残味の歴史学者

残味の歴史学者

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第一章 幸福の味

水無月響(みなづき ひびき)にとって、歴史とは常に苦い味がした。それは比喩ではない。神保町の古書店街の片隅で、古書修復師として糊と格闘する彼には、一つの呪われた秘密があった。乾いた紙魚(しみ)の粉が舞うアトリエで、脆くなった和紙や色褪せた革装丁に指先が触れるたび、その書物が経てきた時間の「味」が、舌の付け根にじわりと広がってくるのだ。

戦記物に触れれば、錆びた鉄と血の味が口内を満たし、革命家の手記に触れれば、インクの苦味の奥に火薬の焦げ付くような辛味が走る。それは決して心地よいものではなく、響は長年、この能力を疎み、分厚い手袋で自らの感覚を閉ざしてきた。歴史とは、結局のところ夥しい悲劇と苦痛の集積なのだと、彼は舌で知っていた。

その日、彼が持ち込まれたのは、名もなき一冊の日記帳だった。表紙は擦り切れ、かろうじて繋がった背表紙が、そのささやかな歴史の重みを物語っている。依頼主は、解体される古い蔵から出てきたもので、価値は分からないが捨ててしまうには忍びない、とだけ告げて去っていった。

いつものように手袋をはめ、慎重にページをめくろうとした、その時だった。ふとした油断で、指先が日記帳の角に直接触れてしまった。響は顔をしかめ、次に訪れるであろう不快な味覚に身構えた。

しかし、訪れたのは予想を裏切る感覚だった。

舌の上に広がったのは、苦味でも辛味でもなかった。それは、まるで春の陽だまりで味わう綿菓子のように、ふわりと軽く、上品で、そしてどこか懐かしい甘さだった。驚いてもう一度、今度は意図的に指を紙に滑らせる。すると、蜜のように芳醇な甘みが、さらに濃く、深く広がっていく。その味には、雨上がりの土の匂いや、縁側で微睡む猫の背中のような温もり、そして大切な誰かと笑い合った記憶のような、優しい幸福感が溶け込んでいた。

「なんだ……この味は……」

響は呆然と呟いた。彼が三十年の人生で味わってきた歴史の味は、常に悲しみや怒りに満ちていた。幸福などという感情が、これほど鮮烈な「味」として存在しうるなど、想像だにしたことがなかった。

呪いと信じていた能力が、初めて彼に至福の感覚をもたらした。その甘美な味の虜になった響は、手袋を脱ぎ捨て、まるで恋文に触れるかのように、日記帳の修復と解読に没頭していくことを決意した。歴史の片隅に埋もれてしまった、この「幸福の味」の正体を突き止めるために。

第二章 日記の残香

日記は、達筆とは言えないが、一字一字が丁寧に綴られた女性の文字で書かれていた。時代を示す年号はなく、固有名詞も少ない。しかし、響がページをめくり、その文字の連なりに指を這わせるたび、言葉の背景にある情景が、豊かな味覚と嗅覚を伴って彼の内に流れ込んできた。

『今日は、庭の金木犀が満開になりました。窓を開けると、甘い香りが部屋中に満ちて、それだけで一日が幸せな心持ちになります』

その一文に触れると、響の鼻腔を、噎せ返るほど濃厚な金木犀の香りがくすぐった。舌には、上質な和三盆のような、きめ細やかで優しい甘みが広がる。彼は目を閉じ、まるで自分がその部屋にいるかのような錯覚に陥った。

『彼が、市場で珍しい西洋林檎を手に入れてきてくれました。二人で皮を剝いて、蜜のたっぷり入った一切れを分け合って食べたときの、あのしゃくりとした歯触りと爽やかな甘酸っぱさは、きっと一生忘れません』

読むだけで、口の中に瑞々しい果汁が溢れ出す。日記の筆者――響が心の中で「小春さん」と名付けた女性――が感じたであろう、ささやかな日常の喜びが、時を超えて響の五感を満たしていく。日記に描かれていたのは、大きな事件や歴史的な出来事ではない。新しい反物を手に入れた喜び、丁寧に淹れたお茶の美味しさ、隣人との何気ない会話、愛する人との穏やかな時間。そんな、ありふれているが故に輝かしい、日々の営みの記録だった。

響は修復作業の合間に、図書館へ通い、日記の記述を手掛かりに時代考証を始めた。使われている言葉遣い、インクの種類、紙の質。それらの断片的な情報から、日記が昭和初期、おそらくは東京のどこかの下町で書かれたものではないか、という推測に至った。

これまで彼が向き合ってきた歴史は、常に権力者や英雄たちの物語だった。しかし、小春さんの日記は、そんな「大きな歴史」の影で、名もなき人々がいかに懸命に、そして豊かに生きていたかを教えてくれた。彼女が感じた幸福の味を追体験するうちに、響の心境にも変化が訪れる。歴史の苦味を恐れていた彼は、いつしか、この甘美な味をもっと知りたい、小春さんの生きた証をこの手で未来へ繋ぎたいと、強く願うようになっていた。日記帳は、彼にとって呪いを解く鍵であり、同時に、今まで知らなかった歴史の温かい側面を教えてくれる、一筋の光となっていた。

第三章 焦げ付いた記憶

調査は少しずつ進展した。日記に記されていた、近所の神社の祭りの描写。それが、特定の地域の祭りの特徴と一致することを発見したのだ。場所は、東京の東部、かつて多くの町工場と住宅がひしめき合っていたエリア。時代は、昭和十九年の秋から、二十年の早春にかけて。

その事実に辿り着いた瞬間、響の背筋を冷たいものが走り抜けた。昭和二十年、三月。東京。その符合が意味するものを、彼は歴史の知識として知っていた。脳裏に、教科書で見た空襲の白黒写真が焼き付くように浮かび上がる。

震える手で、日記の最後のページを開いた。そこには、これまでで最も幸せに満ちた言葉が綴られていた。

『もうすぐ、春が来ます。お腹の子も、春には生まれてくるでしょう。この子が生まれてくる世界が、今日のような穏やかな日でありますように。彼と三人で、満開の桜並木を歩くのが、今の私の、一番の夢です』

響は、その一文にゆっくりと指を置いた。

瞬間、彼の全身を凄まじい衝撃が貫いた。

まず感じたのは、これまで味わってきた幸福の味。春の陽光のような、蜜のような、極上の甘さ。しかし、その甘露は一瞬で灼熱の奔流に飲み込まれた。舌を焼くような、強烈な苦味。鼻を突く、肉と髪が焦げる異臭。鼓膜を破らんばかりの爆音と、絶叫の味。それは、純粋な絶望を煮詰めて凝縮したような、地獄の味だった。

幸福の味は消えていなかった。それは、この焦げ付いた絶望の味の奥底で、まるで薄氷のようにかろうじて形を保っている。希望を抱いた瞬間に全てを奪われる、その残酷なコントラストが、味覚を介して響の魂を直接引き裂いた。

「ああ……ああああ……っ!」

彼は椅子から転げ落ち、喉を掻きむしった。口の中に広がる焦げ付いた悲しみの味は、水を飲んでも、うがいをしても、決して消えることはなかった。小春さんが最後に感じたであろう、希望と、その直後に訪れたであろう、想像を絶する恐怖と痛み。彼女が大切に育んだ幸福な日々は、歴史という巨大な暴力によって、一夜にして灰燼に帰したのだ。

響は床に蹲り、嗚咽した。甘美な夢から突き落とされ、歴史の持つもう一つの顔――決して覆い隠すことのできない、無慈悲で圧倒的な悲劇の顔――を、これまでで最も強烈な形で味わわされたのだった。幸福の味を追い求めた旅は、最悪の結末を迎えた。彼が追体験したのは、幸福そのものではなく、失われる直前の、最も輝かしい幸福の残光だったのだ。

第四章 血の系譜

打ちのめされた響は、数日間、アトリエに閉じこもった。口の中にこびりついた焦げ臭さは、まるで亡霊のように彼を苛み続けた。日記に触れるのが怖かった。しかし、このまま終わらせることはできなかった。彼は、小春さんという一人の女性が確かにこの世界に存在した証を、形にしなければならないという使命感に駆られていた。

最後の力を振り絞り、彼は日記の修復を再開した。そして、紙の劣化を防ぐための最終工程で、紙の繊維を分析したとき、彼は信じられないものを見つけることになる。顕微鏡の下に見えた繊維のパターンと、微量に含まれる植物の痕跡。それは、彼が幼い頃、祖母の家で見たものと酷似していた。彼の曽祖母は、趣味で和紙を手漉きで作っていたのだ。祖母から聞いた話では、戦時中、物資が不足する中で、身の回りの植物を混ぜ込んで、独自の風合いの紙を作っていたという。

まさか。そんな偶然があるはずがない。

響は震える手で実家の祖母に電話をかけ、曽祖母の名前を尋ねた。受話器の向こうから聞こえてきた名前に、彼は息を呑んだ。

「小春(こはる)……だよ。あんたのひいおばあちゃんの名前は、水無月小春」

電話が手から滑り落ちた。日記の筆者は、見ず知らずの他人ではなかった。彼自身の、曽祖母だったのだ。彼女が日記に綴った「彼」とは、曽祖父のことであり、お腹にいた子どもは、彼の祖母だった。空襲の夜、曽祖父は亡くなり、身重だった曽祖母は奇跡的に生き延び、戦後、一人で娘を産み育てたのだという。

全てのピースが繋がった。響は、呆然と修復を終えた日記帳を見つめた。これまで彼を呪ってきた能力は、忌むべきものではなかった。それは、時を超え、血脈を遡り、会うことのなかった曽祖母の喜びと悲しみを、彼に伝えるための奇跡だったのだ。彼女が生きた証、彼女が感じた幸福、そして彼女が耐え抜いた絶望。その全てが、この「味」となって、百年近い時を経て、彼のもとに届けられた。

歴史とは、遠い昔の他人事などではない。それは紛れもなく、自分へと繋がる血の物語であり、過去から未来へと受け継がれていく、命の記憶そのものだった。

響は、そっと日記帳を胸に抱いた。口の中に、まだ微かに焦げ付いた悲しみの味が残っている。しかし、もうそれは彼を苛むものではなかった。その苦味の奥底に、確かに存在する、春の陽だまりのような甘さを、彼は感じ取ることができたからだ。それは、絶望の淵から娘を守り抜き、未来へと命を繋いだ、曽祖母の愛の味だった。

響は、これからも古書修復師として生きていくだろう。歴史の味を感じる能力も、消えることはない。しかし、彼の世界は決定的に変わった。歴史の苦味も、辛味も、そして甘美な幸福も、全ては自分を形作る、愛おしい記憶の一部なのだ。彼の指先が触れる古書は、もう単なる過去の遺物ではない。それは、無数の「小春さん」たちの生きた証であり、未来へと手渡されるべき、温かいバトンなのだから。

アトリエの窓から差し込む西日が、修復された日記帳を黄金色に照らしていた。その光景は、まるで一つの歴史が終わり、そして新しい歴史が始まる瞬間を祝福しているかのようだった。

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