第一章 依頼と亀裂
深町奏(ふかまちかなで)の仕事場は、静寂を売る店だ。壁も、床も、天井も、吸音材で覆われた鈍色の部屋。クライアントが持ち込むのは、人生に棘のように突き刺さった、どす黒く、不快な記憶。奏は「忘却師」として、その棘を綺麗に抜き去る。最新の脳神経科学と独自の技術を組み合わせた施術は、外科手術のように精密で、麻酔のように優しい。
その日、ドアベルを鳴らしたのは、水瀬遥(みなせはるか)と名乗る若い女性だった。雨に濡れたコートのように重たい絶望を引きずり、彼女は奏の前に座った。血の気の失せた唇が、か細く震える。
「恋人が……死にました。私の、目の前で」
交差点の真ん中で、信号無視のトラックにはねられたのだという。砕け散るガラスの音、鈍い衝突音、そして、一瞬にして失われた体温。彼女は、その光景をフィルムのように焼き付けられた脳を、そっくり取り替えてしまいたいと訴えた。その瞳は、あまりに深い闇を湛えており、奏は無意識に息を飲んだ。
「お辛かったでしょう。ご安心ください。その記憶は、まるで初めから存在しなかったかのように、綺麗に消し去ることができます。彼との楽しかった思い出はそのままに、辛い最後の瞬間だけを」
奏はいつも通りの、穏やかで事務的な声で説明した。ヘッドギア型の装置を彼女の頭部に装着し、モニターに映し出される脳波のスペクトルを睨む。ターゲットとなる記憶のシナプス結合を特定し、微弱な磁気パルスで選択的に遮断する。それが奏の仕事だ。
施術中、遥は静かに涙を流していた。奏の心は凪いでいた。同情は、仕事の精度を鈍らせる。彼はただ、クライアントの平穏を取り戻すための、完璧な技術者でなければならなかった。
一時間後、装置を外された遥は、憑き物が落ちたように穏やかな顔をしていた。
「……何も、思い出せません。ただ、彼が遠くへ行ってしまったような、そんな寂しさだけが残っています」
「それでいいんです」
奏は静かに頷いた。報酬を受け取り、深々と頭を下げる彼女を見送る。また一つ、世界から悲しみが消えた。そのはずだった。
その完璧な日常に亀裂が入ったのは、一週間後のことだった。何気なくつけたテレビのニュースが、奏の動きを止めた。
『先日、都内の交差点で発生した交通事故で死亡した橘圭吾(たちばなけいご)さんですが、警察のその後の捜査で、事故を偽装した殺人事件の可能性が浮上しました。トラックの運転手は、ある組織との関与が疑われており……』
橘圭吾。それは、水瀬遥の恋人の名前だった。
『……警察は、当時現場に居合わせ、唯一の目撃者であった恋人の女性から事情を聞いていますが、女性は事故のショックによる記憶障害を訴えており、捜査は難航している模様です』
奏の背筋を、氷水のような汗が伝った。記憶障害ではない。自分が、消したのだ。殺人事件の、唯一の目撃者の記憶を。世界から悲しみを一つ消したと思っていた。だが、代わりに葬り去ってしまったのは、真実への唯一の道標だったのかもしれない。モニターに映る橘圭吾の遺影写真が、静かに奏を告発しているように見えた。
第二章 沈黙の追跡
罪悪感は、濃霧のように奏の思考を蝕んでいった。自分が施した完璧な施術が、今や取り返しのつかない障壁となって、真実の前に立ちはだかっている。あの日の水瀬遥の顔が、何度も脳裏に蘇る。彼女の絶望は本物だった。だが、その絶望の底には、自分が読み取れなかった別の何かが沈んでいたのではないか。
数日後、奏のオフィスを、黒田と名乗る刑事が訪れた。皺の刻まれた顔に、すべてを見透かすような鋭い眼光を宿した男だった。
「深町奏さん。あなたの仕事については、少しばかり聞き及んでいます。非公式な、心の治療家だと」
黒田は探るように室内を見回し、奏の目をまっすぐに見た。
「先日、水瀬遥という女性がここを訪ねませんでしたか」
奏の心臓が、大きく脈打った。守秘義務がある。クライアントのプライバシーは絶対だ。しかし、目の前の男が追っているのは、ただのゴシップではない。人の命を奪った犯罪者だ。
「……私には、お話しできることは何もありません」
奏は、練習した通りの冷静な声で答えた。黒田は小さく鼻を鳴らし、立ち上がる。
「そうですか。だが、覚えておくといい。沈黙は時として、嘘よりも重い罪になる」
その言葉は、棘となって奏の胸に突き刺さった。
黒田が去った後、奏は施術記録を保管しているサーバーにアクセスした。水瀬遥の脳波データを開く。トラウマ記憶を消去する際、脳は特有のストレス波形を示す。恐怖、悲嘆、混乱。それらが複雑に絡み合った、激しいノイズの嵐。遥のデータにも、もちろんそれは記録されていた。
しかし、注意深く解析を進めるうち、奏は奇妙な点に気づいた。嵐のような波形の合間に、ごく短く、しかし驚くほど規則的で、静謐なシグナルが混じっている。それは恐怖の波形とは明らかに異質だった。まるで、荒れ狂う海の中に、一点だけ存在する凪のような……強い「意志」を感じさせる信号だった。
これは一体、何だ?
奏は、過去の何百というクライアントのデータと照合したが、このようなパターンは一度も見たことがなかった。彼女は、ただ事故の記憶を消してほしかっただけではなかったのか。
奏は、水瀬遥の言葉を反芻した。「何も、思い出せません。ただ、彼が遠くへ行ってしまったような、そんな寂しさだけが残っています」。あの時、彼女の表情は本当に安堵だけだっただろうか。安堵の仮面の下に、何か別の感情を隠してはいなかったか。
このままではいけない。自分が消した記憶の中に、犯人を指し示す決定的な何かがあったのなら、自分は共犯者も同然だ。奏は、自らが定めた掟を破る決意を固めつつあった。忘却師にとって最大の禁忌。一度消した記憶を、再び掘り起こすこと。それは、クライアントの精神を修復不可能なまでに破壊しかねない、禁断の技術だった。しかし、あの静謐なシグナルの意味を知るためには、それしか道は残されていなかった。
第三章 禁忌の再現
奏は、水瀬遥の連絡先を調べ、震える指で電話をかけた。自分の素性を明かし、もう一度会ってほしいと告げると、電話の向こうで彼女が息を飲む気配がした。奏は、警察が事件として捜査している事実と、彼女の記憶に重要な手がかりが眠っている可能性を、言葉を選びながら伝えた。
「あなたの記憶を、取り戻せるかもしれません。ですが、非常に危険な試みです」
数秒の沈黙の後、遥はか細く、しかしはっきりとした声で答えた。「……やります」
再び奏のオフィスに現れた遥は、以前よりもさらに痩せ、その瞳には不安と決意が入り混じった複雑な光が揺れていた。
「怖いんです。何を思い出すのか。でも、圭吾のために、私が知らなければいけないことがあるのなら……」
奏は彼女を施術用の椅子に座らせ、改良を加えた特殊なヘッドギアを装着させた。通常の施術とは逆のプロセスだ。遮断したシナプス経路に、記憶の断片を想起させる微弱な刺激を送り込み、再接続を試みる。例えるなら、一度消去したハードディスクから、破損したデータをサルベージするようなものだ。
「始めます。気分が悪くなったら、すぐに合図を」
奏がシステムを起動させると、モニターに映る遥の脳波が激しく乱れ始めた。彼女の額に汗が滲み、苦しげな呼吸が静かな部屋に響く。
モニターに、ノイズ混じりの映像が断片的に映し出され始めた。
交差点の赤信号。濡れたアスファルト。こちらへ向かってくるトラックのヘッドライト。
「やめて……!」
遥が悲鳴を上げた。奏は歯を食いしばり、出力を微調整する。ここで止めれば、彼女の精神は断片化した記憶の迷宮に永遠に囚われかねない。
映像が続く。助手席に座る恋人、橘圭吾の横顔。彼は何かを強く語りかけている。音声は再生されない。だが、その表情は必死だった。彼は彼女の手を握り、小さなUSBメモリのようなものを押し付けている。
そして、場面は一転する。トラックが突っ込んでくる。だが、様子がおかしい。映像は、遥の視点ではなかった。まるで、交差点を見下ろす防犯カメラのような、俯瞰の視点だ。トラックは、圭吾が乗る運転席側面に正確に、そして猛烈な速度で激突した。これは事故ではない。明確な殺意を持った、計画的な犯行だ。
奏の全身から血の気が引いた。だが、本当の衝撃は、その後に待っていた。
再生された映像の最後に、鮮明な記憶が浮かび上がった。それは、事故の直前の車内。圭吾が遥にUSBメモリを渡し、何かを囁いている。彼の唇の動きを、奏の目は確かに捉えた。
『これを、お前の記憶の中に隠せ』
そして、遥は頷き、涙を浮かべながらも、迷いのない瞳で彼を見つめ返していた。
モニターに映し出されていた、あの規則的で静謐なシグナル。それは、恐怖に抵抗する強い「意志」の波形だったのだ。
第四章 残響の在り処
ヘッドギアを外された遥は、しばらく虚空を見つめていたが、やがて堰を切ったように泣き崩れた。それは、単なる悲しみの涙ではなかった。封じ込めていた覚悟と、取り戻した真実の重みに打ち震える、慟哭だった。
「……思い、出しました。全部」
落ち着きを取り戻した彼女は、ゆっくりと語り始めた。
恋人の橘圭吾は、勤めていた大手製薬会社の不正を告発しようとしていたジャーナリストだった。彼が掴んだのは、新薬の臨床データを大規模に改竄し、危険な副作用を隠蔽していたという、許されざる事実。その証拠データが、あのUSBメモリに入っていた。
「組織は圭吾を追っていました。私たちは逃げていたんです。あの日、彼はもう逃げ切れないと悟った。そして、最後の手段に出たんです」
圭吾は、USBメモリの物理的な隠し場所を遥に教え、さらにその情報を絶対に漏らさないよう、遥自身に忘却師の元へ行くよう指示したのだという。
「圭吾は言いました。『一番安全な金庫は、君自身の頭の中だ。君自身でさえ、どこにあるか思い出せない金庫だ』と。彼は自分の命と引き換えに、証拠と……私を守ろうとしたんです」
奏は言葉を失った。彼女が依頼に来たあの日の憔悴は、恋人を失う悲しみだけではなかった。彼の死を覚悟し、その意志を継ぎ、真実を己の最も深い場所に封印するという、壮絶な決意の表れだったのだ。奏は、ただのトラウマを消す依頼だと思い込んでいた。その記憶の裏に、これほどまでの物語が隠されていたとは。
「あなたは……なぜ、記憶を取り戻そうと?」
奏の問いに、遥は涙に濡れた顔を上げた。
「このままじゃ、圭吾が浮かばれない。彼の死が無駄になってしまう。私が彼の意志を継がなきゃいけないんです。忘れたままで、幸せに生きるなんてできない」
その瞳には、かつての絶望の色はなかった。そこにあるのは、悲しみを乗り越えた先にある、鋼のような強さだった。
奏は、自分が犯した過ちの大きさと、同時に、自分が関わった仕事の本当の重さを痛感していた。彼は記憶を消す技術者だ。しかし、記憶とは、単なる脳内の情報ではない。その人が生きた証であり、意志であり、誰かへの愛そのものなのだ。それを安易に消し去ることの罪深さを、彼は初めて悟った。
彼は忘却師としての最大のタブーを破ることを決意した。
遥の記憶から、USBメモリの隠し場所に関する情報だけを、再び脳波データとして抽出した。それは、彼女の他の記憶を一切傷つけることなく、特定の情報だけを抜き出す、神業に近い技術だった。
奏は、そのデータを匿名で黒田刑事の元へ送った。
数週間後、ニュースは製薬会社の社長や幹部が一斉に逮捕されたことを大々的に報じた。橘圭吾が命がけで守った真実は、ついに白日の下に晒されたのだ。
水瀬遥は、証人保護プログラムのもと、どこか遠い街で新しい人生を始めることになった。旅立つ前日、彼女から奏に短いメールが届いた。
『ありがとうございました。私はもう、あなたの助けを借りなくても、前を向いて歩いていけます。彼の記憶と共に』
奏は、静まり返ったオフィスで、一人コーヒーを淹れた。カップの向こうに、鈍色の壁が見える。この部屋で、彼は数えきれないほどの記憶を消してきた。だが、これからはもう、以前と同じ気持ちで仕事はできないだろう。
彼は、消えゆく記憶の向こう側にある、声なき声、すなわち「残響」の存在を知ってしまった。人の意志の重さを知ってしまった。それは、彼の仕事の倫理観を根底から覆し、彼の人生に重い意味を与えた。
コン、コン。控えめなノックの音がして、新たな依頼人がドアを開けた。
奏はゆっくりと立ち上がり、来訪者に向き直る。その瞳は、以前の技術者のそれとは違っていた。深く、静かで、そして、相手が持ち込むであろう記憶の奥に響く、小さな残響に耳を澄ますかのような、悲しみを帯びた優しさを湛えていた。