第一章 忘却の調律
白凪(しらなぎ)学園の一日は、静寂から始まる。いや、正確には「静寂を創り出す」ことから始まるのだ。僕、水瀬遥(みなせはるか)は、他の生徒たちと同じように、純白の制服に身を包み、瞑想室の冷たい床に座していた。目の前には、水面のように滑らかな黒曜石の板が置かれている。今日の課題は「昨日の夕食の味」「友人と交わした無駄話」「窓から見えた夕焼けの色」、それら全てを意識の底に沈め、完全に忘却すること。
ここは、忘れることを教え、忘れることで評価される学園。創設者の理念は『過去という名の重荷から解放され、常に真っ白な精神で未来を創造する人材の育成』。僕たちは「忘却術」の優劣で進路が決まる。感情の起伏や執着は、精神の純度を汚すノイズとされ、日々の「調律」、すなわち記憶の消去によって取り除かれるべきものだった。僕は、その中でも常にトップの成績を収める優等生だった。感情を抑制し、記憶を整理し、不要なものを手際よく捨て去る。それが得意で、正しいことだと信じて疑わなかった。
「――では、始め」
教師の凛とした声が響く。目を閉じ、呼吸を整える。意識を昨日の出来事へと集中させ、一つ一つの情景を丁寧に思い浮かべる。カツレツの衣の感触、友人の笑い声、茜色と藍色が混じり合う空。それらをくっきりと像として結んだ後、ゆっくりと息を吐きながら、像を霧散させていく。ディテールが失われ、色が褪せ、輪郭がぼやけていく。いつもと同じ、完璧な忘却のプロセス。
だが、その日、何かが違った。
全てが真っ白な無に帰したはずの意識の片隅に、一つの音が、染みのように残っていた。それは、ピアノのメロディ。澄んでいて、どこか切ない旋律。昨日、そんな音を聞いた記憶はない。そもそも、この学園では情操を乱すとして、個人の音楽鑑賞は厳しく制限されている。これは何だ? 消し残した記憶の断片か、それとも新たなノイズか。
僕はもう一度意識を集中し、その音を消し去ろうとした。だが、消そうとすればするほど、そのメロディはクリアに響き渡り、僕の完璧な静寂を乱していく。まるで、忘れられることを頑なに拒む、強い意志を持った生命体のように。
その日の午後、僕のクラスに一人の転校生がやってきた。月島響(つきしまひびき)。彼は、僕たちとは明らかに異質な空気をまとっていた。陽に透けるような茶色の髪は校則違反寸前で、その瞳は、何かを諦めているような、あるいは何かを必死に探しているような、深い憂いを湛えていた。そして何より、最初の忘却術の授業で、彼は最低の評価を受けた。「何も忘れられていない」と教師に冷たく言い放たれ、彼はただ唇を噛むだけだった。
忘れることができない劣等生。僕とは正反対の存在。なのに、なぜか僕は、彼のことが気になって仕方がなかった。僕の心を乱すあのメロディと、彼が放つ不協和音が、どこかで繋がっているような予感がしたからだ。
第二章 不協和音の在処
頭の中で鳴り続けるピアノの旋律は、僕の集中力を著しく削いでいた。授業に身が入らず、忘却術の成績も、生まれて初めて「良」に落ちた。教師からは「弛んでいる」と叱責され、友人たちからは心配そうな、あるいは軽蔑するような視線を向けられた。完璧だった僕の世界に、確実に亀裂が入り始めていた。
この音の正体を突き止めなければ、僕の日常は戻らない。その一心で、僕は学園の規則を破ることを決意した。消灯時間を過ぎた深夜、寮を抜け出し、音の出処を探して、月明かりだけが頼りの校舎を彷徨った。金属製の階段を忍び足で下り、長い廊下を進む。自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
そして、たどり着いたのは、今は使われていない旧音楽室だった。分厚い扉の隙間から、微かに光が漏れている。そして――あのメロディが、聞こえてくる。記憶の中の幻聴ではない。今、確かにここで、誰かがピアノを弾いているのだ。
僕は息を殺し、そっと扉を開けた。月光が差し込む埃っぽい部屋の中央で、グランドピアノに向かっていたのは、やはり月島響だった。彼の指が鍵盤の上を舞うたび、あの切なくも美しいメロディが生まれ、星空に溶けていくようだった。彼は、世界の全てから自分を隔絶するように、一心不乱に弾き続けていた。
「……誰だ」
僕の気配に気づいた彼が、演奏を止めて振り返る。その瞳には、驚きと警戒の色が浮かんでいた。
「水瀬……。どうしてここに」
「その曲だ」僕は抑えきれずに言った。「僕の頭から離れないその曲は、何なんだ」
響はしばらく黙り込んでいたが、やがて諦めたように息を吐いた。「忘れたくない曲だよ」と彼は言った。「僕が忘れてはいけない、たった一つのものなんだ」
彼の話は、僕が学んできたこと全てを否定するものだった。彼は、亡くなった姉が大好きだったこの曲を、忘却術から守るために、毎晩ここで弾き続けているのだという。「忘れることは、その人がいなかったことになるのと同じだ。僕はそれが怖い」と、彼は震える声で言った。
「でも、執着は苦しみを生むだけだ。過去から解放されてこそ、人は……」
「それは誰が決めたんだ?」響は僕の言葉を遮った。「悲しみも、痛みも、その人を愛していた証だ。全部ひっくるめて、その人との思い出なんだ。それを捨てて得られる『真っ白な未来』に、何の意味がある?」
彼の言葉は、鋭い刃のように僕の胸に突き刺さった。忘れることは善であり、解放である。そう信じてきた僕の足元が、ぐらりと揺らぐ。その夜、僕たちは夜が明けるまで語り合った。彼の話す「記憶」は、僕が捨ててきたものとは全く違って、温かく、鮮やかで、かけがえのない輝きを放っていた。そして僕は、生まれて初めて、何かを「忘れたくない」という強い感情が芽生えていることに気づいた。それは、目の前で拙くも必死に語る、月島響という存在そのものだった。
第三章 砕かれた万華鏡
響との出会いは、僕の世界を根底から揺るがした。僕もまた、彼と共に夜の音楽室を訪れるようになった。彼のピアノを聴き、他愛ない話をする。その時間は、僕にとって何よりも大切な「記憶」になっていった。そして、この記憶を失いたくないと願うほどに、学園のシステムそのものへの疑念が膨らんでいった。
僕たちは、この学園の真実を知る必要があると感じていた。生徒たちから毎日、大量に消去されていく記憶は、一体どこへ行くのか。ただ霧散するだけなのだろうか。
響が古い学内マップから見つけた「中央アーカイブ室」という名の、どの生徒も聞いたことのない部屋。そこが全ての答えを知る場所だと、僕たちは直感した。ある満月の夜、僕たちは再び寮を抜け出し、学園の最も深く、最も厳重に閉ざされたエリアへと足を踏み入れた。
幾重ものセキュリティを、優等生だった僕の知識と、劣等生だった響の意外な大胆さで突破していく。そしてたどり着いたアーカイブ室の扉を開けた瞬間、僕たちは息をのんだ。
そこは、宇宙空間のように広大で、静寂な場所だった。そして、無数の光の粒子が、まるで天の川のように渦を巻きながら浮遊していた。一つ一つの粒子が、ガラスのような球体に収められている。それは、万華鏡を覗き込んだかのような、幻想的で、そしてひどく不気味な光景だった。
「これって……」響が呟く。
「……記憶だ」僕は確信した。「僕たちが『忘れた』はずの、生徒全員の記憶だ」
笑い声、涙、交わした約束、淡い恋心、夕焼けの色、本の匂い。ありとあらゆる記憶が、ここでは標本のように保存され、管理されていた。僕たちが捨ててきたはずの過去は、消えたのではなく、奪われていたのだ。
僕たちは、部屋の中央へと吸い寄せられるように進んだ。そこには、ひときわ大きく、そして複雑な光を放つ巨大な記憶の球体があった。台座には『創設者:アルファ』とだけ記されている。恐る恐るその球体に触れた瞬間、奔流のようなイメージが僕の脳内に流れ込んできた。
それは、学園創設者の記憶だった。彼は、愛する女性を戦争で失った科学者だった。その耐え難い悲しみを忘れるため、彼は忘却術を開発した。憎しみや悲しみといった負の記憶を消し去り、人類を過ちの連鎖から救う。それが彼の掲げた崇高な理想だった。
しかし、忘却は彼から悲しみだけでなく、別のものも奪っていた。愛する人と過ごした日々の喜び、彼女の笑顔、その温もり。強すぎる感情は、ポジティブなものでさえ「ノイズ」として扱われた。そして彼は、ついに、自分がなぜ悲しんでいたのか、その理由である「彼女を愛していた」という最も大切な記憶さえも失ってしまったのだ。
創設者の記憶の最後は、がらんどうの心で、ただ虚空を見つめるだけの、色のない情景だった。
忘却は救いではなかった。それは、魂の最も大切な部分を削り取る、残酷な外科手術だった。僕が信じてきた世界は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。僕の隣で、響は静かに涙を流していた。彼の姉との記憶も、いつかはこの場所に奪われ、ただの光の粒子にされてしまうところだったのだ。
第四章 記憶のフーガ
僕たちはアーカイブ室を出た。心は、かつてないほどの怒りと、そして不思議な決意に満ちていた。もう、誰にも僕たちの記憶を奪わせはしない。
「遥、どうする?」
「終わらせるんだ。この偽りの楽園を」
僕たちは旧音楽室へ向かった。そして、僕は響に頼んだ。
「弾いてくれ。君のお姉さんのための曲を。そして、僕と君が出会った、あの曲を」
響は黙って頷き、ピアノの前に座った。彼の指から、あの切ないメロディが流れ出す。僕は、優等生だった頃に培った知識を総動員し、音楽室の古い放送設備に細工をした。スイッチを入れると、響のピアノの音が、学園中のスピーカーから響き渡った。
それは、静寂を是とする白凪学園に対する、最大の反逆だった。
最初は戸惑っていた生徒たちが、やがてざわめき始める。メロディは、彼らが忘れたはずの記憶の扉をノックする鍵だった。ある者は、忘れていた家族の顔を思い出して涙ぐみ、ある者は、かつての親友の名前を不意に呟いた。ある者は、好きだった本の感動を思い出し、胸を高鳴らせた。
消去され、奪われたはずの感情の断片が、音楽に導かれて持ち主の元へと帰っていく。それはまるで、乾いた大地に降る恵みの雨のようだった。完璧に調律されていたはずの学園は、美しい不協和音に満たされていく。教師たちが血相を変えて音楽室に駆けつけてきたが、もう遅い。一度流れ出した記憶の奔流は、誰にも止められなかった。
僕と響は、窓からその光景を見下ろしていた。生徒たちが、硬い表情を崩し、泣いたり、笑ったり、誰かと抱き合ったりしている。彼らは初めて、痛みも喜びも内包した、本当の自分自身を取り戻したのだ。
この学園がどうなるのか、僕たちがどうなるのかは、まだ分からない。けれど、一つだけ確かなことがある。僕はもう、忘れることから逃げない。優等生だった僕は、砕かれた万華鏡の破片と共に、昨日に死んだ。
「僕たちは、これから何を覚えて、何と共に生きていこうか」
僕の呟きに、響は答えなかった。ただ、演奏を終えた彼の手が、そっと僕の手に重なった。その温かさだけは、何があっても、もう二度と忘れないだろう。
窓の外では、夜が明けようとしていた。偽りの静寂が破られた世界に、本物の朝日が昇り始めていた。それは、僕たちがこれから紡いでいく、新しい記憶の物語の始まりを告げる光だった。