第一章 嗤う亡骸
雨上がりのアスファルトから、錆びた鉄と腐葉土の匂いが立ち昇る。
黄色い規制線の向こう側で、刑事の郷田が私の姿を認め、露骨に顔をしかめた。吸い殻を靴底で踏み消す。
「遅いぞ、橘。鑑識が嫌な顔してる」
「ごめん。……ノイズが酷くて」
私はラテックスの手袋を嵌めながら、規制線をくぐる。
郷田は一歩、無意識に後ずさる。周囲の制服警官たちも同様だ。彼らは私を捜査協力者として敬うと同時に、生理的な忌避感を抱いている。
目の前には、仰向けに倒れた男の遺体。
30代半ば。スーツ姿。
「……酷いな」
男は、笑っていた。
口角が耳まで裂けるほど吊り上がり、目尻には深い笑い皺が刻まれている。
死後硬直ではない。生前の筋肉の収縮が、そのまま固定されている。
「目撃者は『狂ったように笑いながら、自分の喉を掻きむしっていた』と言ってる。……なぁ橘、こいつの『中身』はどうなってやがる?」
郷田が低い声で問う。
私は男の顔に手をかざす。
遺体の表情筋、皮膚の下の鬱血、そして空間に残る『気配』へ意識を沈める。
キィン、と耳鳴りが走る。
視界の彩度が落ち、遺体の周囲だけが歪んで見える。まるで夏の逃げ水のように。
ザァッ……!
砂嵐のような雑音が、私の前頭葉を直接ヤスリで削る。
(――幸せだ、幸せだ、ああ、脳味噌が溶けるほど完璧な――)
鼓膜を突き破る、圧倒的な歓喜の奔流。
煮詰めた砂糖水に内臓を浸したような、甘ったるい吐き気が込み上げる。
「……嘘じゃない」
私はハンカチで口元を押さえ、胃液の酸味を堪えた。
「この男は、心から幸福を感じて死んだ。恐怖も後悔も、一ミリもない」
「自殺か?」
「いや」
私は、遺体の首元へ視線を落とす。
郷田たちの目には見えていない『痕跡』が、そこにはあった。
喉仏のあたりに張り付いた、一枚の花弁。
血のような赤ではない。動脈血をさらに煮詰めたような、ドス黒い緋色。
質感は植物というより、剥き出しの粘膜に近い。
指先で触れる。
ぬるりとした感触と共に、他人の記憶が電気信号となって指先から逆流してきた。
『慎吾。ねえ、聞いてる?』
心臓が早鐘を打つ。
脳裏に響いたその声は、私がこの世で最も聞き慣れ、そして今朝から途絶えている相手のものだった。
ミナミ。
僕の恋人。
記憶のフラッシュバック。
リビングで泣いている彼女。
僕はパソコンの画面から目を離さず、コーヒーを啜りながら言った。
『泣くのは非効率だ。君の不安の原因は、昨日のプレゼン失敗による自己肯定感の低下にある。解決策は二つ。再発防止策を練るか、休暇を取るかだ』
振り返った彼女の顔。
涙が乾き、凍りついたような瞳。
『……そう。正解ね』
あの時の冷たい声が、死体の上の花弁から響いてくる。
なぜ、ここに?
この花は、かつて二人で美術館へ行ったとき、彼女が唯一「怖い」と言って足を止めた絵画の花だ。
強烈な胸騒ぎが、私の冷静さを粉々に粉砕した。
第二章 完全なる果実
都内の廃ビル。
地下へと続く階段は、熟れすぎた果実が腐敗する直前の、むせ返るような甘臭さで満ちていた。
緋色の花弁が残した『残響』が、私をここへ導いた。
階段を降りるたび、空気の粘度が増していく。
呼吸をするだけで、脳内のセロトニンが無理やり分泌させられる感覚。
「……感情の麻薬か」
壁に手をつき、私は必死に平衡感覚を保つ。
ホールの扉を開けた瞬間、異様な光景が網膜を焼いた。
薄暗いコンクリートの床に、数十人の男女が座り込んでいる。
彼らは皆、あの遺体と同じように、焦点の合わない目で虚空を見つめ、恍惚と笑っていた。
怒りも、悲しみも、不安もない。
ただ『純度100%の幸福』だけが、致死性のガスのように充満している。
「お待ちしていましたよ、橘さん」
ホールの隅、パイプ椅子に腰掛けた男が、静かに本を閉じた。
白いシャツに、くたびれたカーディガン。
どこにでもいる、大人しそうな隣人。そんな風貌の男だ。
「あなたが、リーダーか」
「ただの『案内人』ですよ。……かつて、あなたに壊された残骸の一人ですが」
男の顔を見て、記憶の棘が痛んだ。
数年前、私が担当したクライアントだ。
妻を亡くした彼に、私は悲しみのメカニズムを説き、論理的な解決策を提示した。
「あなたは私の悲しみを『処理』してくれた。まるでパソコンのゴミ箱を空にするように」
男は穏やかに微笑む。敵意はない。あるのは、私への心からの憐れみだけだ。
「おかげで空っぽになれました。だから、この『共鳴』で満たすことにしたんです。見てください、この美しい地獄を」
男が手のひらを上に向ける。
天井から、緋色の花弁が雪のように舞い落ちてくる。
その一枚一枚が、内臓のような生々しい艶を放ちながら、座り込む人々の肩や頭に降り積もる。
「誰も傷ついていない。誰も泣いていない。悲しみを取り除くのではなく、致死量の幸福で塗り潰す。それが私たちの救いです」
「それは救いじゃない。脳のショートだ」
「いいえ。あなたは賢すぎるから、本当の絶望が分からない」
男が立ち上がり、背後の衝立(ついたて)をどかす。
そこに、一脚の椅子があった。
座っているのは、長い黒髪の女性。
緋色の花に埋もれるようにして、静かに微笑んでいる。
「ミナミ……!」
私は叫び、駆け出そうとした。
だが、足がもつれる。
空間に満ちた幸福の圧力が、鉛のように全身にのしかかる。
ミナミは、今まで見たこともないほど美しく、そして虚ろな笑顔を浮かべていた。
第三章 裏切りの色
「ミナミ! 僕だ!」
私の声は、分厚い幸福の膜に阻まれて届かない。
彼女はゆっくりと顔を上げ、私を見た。
その瞳は熱に浮かされたように潤み、頬は桃色に染まっている。
「……慎吾?」
彼女の唇が動く。
私は能力(ちから)を全開にする。
彼女の感情を読み取るために。
いつもなら、感情は色や形となって視える。だが、彼女に対してだけは、激しい砂嵐(ノイズ)となって弾かれる。
『愛している』
『信じている』
私自身の願望が、真実を覆い隠してしまう。
彼女が本当に笑っているのか、助けを求めているのか、判別できない。
「どうしてここにいる! そいつに何をされた!?」
「……違うの」
ミナミは、夢見るような声で言った。
その手には、一輪の緋色の花が握られている。
「私が、望んだの」
彼女がふらりと立ち上がる。
「慎吾。あなたはいつも、正しかったわね」
脳裏に、昨夜の記憶が蘇る。
泣きじゃくる彼女に、私が淡々とティッシュを渡した瞬間。
『君の涙はホルモンバランスの乱れだ。解決策を提示しよう』
そう言った私を、彼女はどんな顔で見つめていたか。
今、彼女は笑っている。
「あなたは私の心を解剖してくれた。隅々まで分析して、名前をつけてくれた」
彼女の笑顔が、僅かに歪む。
「でもね、一度だって『同じ温度』で触れてくれたことはなかった」
心臓を、氷の刃で貫かれたような衝撃。
「あなたの『正解』は、いつも私を孤独にした。……だから、ここに来たの」
「ミナミ、やめろ……! その花は」
「これなら、何も考えなくていい。ただ、幸せになれる」
彼女は、緋色の花を口元に寄せた。
花弁が、まるで生き物のように蠢き、彼女の唇を割って入り込む。
「ん……」
彼女はそれを、噛み砕き、飲み込んだ。
ドクン、と空間が脈打つ。
限界を超えた『幸福の残響』が、彼女の肉体を触媒にして爆発した。
最終章 永遠の悲鳴
「あ、あぁ、あ……ッ!」
ミナミの身体が弓なりに反る。
目からは涙が溢れ、口元は裂けんばかりに吊り上がっていく。
「素晴らしい! これぞ受肉した幸福だ!」
案内人の男が、うっとりとその光景を眺める。
私は這いつくばりながら、ミナミの足元へ辿り着いた。
「ミナミ、吐き出せ! 頼む、僕が悪かった、僕が間違っていた……!」
彼女の手を握る。
熱い。タンパク質が変質するほどの高熱。
ミナミは私を見下ろした。
その表情は、第一章で見た死体と同じ、人間が浮かべてはいけない『絶頂の笑顔』だった。
だが、繋いだ手を通して、最期の感情が流れ込んでくる。
彼女の理性が崩壊し、私自身のノイズも消し飛んだ。
今、この瞬間だけ、彼女の心の全てが鮮明に視える。
視界を埋め尽くす、黄金色の光。
脳内麻薬が作り出した偽りの天国。
しかし。
その光の深淵。
心の最も深い場所で、小さな影がうずくまっていた。
(助けて)
(痛い)
(熱い)
(あなたにただ、抱きしめてほしかっただけなのに)
その声は、あまりにも小さく、あまりにも幼かった。
彼女の笑顔の裏側には、血の涙を流して叫ぶ、小さな少女がいた。
その少女を追い詰めたのは、他ならぬ私の「正しさ」だった。
「……あ」
ミナミの口から、最後の呼気が漏れる。
「……正解、だよ」
彼女は最後にそう呟き、事切れた。
私の耳には、それが鼓膜を劈くような絶叫として響いた。
手から力が抜ける。
緋色の花弁が、彼女の遺体を埋葬するように降り積もっていく。
静寂が戻った。
ミナミは死んだ。世界で一番幸せそうな、残酷な笑顔を浮かべて。
「……救われましたね」
案内人の男が、私の背後で囁く。
「痛みも孤独もない世界へ旅立った。……この『幸福』を、あなたは否定できますか?」
私はミナミの冷たくなっていく手を握りしめたまま、立ち上がる。
目から涙は流れていない。
ただ、胸の中に巨大な風穴が開いただけだ。
懐から信号弾を取り出し、発火させる。
赤い煙が充満し、遠くからサイレンの音が近づいてくる。
「……否定する」
私は男を振り返る。
視界に映る男の感情は『慈愛』。狂っているのは彼か、それとも世界か。
「痛みを感じない幸福なんて、ただの死だ」
男は抵抗しなかった。
ただ、哀れな子供を見るような目で、私を見つめ返した。
「あなたはこれからも、人の笑顔の裏側にある地獄を見続けるんですね。……可哀想な人」
私は何も答えず、緋色の花弁が舞い散る中、ミナミの亡骸を抱き上げた。
その笑顔は美しく、そして何よりも私を拒絶していた。
私にはもう、人の笑顔が信じられない。
これからは誰かが笑うたび、その奥底にある悲鳴を探してしまうだろう。
それが、私が背負うべき罰であり、彼女への唯一の贖罪なのだから。
私はミナミの笑顔を見つめたまま、終わらない孤独な戦いへと、重い一歩を踏み出した。