボール箱を漁っていた。
古びた本の隙間から、何かが滑り落ちた。鈍い金属音。それは一台の古い懐中時計だった。銀細工の蓋には細かな傷が入り、ガラスの表面はまるで陽炎のように、常に微かに揺らめいている。時計は、高槻の死亡推定時刻である午後三時九分を指したまま、秒針だけがぴたりと動きを止めていた。
その時計を手に取った瞬間、指先が氷に触れたように冷えた。僕は自らの能力を集中させ、揺らめく文字盤の奥を覗き込む。
視界がぐにゃりと歪んだ。
時計の中に、逆さまの世界が渦を巻いている。断片的な映像が激しくフラッシュする。風を切る音。高槻の悲鳴。そして、彼を突き落とした何者かの腕。その手首に、あの『螺旋のシンボル』が痣のように刻まれているのがはっきりと見えた。時計は、主の最後の瞬間を、その歪んだ硝子の中に封じ込めていたのだ。
第三章 残響に潜む不協和音
『螺旋のシンボル』。それが唯一の手がかりだった。僕は市立図書館の薄暗い書庫に籠り、過去の事件記録を片っ端から調べ始めた。何時間もページをめくり続けた末、ついにそれを見つけた。七年前に起きた、未解決の倉庫火災。その現場写真の焼け焦げた壁に、チョークで描かれた螺旋のシンボルが不気味に残されていた。
記事によれば、火災の死者は一人。彼もまた、街の不審な金の流れを追っていたジャーナリストだったという。偶然か。いや、そうではないだろう。
僕は、火災現場跡地へと足を運んだ。そこは更地になって久しく、今は小さな公園が作られている。夕暮れ時、陽光が傾くと、空間が揺らぎ始めた。反響視界だ。焼け落ちる前の倉庫の幻影が、陽炎のように立ち上る。僕は目を凝らし、シンボルが描かれていたはずの壁面を探した。
だが、そこには何もなかった。
反響視界に映る倉庫の壁は、ただ煤けているだけだ。あのシンボルは、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗に『欠落』していた。世界の法則が、僕の知るものとは違う形で歪められている。過去の残像から、誰かが意図的に『不都合な真実』を消し去っているのだ。背筋を冷たい汗が伝った。
第四章 調律師の警告
店に戻る道すがら、背後から声をかけられた。
「影ばかり覗いていると、いずれ飲み込まれるぞ、柝木 融」
振り返ると、そこに立っていたのは、灰色のコートを着た、年齢不詳の男だった。彼の顔には何の感情も浮かんでいない。だが、その足元に伸びる影は、静かな自信と冷徹な意志を逆さまに映し出していた。
「君は…」
「私は調律師だ」
男はこともなげに言った。彼は僕の目の前にある街路樹を指差す。そこには、数分前の恋人たちの語らいが、淡い反響視界として映っていた。
「この世界の残響は、時折、不協和音を奏でる。我々はその音を正し、調和を保つ」
男が指を軽く振ると、信じられないことが起きた。恋人たちの残像のうち、片方の姿だけが、すぅっと掻き消えたのだ。まるで露が蒸発するように。
「これ以上、詮索するのはやめろ。君が追っている螺旋は、この街を破滅に導く禁忌の旋律だ。その真実は、誰の耳にも届いてはならない」
「高槻を殺したのも君か」
「彼は、開けてはならない扉に手をかけた。だから、排除した。秩序のためだ」
調律師の影が、嘲るように揺らめいた。逆さまの世界には、僕への明確な殺意が映っていた。彼は、反響視界を、過去の記録を、自在に編集できる存在なのだ。
第五章 影が語る災厄
警告を無視し、僕は最後の賭けに出た。懐中時計に宿る高槻の記憶の断片と、倉庫火災の資料。二つの点を結んだ先に見えてきたのは、街の創設期に使われていたという、古い地下水道の存在だった。
マンホールの蓋をこじ開け、錆びた梯子を降りる。湿った土と黴の匂いが鼻をついた。冷たい闇の中、懐中電灯の光が照らし出したのは、巨大な地下空間だった。そして、その空間全体が、まるで巨大なスクリーンのように、途方もないスケールの反響視界を映し出していた。
それは、この街の創世記の光景だった。
創設者たちが、何か巨大な『災厄』をこの地下深くに封印している。それは物理的な存在ではない。街の繁栄と引き換えに、未来に必ず訪れる破滅的な『運命』そのものだった。そして、その封印の役割を果たすための術式こそが、あの『螺旋のシンボル』なのだ。
高槻や他の犠牲者たちは、この封印が経年劣化で弱まっていることに気づいてしまったのだ。街を救うために、その事実を公表しようとしていた。彼らは、街の英雄になるはずだった。
第六章 無知なる幸福へのレクイエム
「やはり、ここまで来たか」
背後から、調律師の声が響いた。彼は静かに佇んでいた。
「これが、君が求めた真実だ。この災厄の存在が知れ渡れば、街はパニックに陥り、自滅する。だから我々一族は、代々、この真実を歴史の残響から消し去り、気づいた者を秘密裏に葬ってきた。すべては、街の平穏を守るためだ」
彼の言う通りかもしれない。真実が、必ずしも幸福をもたらすとは限らない。
「知らぬままの幸福と、知った上での絶望。君はどちらを選ぶ?」
僕は、手の中にある懐中時計を握りしめた。そのガラスは、これまでになく激しく揺らめいている。この時計は、犠牲者たちの無念を吸い込み、反響視界に干渉するほどの力を蓄えていた。調律師の能力の源も、おそらくはこれと同質のものだろう。
選択の時間は、一瞬だった。
僕は懐中時計を高く掲げ、その力を解放した。時計から放たれた眩い光が、地下空間の反響視界を、そして地上に広がる街全体の時間の残響を激しくかき乱す。調律師の顔が驚愕に歪む。彼の施した偽装はすべて剥がれ落ち、殺人の事実は揺るぎない残像として世界に刻まれた。
だが、その強大すぎた力は、僕が守りたかったものまでも消し去ってしまった。
災厄の予兆も、それを封じる螺旋のシンボルも、創設者たちの苦悩も。街を救うはずだった警告のすべてが、歴史の残響から完全に消滅した。まるで、初めから何もなかったかのように。
調律師は逮捕された。連続殺人事件は解決し、街には日常が戻った。人々は美しい反響視界が彩る平和な日々を謳歌している。誰も、自分たちの足元に眠る時限爆弾の存在など知りようもない。
僕は今日も、店の軒先から街を眺める。人々の影は、一様に穏やかで、幸福な嘘を映している。僕は、この街を守ったのだろうか。それとも、破滅へと続く道を、ただ美しく舗装してしまっただけなのだろうか。
その答えを知る者は、もうこの世界にはいない。僕の胸にだけ、失われた真実の重さが、冷たい時計のように鎮座している。