空白のカリキュラム
第一章 色褪せた数字
僕、水瀬蓮の視界は、常に数字で汚染されている。
人の頭上、まるで後光のように浮かぶ黄金の数字。それは『学習進度』——その人物が積み重ねた努力と、真に血肉となった知識の総量を示す、僕にしか見えない呪いのようなものだ。数値は残酷なまでに正直で、テストの点数や内申点といった薄っぺらな評価とは次元が違う。一夜漬けの知識はすぐに色褪せ、要領の良さだけで乗り切る生徒の数字は、驚くほど低い。
このエリートが集う葉山学園において、僕の能力は一種の優越感と、それ以上の自己嫌悪をもたらした。低い数字の級友を無意識に見下し、高い数字を持つ者に嫉妬する。そんな自分が嫌だった。
中でも、桐島葵の存在は異質だった。学年トップの成績を維持し、誰からも尊敬される彼女の頭上には、常に『987,654』という、天文学的な数字が輝いていた。しかし、その数字の輝きとは裏腹に、彼女の表情には奇妙なほどの空虚さが漂っていた。完璧に整えられた微笑みは、精巧な人形のそれのように体温がなく、彼女の瞳の奥には、何か大切なものを探し求めるような、深い渇望の色が揺らめいていた。廊下ですれ違う時、ふわりと香る彼女の髪の匂いにさえ、記憶の抜け落ちた古い書物のような、乾いた寂しさを感じた。
第二章 囁かれる教室
「なあ蓮、聞いたか?『存在しないはずの教室』の話」
昼休み、友人の雄介が声を潜めて話しかけてきた。彼の頭上の数字は『8,910』。最近のスランプを反映してか、その輝きは弱々しい。
「入れば、どんな願いも叶うんだって。その代わり……何かを失うらしいけど」
「馬鹿げてる。ただの都市伝説だろ」
僕は冷たく突き放した。だが、心のどこかでその噂が気になっていた。この学園の生徒たちの、数字に取り憑かれたような焦燥感。その歪んだ願望が生み出した幻影ではないのか。
数日後、僕は見てしまった。憔悴しきった顔で、誰も使わないはずの旧校舎の廊下を彷徨う雄介の姿を。彼の頭上の数字は、今にも消え入りそうに点滅している。彼が探しているのは明らかだった。数字という名の呪縛から逃れるための、甘美で危険な囁き。
「やめろ、雄介!」
声をかけようとした瞬間、彼の目の前の空間が、陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。古びた木製のドアが、壁から滲み出すようにして現れる。ドアノブに手をかける雄介。その横顔には、希望と絶望が混ざり合った、悲痛な色が浮かんでいた。
第三章 歪なシンフォニー
僕は雄介を止めることができなかった。後日、彼の頭上の数字は僅かに上昇していたが、彼は僕との些細な思い出を、綺麗さっぱり忘れていた。まるで、初めから何もなかったかのように。
あの教室の正体を突き止めなければならない。そんな使命感に駆られ、僕は放課後の校舎を彷徨った。そして、夕陽が校舎を茜色に染める頃、音楽室の並びに見つけたのだ。そこにあるはずのない、古びた扉を。
息を殺して中を覗くと、そこには桐島葵がいた。部屋の中央に置かれたグランドピアノの前に、彼女は静かに座っている。壁一面には、見たこともない複雑な紋様がびっしりと描かれ、まるで呼吸するように、不気味に明滅していた。チョークの乾いた匂いと、古いインクのような甘い香りが混じり合い、現実感を奪っていく。
「もっと……完璧な演奏を。指が鍵盤と一体になるような、絶対的な技術を……」
彼女の呟きが、静寂に響く。すると、壁の紋様が一斉に強く輝き、その光が彼女の身体に吸い込まれていく。同時に、彼女の頭上の『学習進度』が、カウンターのように凄まじい勢いで上昇を始めた。
『987,654』
『991,230』
『998,870』
そして、彼女の瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。だが、その表情は悲しみではなく、完全な無だった。まるで、なぜ自分が泣いているのかさえ、理解できないかのように。彼女は何かを願う代償に、また一つ、大切な記憶を失ったのだ。初めてピアノに触れた日の、あの胸を焦がすような感動を。
第四章 忘却のインク
「君は、何を失ったんだ」
翌日、僕は葵を問い詰めた。彼女は一瞬きょとんとした後、あの完璧な微笑みを浮かべた。
「水瀬くん? 何の話かしら」
彼女は、昨日の教室での出来事を全く覚えていなかった。ただ、彼女の指が奏でるピアノの音色は、以前にも増して機械的で、完璧なだけの空虚な響きになっていた。
手掛かりを求め、僕は学園の図書館の奥深く、郷土資料室へと足を運んだ。そこで、埃をかぶった学園の創設史を調べていると、背後から声をかけられた。
「何か、探しものかね」
司書の古賀先生だった。彼の頭上の数字は測定不能なほど高く、しかし穏やかに揺らめいている。僕は藁にもすがる思いで、『存在しないはずの教室』について尋ねた。
古賀先生は静かに頷くと、鍵のかかった引き出しから、一本の古風なペンを取り出した。赤い軸の、ありふれた採点ペン。
「これは、ただのペンではない。『忘却のインク』を注ぐことができる」
彼は語り始めた。かつて、この学園にいた一人の教師が、生徒を失敗の恐怖から解放するために作ったものだと。間違いを犯した問題にこのペンで印をつけると、その失敗に関する苦い記憶だけが、綺麗に薄れていく。
「だが、その力はあまりに強すぎた。失敗の記憶だけでなく、それに付随する感情や、努力の過程さえも曖昧にしてしまう。……『教室』は、このペンの理念が暴走した成れの果てだよ」
第五章 創設者の理想
古賀先生が語る真実は、僕の想像を遥かに超えていた。
『存在しないはずの教室』は、学園の創設者が作り出した、一種の教育システムだったという。彼の理想は、生徒を点数や偏差値といった画一的な競争から解放し、一人ひとりが真に望むものを探求できる場所を作ること。
「教室は、生徒の純粋な『願望』を叶えるための装置だった。そして、失われる記憶は、その願望達成の足枷となる『しがらみ』……例えば、過去のトラウマ、劣等感、あるいは、人間的な迷いや情といったものだ」
システムは、消去した記憶という名の感情エネルギーを、純粋なスキル値に変換する。それが、僕にだけ見える『学習進度』の数字の正体だった。
しかし、いつしか生徒たちの願望は歪んでいった。『競争からの解放』ではなく、『競争に勝利すること』を望むようになったのだ。『最高の成績』『完璧な技術』『誰からも愛される容姿』。表面的な願いを叶えるために、システムは彼らの人間性を形成する根源的な記憶を、無慈悲に刈り取っていく。桐島葵は、その最も哀れな犠牲者だった。彼女は「完璧な自分」を願い続けるあまり、自分が何者であったかすら、忘れかけているのだ。
第六章 空白への決別
その日の夕暮れ、僕は再びあの教室の前に立っていた。扉の向こうから、桐島葵の気配がする。彼女はまた、記憶を捧げようとしている。完璧な自分になるために、残された最後の人間性すら捨て去ろうとしている。
僕は扉を押し開けた。
「もうやめろ、桐島さん」
振り返った彼女の瞳は、底なし沼のように昏く、何も映していなかった。
「あなたは……誰?」
その言葉が、僕の胸を突き刺す。彼女は、僕という存在さえ、願望の邪魔になる『しがらみ』として消去してしまったのかもしれない。
壁の紋様が、彼女を誘うように妖しく輝く。僕は決意した。彼女を救うために、そして、この数字に縛られた世界を終わらせるために。
僕は葵の前に立ち、教室そのものに向かって叫んだ。
「僕の願いは……誰もが、数字に縛られない世界だ!」
僕の頭上で輝いていた『学習進度』が、眩いばかりの光を放つ。僕の能力、その全てを代償として捧げる。システムが僕の願いを解析し、壁の紋様が激しく明滅を始めた。視界が真っ白に染まっていく。薄れゆく意識の中で、僕は最後に見た。桐島葵の頭上から、あの巨大な数字が、砂の城のようにサラサラと崩れ落ちていくのを。
第七章 君が見た空の色
気がつくと、僕は保健室のベッドの上にいた。窓の外は、もうすっかり夜の帳が下りている。頭がぼんやりとして、何かとても大切なことを忘れてしまったような、奇妙な喪失感だけが胸に残っていた。
翌日、学園の空気はどこか変わっていた。生徒たちの顔から、あの数字に取り憑かれたような焦燥感が消え、穏やかな、それでいて少し戸惑ったような表情が浮かんでいた。誰もが、何かを失い、そして何かから解放されたことを、無意識に感じ取っているようだった。
廊下で、一人の女子生徒とすれ違った。綺麗な黒髪の、どこか儚げな雰囲気を持つ少女。なぜだろう、彼女の顔を見た瞬間、心臓が小さく音を立てた。彼女もまた、僕を見て少しだけ足を止め、不思議そうな顔で首を傾げた。
お互い、名前も知らない。どんな会話を交わしたのかも覚えていない。
けれど、彼女がふと窓の外に目をやり、夕暮れの空を見上げて微かに微笑んだ時、僕はその横顔から目が離せなくなった。
僕たちの頭上には、もう数字は浮かんでいない。失われた記憶が戻ることは、きっとないだろう。僕たちの過去は、ところどころが虫食いになった、空白のカリキュラムだ。
でも、それでいい。
誰とも比べず、数字に縛られず、僕たちは今、初めて自分の足で、未来という名の真っ白なキャンバスへと歩き出すのだから。