第一章 色褪せた石と響く声
リオの役割は『調律師』だった。巨大な時計塔の歯車から、街路を照らす灯りのフィラメントが発する微かな呻きまで、この灰色の街のあらゆる音を正常に保つ仕事。それは彼にとって救いだった。絶え間ない機械の囁きは、彼の頭蓋に響くもう一つの声を、ほんの少しだけ掻き消してくれるからだ。
その日も、リオは第七区画の送水管が立てる不規則な低音を調整し終え、薄暮の道を歩いていた。湿った石畳の匂いと、家々から漏れる温かい食事の香りが混じり合う。誰もが管理局から与えられた役割に満足し、穏やかな一日を終えようとしていた。
路地の入り口で、人の輪ができていた。人々は不安げに囁き合い、その中心を遠巻きに見ている。リオは人垣をかき分けた。そこに、一人の老人が壁に寄りかかるようにして、息絶えていた。役割を示す刺繍の入った外套は汚れ、皺の刻まれた顔は安らかとは言えなかった。
人々が管理局の職員を待つ中、リオの耳にだけ、それが届いた。
キィン、と耳鳴りのような鋭い音が脳を貫く。そして、砂嵐の向こうから聞こえるような、掠れた声。
『……あおい……そらを……もういちど……』
声は感情の残響だった。渇望。後悔。そして、焦がれるような郷愁。リオは思わず眉を顰め、こめかみを押さえた。まただ。死の瞬間に放たれる、最後の言葉。それは意味のある文章ではなく、魂の断片そのものだった。
その瞬間、彼の胸に下げた『記憶石』が、じわりと熱を帯びた。普段はただの鈍い光を放つ乳白色の石。その表面に、一瞬だけ、見たこともないほど鮮やかな空色の紋様が稲妻のように走って、すぐに消えた。リオは息を呑む。この世界の空は、生まれてからずっと、薄いヴェールをかけたような白鼠色だった。誰もがそれを『空』と認識し、疑いもしない。『青い空』など、誰も知らないはずだった。
第二章 置き去りの記憶
リオには、かつて愛した女性がいた。エラ。彼女の笑い声は、春の陽光のように彼の心を温めた。だが、彼女は三年前、『変革の年』を迎えた。管理局の純白の施設へと入っていった彼女は、一週間後、まったくの別人となって彼の前に現れた。
「初めまして。私の役割は『記録官』です。何かお困りですか?」
その瞳には、かつての光のかけらもなかった。彼女はリオを覚えていない。共に過ごした日々の記憶は、未来の『役割』と引き換えに、綺麗に消去されていた。それが、この世界の法則。人々は過去に囚われず、新たな人生を歩むのだと、管理局は教える。
リオは時折、管理局の庁舎が見える丘に登った。そこから、記録官の制服を着て、書類を抱えて足早に歩くエラの姿が見えることがあった。彼女は今の役割に充実しているように見えた。それでいいのだ、とリオは自分に言い聞かせる。だが、胸の奥で、消えない痛みが疼いた。
置き去りにされたのは、記憶を失った彼女ではない。彼女との記憶を抱えたまま、立ち尽くす自分の方だった。そして、この忌まわしい能力のせいで、彼は他人の失われた記憶の断片までも拾い集めてしまうのだ。
第三章 紋様の意味
あの日以来、リオは『最後の言葉』を聞くたび、『記憶石』に浮かぶ紋様に全神経を集中させた。それは一瞬の幻。だが、彼の網膜には確かに焼き付いた。
『……もえる……もりの……におい……』
そう囁いた事故死した作業員の石には、燃え盛る炎のような真紅と、深い緑が混じり合った渦が浮かんだ。この街に森などない。
『……しおからい……かぜ……』
病死した老婆の石には、白い飛沫のような模様が、濃紺の地を削るように現れた。風はいつも、埃と機械油の匂いを運んでくるだけだ。
断片的な言葉と、刹那の紋様。それらは、この管理された世界には存在しない風景や感覚を示唆していた。リオは確信する。これらは、人々が『変革の年』で失ったはずの、本物の記憶の残滓なのだと。なぜ、死の間際にだけ、それが溢れ出すのか。そして、なぜ自分だけがそれを受信してしまうのか。
疑念は、この世界のすべてを司る『管理局』へと向かった。彼らは一体、何を隠しているのか。
第四章 忘却の書庫へ
決意は、静かに固まった。真実が知りたい。たとえそれが、今の穏やかな日常を破壊するものであったとしても。
リオは、管理局で働くエラに接触した。もちろん、彼はただの『調律師』として。庁舎の音響設備の定期メンテナンスにかこつけて、彼は内部構造を探った。エラは彼を覚えていなかったが、彼の丁寧な仕事ぶりに、どこか懐かしむような、不思議な表情を見せることがあった。
「最下層に、古い記録を保管している場所があると聞きました」
リオはさりげなく尋ねた。
「ええ、『忘却の書庫』ですね。誰も立ち入りませんが」
エラはこともなげに答えた。
その夜、リオはメンテナンス用IDを偽造し、管理局に忍び込んだ。ひやりとした空気が肌を撫でる。静寂に満ちた廊下を抜け、彼は最下層を目指した。そこは、まるで巨大な墓標のように、膨大な数のデータサーバーが眠る場所だった。消去された全人類の記憶が、ここに封印されているのだ。
彼は自分の名前、『リオ』を検索端末に打ち込んだ。現在の自分の記録ではない。もっと古い、根源的な記録を探して。やがて、一つのファイルがヒットした。
『創設者ファイル:リオ・アークライト』
震える指で、ファイルを開いた。
第五章 静寂の創設者
薄暗い書庫に、立体映像が投影された。そこに立っていたのは、自分と驚くほどよく似た面差しの男。だが、その瞳に宿る疲労と決意の深さは、リオの比ではなかった。
『これを君が見ているということは、私の懸念が現実になったということだ』
男、初代リオ・アークライトは語り始めた。彼の背後の映像が切り替わる。そこには、信じられない光景が広がっていた。どこまでも広がる、鮮やかな『青い空』。鬱蒼と茂る緑の森。そして、次の瞬間、その全てが業火に焼かれ、黒い雨が降り注ぎ、大地がひび割れていく。人々が争い、奪い合い、世界が悲鳴をあげていた。
『我々は過ちを犯した。この星を、自らの手で殺しかけたのだ。もはや、この記憶を抱えたままでは、人類に未来はないと判断した』
初代リオは語る。彼らが、苦悩の末に生み出したのが、『役割付与システム』だと。人類から破滅の記憶を奪い、新たな役割を与えることで、無垢な存在として再出発させる計画。
『だが、私は恐れた。記憶を消し去ることで、我々は過ちから学ぶ機会さえも永遠に失うのではないかと。だから、私はシステムにささやかな"抗体"を仕込んだ。私の血を引く者に、消去された記憶の残響…死者の最後の言葉を聞く能力を遺した。それは未来への警鐘だ。君が聞く声は、呪いではない。忘れられた世界からの、最後の祈りなのだ』
映像が消えた。リオは愕然として立ち尽くす。自分の能力は、この世界のシステムを創った男が遺した、意図的なバグ。自分自身が、生きたタイムカプセルだったのだ。
第六章 抗体の選択
「ようやく、辿り着いたかね」
静かな声に振り返ると、そこに一人の老人が立っていた。管理局の最高責任者だ。彼は全てを知っていたかのように、穏やかな目でリオを見つめていた。
「君の存在は、我々にとっても織り込み済みのリスクであり、同時に最後の安全装置だ。初代リオの懸念は、もっともだったからな」
最高責任者は、静かに語り続けた。「この世界は、無知の上に成り立つ、脆い平和だ。人々は何も知らず、与えられた役割の中で幸せに生きている。君が知った真実…人類が犯した過去の罪を、今、彼らに突きつけるかね? それは彼らから幸福を奪い、世界を再び混乱と恐怖に陥れるかもしれない」
彼はリオの胸の『記憶石』に目をやった。
「あるいは、君はその声を胸に秘め、このまま静寂の監視者として生きるか。選択は、君に委ねられている。我らが創設者、リオ・アークライト」
その言葉は、重い錨のようにリオの心に沈んだ。
第七章 青い空の在り処
管理局を出た時、空は白み始めていた。街は静かな寝息を立てている。やがて人々は目覚め、それぞれの役割を果たすために一日を始めるだろう。昨日と何も変わらない、穏やかな一日を。
リオは丘に登り、街を見下ろした。かつてエラの姿を探した場所だ。偽りの平和。忘れさせられた罪。だが、ここにいる人々の笑顔は、本物だった。彼らの幸福は、本物だった。
彼は胸の『記憶石』を強く握りしめた。石は彼の心臓の鼓動に呼応するように、温かかった。脳裏に、今まで聞いてきた無数の『最後の言葉』が蘇る。森の匂い、塩辛い風、そして、焦がれるように求められた、青い空。
それらは、失われた世界の記憶であると同時に、未来への願いでもあったのだ。
真実を告げるべきか、沈黙を守るべきか。
破壊者となるか、守護者となるか。
答えはまだ、出ない。だが、リオはもう、自分の能力を呪うことはなかった。これは彼に与えられた『役割』なのだ。
彼は、白鼠色の空を見上げた。その瞳の奥にだけは、誰にも見えない、鮮やかな青色が広がっている。彼がどちらの道を選んだとしても、この世界は、彼の選択と共に未来へ歩き出す。忘れられた声の紋様を、その胸に深く刻みつけて。