第一章 錆びついた銀時計の記憶
古賀沙耶の指先は、死んだ時間に命を吹き込む。博物館の片隅にある修復工房。薬品の匂いが混じる静寂のなかで、彼女は歴史の断片と対話する。陶器のひびを金で繋ぎ、朽ちかけた古文書の文字を甦らせる。それは彼女にとって、単なる作業ではなかった。
沙耶には、秘密があった。修復を終え、完璧な状態に戻った遺物に素手で触れると、その持ち主の人生で最も鮮烈だった二つの瞬間――「至福の記憶」と「絶望の記憶」が、奔流のように流れ込んでくるのだ。それは呪いにも似た能力で、彼女は他人の強烈な感情に呑み込まれないよう、常に薄い手袋をはめ、自身の心に壁を築いて生きてきた。
ある秋の日、館長が桐の箱を手に工房を訪れた。「これは、個人からの寄贈品でね。日露戦争時代のものらしい。修復をお願いできるかね」
箱の中には、泥と錆にまみれた銀時計が鎮座していた。ガラスは割れ、針はあらぬ方向を向いて止まっている。しかし、不思議な存在感を放っていた。沙耶はそれを受け取ると、いつものように作業に取りかかった。微細なブラシでこびりついた土を払い、特殊な溶剤で錆を落とし、歪んだ部品を一つひとつ丁寧に整えていく。数週間後、時計は失われた輝きを取り戻した。鈍い銀色の蓋には、桜の花びらを模した美しい彫刻が施されていた。
全ての作業を終えた安堵感からか、沙耶は無意識に手袋を外していた。そして、滑らかな銀の感触を確かめるように、そっと時計を握りしめた。
その瞬間、世界が反転した。
――陽光がキラキラと水面に反射する、故郷の小川のほとり。隣には、はにかむように笑う千代の姿がある。「健太さん、必ず、ご無事で。この桜が咲く頃には、きっと……」。彼女が差し出したお守りを握りしめる、若い兵士の温かい手のひら。未来への希望と、愛する人との約束に満ちた、生涯で最も幸福な一日。
次の瞬間、風景は凍てつくような泥と硝煙の戦場に変わる。耳をつんざく砲声。血の匂い。足元で事切れていく戦友の顔。腹の底から湧き上がる恐怖と、もはやこれまでという諦観。胸ポケットの銀時計が、敵の銃弾を受け止めて砕ける衝撃。そして、意識が闇に沈んでいく。これが、彼の絶望。
「……っ!」
沙耶は喘ぎながら時計から手を離した。心臓が激しく波打ち、額には冷や汗が滲む。まただ。名も知らぬ誰かの人生の断片が、自分の記憶であるかのように脳裏に焼き付いて離れない。しかし、今回は何かが違った。あの兵士は、なぜ死んだのか。そして、彼が「千代」と呼んだ女性は、どうなったのだろうか。初めて、沙耶は遺物の向こう側にいる「誰か」のその後に、抗いがたいほどの興味を抱いていた。
第二章 桜の紋様を辿って
衝動は、抑えがたかった。沙耶は、あの兵士の人生の断片を、ただの「追体験」で終わらせたくなかった。彼の生きた証を探し出したい。その想いに突き動かされ、彼女は生まれて初めて、自らの能力を道標に過去を辿り始めた。
手がかりは二つ。時計の裏蓋に拙く刻まれた「K.T.」というイニシャル。そして、蓋に彫られた桜の紋様。沙耶はまず、博物館の資料室に籠もり、日露戦争の従軍記録を片っ端から調べ上げた。膨大な数の戦死者名簿の中から「K.T.」のイニシャルを持つ人物をリストアップし、一人ひとりの出身地や所属部隊を照合していく。
数日が過ぎ、疲労がピークに達した頃、一つの名前に目が留まった。『桐山健太(きりやま けんた)、歩兵第二十七連隊所属。出身地、信州・伊那谷、桜森村』。
桜森村。その名前に、沙耶は息を呑んだ。それは、数年前に亡くなった母方の祖母の故郷だったのだ。まさか、そんな偶然が。胸のざわめきを覚えながら、彼女は桜の紋様について調べを進めた。すると、桜森村の旧家である高梨家に伝わる家紋が、時計の彫刻と酷似していることが判明した。
桐山健太と、高梨家。そして、祖母の故郷。点と点が繋がり、一本の線になろうとしている。沙耶は週末、古いアルバムを手に、都心から少し離れた施設で暮らす祖母・千代乃を訪ねることにした。
柔らかな日差しが差し込む談話室で、沙耶は少し躊躇いながら、修復した銀時計の写真を祖母に見せた。「おばあちゃん、この時計に見覚えはない? 桜森村の、桐山健太さんという人のものなんだけど」
その名を聞いた瞬間、穏やかだった祖母の表情が微かに揺れた。皺の刻まれた手が、ゆっくりと写真に伸びる。
「……健太さんの。まあ、懐かしい」
千代乃の瞳が、遠い過去を見つめていた。
「わたくしの、初恋の人でしたよ。村一番の好青年でね。戦争に行く前、川のほとりで『必ず帰ってくる』と約束してくれたんです。この時計は、高梨の桜の紋様を彫って、わたくしが贈ったお守りと一緒に、肌身離さず持っていてくれると言ってくれた……」
千代乃の話す情景は、沙耶が追体験した「至福の記憶」そのものだった。彼女こそが、あのヴィジョンの中にいた「千代」だったのだ。
「でも、健太さんはお戻りにならなかった。戦死の公報が届いて……。悲しくて、悲しくて。何年も泣いて暮らしました」
そう語る祖母の目には、涙が滲んでいた。
第三章 食い違う幸福
祖母の話を聞き、沙耶の心には新たな謎が生まれた。戦死公報。しかし、沙耶が追体験した「絶望の記憶」では、健太は確かに銃弾を受け、意識を失った。だが、それは本当に「死」だったのだろうか。ヴィジョンの生々しさを思い出す。もし、彼が死んでいなかったとしたら?
「おばあちゃん、健太さんが戦争に行く前に交わした約束って、どんな話だったか詳しく教えてくれる?」
沙耶は核心に触れるように尋ねた。
「ええ、よく覚えていますよ」と千代乃は目を細めた。「桜の木の下でした。『この桜がまた咲く頃、もしわたくしが帰ってきたら、一緒になってほしい』と。……本当に、夢のような一日でした」
桜の木の下。沙耶の記憶にあるヴィジョンは、小川のほとりだった。些細な違い。しかし、その些細な違いが、沙耶の心に大きな楔を打ち込んだ。人の記憶は、時と共に美化されたり、変容したりする。だが、沙耶が体験するのは、持ち主の魂に刻まれた、加工される前の「真実」の光景だ。
祖母が語る幸福な思い出と、自分が視た幸福な記憶。二つの間にある、僅かな、しかし決定的なズレ。それは一体、何を意味するのか。
工房に戻った沙耶は、再びあの銀時計を手に取った。今度は怖くなかった。真実を知りたいという強い意志が、彼女を支えていた。深呼吸をし、全ての意識を指先に集中させる。銀の冷たさが、じわりと肌に染み込んできた。
『千代、必ず、帰ってくるから』
――小川のほとりでの、幸福な約束。
『う…ぐっ……』
――胸に走る衝撃と、戦場の絶望。
もっと深く。もっと奥へ。彼の魂の、さらに奥底にある声を聞かせて。沙耶は心の中で叫んだ。すると、今まで閉ざされていた扉が、軋みながら開くような感覚があった。そして、断片的で、霞がかった第三の記憶が流れ込んできた。
第四章 沈黙の決断
それは、戦場の記憶の後の光景だった。薄暗い野戦病院の粗末な寝台の上。健太は生きていた。しかし、彼の右足は、膝から下が失われていた。胸の銀時計が銃弾を受け止めてくれたおかげで、命だけは助かったのだ。
窓の外では、異国の桜に似た花が咲いている。故郷の桜を、そして千代の顔を思い浮かべる。帰れる。生きて、彼女の元へ帰れる。その喜びが、一瞬、彼の心を照らした。
だが、すぐに深い絶望の影が差し込む。片足のない自分。これからの人生、千代の重荷になるだけではないのか。彼女の隣で、誇りを持って立つことができるのか。彼女に苦労をかけるくらいなら、いっそ死んだと思わせてしまった方が、彼女は新しい幸せを見つけられるのではないか。
『千代、すまない』
健太の唇が、声にならずに動いた。それは、彼の人生における、本当の「絶望」の瞬間だった。戦場で死ぬことではなかった。愛する人の未来のために、自らの存在を消すことを決断した、その静かで、あまりにも重い瞬間こそが、彼の魂を砕いた絶望の正体だったのだ。
彼は故郷に帰らなかった。戦死したことにして、軍の記録もそのままに、健太は歴史の片隅で、名もなき男として生きることを選んだ。
沙耶は、涙が頬を伝うのも構わずに、ただ呆然と立ち尽くしていた。なんと哀しい決断だろう。なんと気高い愛だろう。歴史とは、年表に刻まれる大きな出来事や、英雄たちの功績だけではない。語られることのなかった無数の人々の、こうした沈黙の決断と、伝えられなかった想いの積み重ねそのものなのだ。沙耶は、それを全身で理解した。
健太の最後の記憶の断片を追って、彼が晩年を過ごしたという北の港町を突き止めるのに、時間はかからなかった。古い寺の住職に話を聞くと、彼は「桐さん」と呼ばれた、片足が不自由な無口な老人のことを覚えていた。
「いつも海を眺めては、何かを懐かしむような顔をしていましたよ。桜の季節になると、特にね」
寺の裏手にある無縁仏の墓地。その一番隅に、小さな、風化した墓石があった。誰が建てたのかも分からないその墓石には、ただ一つ、拙い手つきで彫られた桜の紋様が刻まれていた。沙耶はそっと墓石に触れ、持参した銀時計を供えた。「健太さん、あなたの想いは、確かにここにありました」
第五章 未来へ繋ぐ声
沙耶は、祖母の元へは真実の全てを伝えなかった。ただ、「施設の近くで見つかった遺品です。桐山健太さんは、最期まであなたの幸せを願っていたそうですよ」とだけ言って、修復した銀時計を手渡した。
千代乃は、震える手で時計を受け取った。そして、何も言わずに、ただ静かに涙を流した。長い歳月を経て、果たされなかった約束は、形を変えてようやく彼女の元へと帰り着いたのだ。
あの日以来、沙耶の中で何かが変わった。今まで呪いだと思っていた自身の能力が、歴史の沈黙の声を聞き、語られなかった物語を拾い上げるための、かけがえのない「祝福」のように思えるようになった。彼女はもう、手袋の壁の向こうから世界を眺めることはやめた。
数ヶ月後、沙耶は祖母の部屋で、古びて少しだけガラスにひびが入った写真立てを修復することになった。中には、生まれたばかりの沙耶を抱いて幸せそうに微笑む、若き日の祖母と両親の写真が収められている。
修復を終え、沙耶はごく自然に、素手でその写真立てに触れた。
流れ込んできたのは、祖母・千代乃の「至福の記憶」だった。
それは、健太との桜の木の下の思い出ではなかった。戦火を生き延び、別の男性と結ばれ、穏やかな家庭を築いた日々でもなかった。
――病院の分娩室の光。生まれたばかりの小さな命。自分の腕の中に抱いた、初孫である沙耶の温もり。
「ありがとう、生まれてきてくれて……」
その声は、愛おしさと、未来への希望に満ち溢れていた。
歴史は、過去の物語の連なりであると同時に、未来へと繋がっていく命の潮流なのだ。健太の沈黙の決断が、巡り巡って、今ここにいる自分へと繋がっている。
沙耶はそっと目を開けた。窓の外では、新しい季節の光が工房を満たしていた。彼女は、これからも修復師として、声なき遺物に耳を澄ませ、その小さな声が未来へと繋がっていくのを、静かに見守り続けようと心に誓った。彼女の指先は、もう死んだ時間ではなく、未来へと続く時間に命を吹き込んでいた。