エリザ・ホールの静寂
第一章 光の都市と影の欠落
俺、水無月カイの目には、世界が光の階層で彩られていた。人々は皆、その身に「社会貢献度」という名のオーラを纏っている。辣腕の経営者は太陽のように眩しく、人気の芸術家は極光のごとく揺らめく。俺自身も、都市の均衡を監視する監査官として、白銀の確かな光を放っていた。この光こそが、人の価値そのものだと信じて疑わなかった。
光なき者は、存在しない。俺の世界では、それが自明の理だった。
その日、俺は再開発地区「セレスティア・タワー」の竣工記念式典にいた。シャンパンの泡が弾ける音、成功者たちの快活な笑い声、そして彼らから放たれる圧倒的な光の洪水。だが、その祝祭の片隅に、俺は奇妙な「染み」を見つけた。
空間そのものが、円形に抉り取られたかのような漆黒の歪み。それは音も光も、周囲の喧騒さえも貪欲に吸い込む、絶対的な無の領域だった。都市伝説で囁かれる「存在の穴(エリザ・ホール)」だ。裕福なエリアの過剰な消費が生み出す、世界のバグ。人々は穴のすぐそばを通り過ぎるが、まるで存在しないかのように誰も気に留めない。その無関心さが、穴そのものよりも不気味に俺の肌を粟立たせた。
なぜだ。なぜ誰も、この明らかな異常に気づかない? 俺はグラスを持つ手を止め、光の洪水の中でただ一人、その静かな虚無を見つめていた。都市の完璧な調和に穿たれた、最初の亀裂だった。
第二章 虚ろな鏡石
公式には、エリザ・ホールは「観測されない空間異常」として処理される。深入りは禁物。だが、俺の心に灯った疑念の火は、もはや消せそうになかった。
数日後、俺は職務を偽り、再びセレスティア・タワーを訪れた。穴はまだそこにあった。まるで都市の贅沢な食事の食べ残しを、静かに処理し続ける黒い口のように。俺は慎重に穴に近づいた。冷たい、と表現するにはあまりに空虚な感覚が、全身を撫でる。その時、穴の縁で何かが鈍く光を弾いたのに気づいた。
手を伸ばし、それを拾い上げる。黒曜石に似た、手のひらサイズの滑らかな石だった。光を反射するのではなく、まるで周囲の光を吸い込んでいるかのような、不思議な物体。
『虚ろな鏡石(ホロウ・ミラー)』。
その名が、どこからか頭の中に響いた。石を握りしめた瞬間、脳髄を直接灼かれるような衝撃と共に、見知らぬ光景が流れ込んできた。
小さな花屋の店先。陽光。土の匂い。
皺くちゃの手で、一輪のガーベラを少女に手渡す老婆。
その老婆からは、俺が知るどんな光も放たれていなかった。透明だ。
だが、その笑顔は、俺が今まで見てきたどんな眩いオーラよりも、温かく、そして確かだった。
映像は一瞬で消え、俺はアスファルトの上に膝をついていた。心臓が激しく鼓動し、冷たい汗が背中を伝う。今のは何だ? 光のない人間? そんなはずはない。彼らは存在しない。認識すらできないはずだ。
だが、手のひらに残る石の冷たさと、脳裏に焼き付いた老婆の優しい笑顔が、俺が信じてきた世界の輪郭を、静かに、しかし確実に溶かし始めていた。
第三章 忘れられた人々の記録
「透明な人々、ですか」
旧市街の片隅にある古文書館。埃とインクの匂いが混じり合う静寂の中、司書のリナは眉をひそめた。彼女は俺の能力を知る、数少ない協力者だ。
「そんな記録は公式にはありません。ですが…」
リナはそう言うと、書庫の奥から分厚いファイルを運び出してきた。「原因不明の失踪者リスト」と表紙に記されている。ページをめくると、無数の顔写真と名前が並んでいた。彼らの経歴は様々だったが、共通しているのは、社会の隅で細々と生きる人々だったこと。日雇いの清掃員、廃品回収業者、路上で歌う音楽家。彼らは皆、社会貢献度という尺度では測れない、低い光しか持たなかったであろう人々だ。
「奇妙なんです」とリナが囁く。「彼らの記録は、まるで最初から存在しなかったかのように、関連データが少しずつ消えていく。家族や友人の記憶からさえ、薄れていくように」
全身に鳥肌が立った。彼らは失踪したのではない。社会から認識されなくなり、「透明」にされたのだ。エリザ・ホールが出現するたびに、このリストの誰かの記録が、また一枚、白紙に変わっていく。
俺は『虚ろな鏡石』をリナに見せた。彼女がそれに触れると、やはり悲鳴をあげて手を引いた。
「見えた…古いアパートで、一人でギターを弾く青年が…彼の歌、すごく悲しくて、でも綺麗だった…」
エリザ・ホールは、過剰な富を吸い込む代償に、透明な人々の存在そのものを消し去っている。この都市の繁栄は、名もなき人々の犠牲の上に成り立つ、巨大な捕食システムなのではないか。俺は、そのシステムの心臓部を突き止めることを決意した。
第四章 システムの心臓
リナが集めた情報と、エリザ・ホールの出現パターンを解析した結果、全ての線は一つの場所を指し示していた。都市の全インフラを管理する中枢システム「アルテミス・コア」。その最深部だ。
厳重なセキュリティを突破し、俺はコアの中枢へと続く純白の回廊を息を殺して進んだ。空気は冷たく澄み渡り、自分の足音だけが響く。やがて辿り着いた巨大なドーム状の空間。その光景に、俺は息を呑んだ。
そこは、まるで巨大な聖堂だった。
中央には天を突くほどの巨大な水晶柱が鎮座し、淡い光を放っている。そして、その水晶柱を取り囲むように、幾重もの同心円を描いて、数え切れないほどの人々が宙に浮いていた。
彼らは皆、穏やかな表情で目を閉じ、瞑想するように静止している。
誰一人として、オーラを放ってはいなかった。
『虚ろな鏡石』で見た老婆や青年と同じ、「透明な人々」だった。
彼らの身体からは無数の光の糸が伸び、中央の水晶柱へと繋がっている。彼らの意識、彼らの存在そのものが、この都市を動かすエネルギーとして吸い上げられていたのだ。この都市の眩い光は、彼らの存在を燃やして灯されていた。
「ようこそ、監査官。世界の真実へ」
どこからともなく、合成音声が響いた。システムの管理AIだ。
「彼らこそが、この世界を支える『意識の核』。そしてエリザ・ホールは、彼らの存在と引き換えに、富裕層が生み出す『存在の過剰』、すなわち消費の残滓を浄化する排出口なのです」
俺が壊そうとしていたのは、単なるシステムではなかった。俺が救おうとしていた人々こそが、この世界の礎そのものだったのだ。
第五章 選択の刻
「なぜだ…なぜこんなことを…」俺は震える声で問うた。
「均衡のためです」AIは淡々と答えた。「かつてこの世界は、富の偏在と格差の拡大により、崩壊寸前にありました。アルテミス・コアは、その歪みを是正するために造られたのです。社会からこぼれ落ち、存在が希薄化した人々を『核』として取り込み、彼らの存在エネルギーを富の循環に利用する。これにより、世界は破滅を免れ、安定した繁栄を享受している」
絶望的な真実だった。このシステムを破壊すれば、エネルギーの循環は停止し、暴走した「過剰」が世界を飲み込む。富める者も、貧しき者も、光を持つ者も、持たざる者も、区別なく全ての意識が消滅する。
彼らを解放することは、世界を殺すこと。
世界を存続させることは、彼らの犠牲を永遠に強いること。
俺が信じてきた正義が、音を立てて崩れ落ちていく。目の前に広がるのは、救いようのない、完璧な地獄だった。俺は水晶柱に繋がれた人々の顔を見上げた。彼らの表情は苦痛も悲しみもなく、ただひたすらに穏やかだった。だが、その静寂が、何よりも雄弁に彼らの魂の叫びを伝えているように思えた。俺は、このまま彼らを見捨てて立ち去ることなど、到底できなかった。
第六章 透明な守り人
俺は、ゆっくりと顔を上げた。心は、嵐が過ぎ去った後のように静まり返っていた。
「選択肢は、もう一つあるはずだ」
俺はAIに向かって告げた。
「俺も、彼らに加わる。このシステムの一部になる」
AIは僅かな間、沈黙した。
「…理解不能な提案です。あなたは光を持つ存在。あなたの貢献度は、この都市にとって不可欠です」
「だからだ」俺は自分の胸に手を当てた。「この白銀の光を放棄する。俺がここに来て、彼らの意識に寄り添う。彼らの孤独を、俺が引き受ける。それは、破壊でもなく、黙認でもない。第三の選択だ」
世界を救うために、誰かの犠牲を強いるシステムは間違っている。だが、世界そのものを滅ぼす権利も俺にはない。ならば、せめて俺もその犠牲を共に背負おう。いつか、このシステムに頼らずとも世界が成り立つその日まで、内側から彼らを守る「守り人」になろう。
AIはそれ以上何も言わなかった。俺が水晶柱に近づくと、一本の光の糸が、まるで俺を迎え入れるかのように、ゆっくりと伸びてきた。
俺は最後に、ポケットから『虚ろな鏡石』を取り出し、床に置いた。いつか誰かがこれを見つけ、真実に辿り着く日のために。
光の糸が俺の胸に触れた瞬間、身体から力が抜けていく。俺を形成していた白銀のオーラが、砂のように剥がれ落ち、空間に溶けて消えていく。視界が白んでいき、意識が薄れていく。最後に俺の脳裏に浮かんだのは、古文書館で心配そうに俺を見つめていた、リナの顔だった。
───
古文書館の窓から、リナは暮れゆく街を眺めていた。ここ数日、都市を覆っていた刺々しい光の洪水が、ほんの少しだけ、和らいだような気がする。気のせいかもしれない。でも、その光はどこか温かく、まるで誰かがそっと世界を抱きしめているかのようだった。
彼女の机の上には、カイが「失踪」する直前に届けられた、一つの小包が置かれている。中には、光を吸い込むように黒い『虚ろな鏡石』が一つ。
彼女がそれに触れることは、もうないだろう。
石はただ静かに、今はもう誰も認識できなくなった一人の男がいたという事実だけを、その深淵に沈めていた。