第一章 ファインダー越しの蜃気楼
僕、望月蒼太の世界は、常に一枚のガラスを隔てて存在していた。カメラのファインダーという、四角く切り取られたガラスだ。現実のざわめきや、生々しい感情の応酬は、レンズを通すことで心地よい距離感を持つただの「風景」になる。だから僕は、写真部に籍を置きながら、誰かの心を揺さぶる一枚を撮ろうなどとは、露ほども思っていなかった。ただ、世界との間に安全な距離を保つための、それが僕のファインダーだった。
そんな僕の日常に、彼女は蜃気楼のように現れた。
放課後の屋上。立ち入り禁止の札を無視して足を運ぶのは、ここが校内で唯一、完璧な孤独を手に入れられる場所だからだ。古びた給水塔の影に身を潜め、レンズを空に向ける。その日、僕のファインダーの中に、一人の少女が飛び込んできた。
腰まで伸びる、絹糸のような黒髪。夏服の白いブラウスが、西日に染まって淡いオレンジ色に輝いている。彼女はフェンスの前に立ち、何かを結びつけていた。目を凝らすと、それは色とりどりのリボンだった。赤、青、黄色、緑。風に揺れるリボンは、まるで誰かの切実な願いが形になったかのようだ。だが、奇妙なことに、そのリボンには何も書かれていなかった。ただの、無地の布切れ。
彼女は天野陽菜(あまのひな)。二ヶ月前に僕の隣のクラスに転校してきた生徒だ。しかし、彼女の存在はどこか希薄で、クラスメイトと話している姿を一度も見たことがない。まるで、この学校にいること自体が、誰にも気づかれていない秘密であるかのように。
僕は息を殺し、シャッターを切った。カシャリ、という乾いた音が、静寂を破る。彼女はゆっくりと振り返った。僕の存在に気づいていたのだろう。驚くでもなく、咎めるでもなく、ただ静かに僕を見つめる。その瞳は、あまりに澄んでいて、僕が隔てていたはずのガラスを、いとも容易く透過してくるようだった。
彼女は何も言わずに踵を返し、屋上のドアの向こうへと消えていった。フェンスには、また一本、新しい無地の水色のリボンが風に揺れていた。
なぜ、何も書かないのだろう。願い事ならば、言葉にして刻むのが普通じゃないか。その日から、僕のファインダーは、天野陽菜という名の謎を追いかけ始めた。彼女が結ぶ無色の願いは、僕の退屈な日常に投げ込まれた、美しくも不可解な一石だった。
第二章 夕暮れの輪郭
僕は毎日のように屋上に通い、陽菜を撮り続けた。彼女はいつもそこにいた。フェンスにリボンを結び、沈みゆく夕日を、世界の終わりのような眼差しで見つめていた。僕たちは言葉を交わさない。シャッター音だけが、僕たちの間に存在する唯一のコミュニケーションだった。
ある日、僕が撮った彼女の写真を、写真部の顧問である高木先生に見られてしまった。先生は唸るように言った。「望月、お前、いつの間にこんな写真を撮るようになったんだ。この子は、ただそこにいるだけなのに、どうしようもなく見る者の心を掴む。何かがあるな」
その言葉に、僕は初めて自分の写真に「意味」が生まれる可能性を感じた。ただの記録ではない、何かを伝える力が宿るかもしれない、と。
意を決して、陽菜に話しかけたのはその翌日だった。
「どうして、リボンに何も書かないんだ?」
僕の声は自分でも驚くほど震えていた。陽菜はゆっくりと僕の方を向き、初めて小さく微笑んだ。その笑顔は、ひどく儚げで、触れたら壊れてしまいそうだった。
「言葉にすると、零れ落ちてしまう願いもあるから」
そう言って、彼女は空を指差した。茜色と藍色が混じり合う、美しいグラデーションの空。
「あの空の色を、言葉だけで誰かに伝えられる?『綺麗だ』って言った瞬間に、本当に伝えたかった何かが、少しだけこぼれていく気がしない?」
僕は何も言えなかった。ファインダー越しに世界を切り取ってきた僕にとって、それはあまりに核心を突く言葉だった。
それから、僕たちは少しずつ話すようになった。彼女は星の話をよくした。遠い星の光が、何万年もかけて今ここに届いているという、壮大な時間の話。彼女といると、僕がこだわっていた日常の些細なことなど、宇宙の塵のように思えた。彼女の存在そのものが、僕のモノクロだった世界に、鮮やかな色彩を与えていくようだった。
「望月くんは、どうして写真を撮るの?」
ある日、彼女にそう尋ねられた。
「さあな。ただ、そこに世界があるから、かな」
ありきたりの答えしか返せない自分に、僕は苛立った。
「そっか。でも、望月くんのファインダーは、優しいね。私、ちゃんとここにいるんだって、思えるから」
その言葉が、僕の胸を強く打った。僕は、彼女を被写体にした写真で、コンクールに応募しようと決めた。タイトルは『無色の願い』。彼女の存在を、僕が感じたこの衝動を、形にしたかった。
しかし、陽菜の笑顔の裏には、時折、深い影がよぎることを僕は知っていた。特に夕焼けが空を燃やすとき、彼女の瞳は潤み、その輪郭が悲しみで滲むのだ。僕はその理由を知りたかったが、どうしてもその一線を越えることができなかった。
第三章 砕け散るプリズム
写真コンクールの締切を一週間後に控えた月曜日、陽菜は学校に来なかった。火曜日も、水曜日も。彼女の席は、まるで初めから誰もいなかったかのように、がらんとしていた。僕の心は、得体の知れない不安で黒く塗りつぶされていった。
クラスメイトに聞いても、誰も彼女の連絡先を知らない。担任の先生に尋ねると、困惑した顔でこう言った。「天野さんかい?実は、ご家族から正式な転校手続きの書類がまだ届いていなくてね。少し、特殊な事情があるようで……」
僕の頭の中で、警報が鳴り響いていた。手がかりは、ない。いや、一つだけあった。彼女が屋上のベンチに置き忘れていった、一冊の古い天体観測の本。その見返しに、小さな文字で『県立中央病院』と書かれた図書印が押してあった。
嫌な予感を振り払うように、僕は放課後、電車に飛び乗った。隣町にあるその大きな病院は、小高い丘の上に建っていた。陽菜が話していた「星がよく見える丘」だ。
総合受付で、震える声で彼女の名前を告げる。看護師は怪訝な顔をしたが、僕の必死の形相に何かを感じ取ったのか、しばらくコンピューターを叩いた後、静かに言った。
「天野陽菜さんは、特別病棟の……ああ、でも、面会はご家族だけに……」
その言葉が、僕の足元を崩壊させた。彼女は、生徒じゃなかった?
僕は必死に食い下がった。学校の友人だと嘘をつき、なんとか彼女の病室の階までたどり着いた。そこで、僕は彼女の両親らしき人物と、一人の医師が話しているのを見てしまった。
「……もう、峠は越せないでしょう。陽菜さんが望んだように、最期は穏やかに……」
僕の世界から、音が消えた。視界がぐにゃりと歪み、今まで見てきた全ての景色が意味を失っていく。陽菜が、僕の学校にいたこと。屋上でリボンを結んでいたこと。その全てが、まるで虚構だったかのように感じられた。
混乱する僕に、陽菜の母親が気づいて声をかけてきた。僕が陽菜の友人だと知ると、彼女は泣きながら全てを話してくれた。
陽菜は、重い病を患い、長年この病院で闘病していたこと。
一年前に、彼女のたった一人の兄が、事故で亡くなったこと。
その兄が、僕たちの高校の写真部員で、屋上を何よりも愛していたこと。
陽...菜は、兄がやり残したこと、友人たちと交わした叶わなかった約束、その「言葉にならなかった想い」を、兄の代わりに叶えるために、病院を抜け出しては高校に通う「フリ」をしていたのだと。
あの無地のリボンは、陽菜自身の願いではなかった。それは、亡き兄の無念の言葉、声にならなかった叫び、そのものだったのだ。
僕はその場に崩れ落ちた。ファインダー越しに彼女の神秘性だとか、儚さだとかを切り取って悦に入っていた自分が、ひどく醜悪なものに思えた。僕が見ていたのは、陽菜のほんの一片にも満たない、光の屈折が生んだ幻影に過ぎなかった。砕け散ったプリズムの破片が、容赦なく僕の心に突き刺さった。
第四章 空に結ぶ未来
白いシーツの上で眠る陽菜は、僕が知っている彼女よりもずっと小さく、脆く見えた。窓から差し込む光が、彼女の顔の産毛を照らしている。僕の気配に気づいたのか、彼女はゆっくりと瞼を開けた。
「……来てくれたんだ。ごめんね、だましてて」
か細い、けれど芯のある声だった。
僕は首を横に振った。言葉が出てこない。代わりに、カバンから一枚の写真を取り出して、彼女の枕元に置いた。コンクールに出すために、一番大きく引き伸ばした写真。屋上のフェンスに寄りかかり、風に髪をなびかせながら、遠くの空を見つめる陽菜の姿だ。
「君は、僕の世界を変えてくれた。僕のファインダーは、君に出会うまでずっと、ただのガラスの箱だった。でも、君がいたから、僕は初めて、その向こう側にある本当の光を撮りたいと思ったんだ」
陽菜は写真に目を落とし、その瞳から一筋の涙がこぼれた。
「……そっか。私、ちゃんとここに、いたんだね」
その微笑みは、僕が今まで見た中で、最も美しく、そして切なかった。彼女は兄の想いを背負いながら、同時に「天野陽菜」として、確かにその瞬間を生きていたのだ。
それから数日後、陽菜は静かに星になった。
季節は巡り、空には秋の雲が流れていた。僕はあの日以来、初めて屋上に上がった。フェンスには、陽菜が結んだ色とりどりのリボンが、少し色褪せながらも、風に吹かれて懸命に揺れている。まるで、今も彼女が、そして彼女の兄が、ここで呼吸をしているかのように。
僕はカメラを構えた。もう、被写体と自分の間に壁を作るためのファインダーじゃない。この世界と、そこに息づく名もなき想いと繋がるために、シャッターを切る。
カシャ。
空と、風と、揺れるリボンを一枚の写真に収めた。
そして僕は、ポケットから一本の白いリボンを取り出す。この日のために、ずっと持っていたものだ。油性のペンで、たった一言、そこに書き込む。
僕はそのリボンを、陽菜が最後に結んだ水色のリボンの隣に、固く、結んだ。
そこに書いた言葉は、「ありがとう」。
僕が初めて、自分の心から零れ落ちた、言葉になった願い。
彼女の肉体はこの世界から消えた。でも、彼女が残した言葉にならない想いと、僕の中に灯してくれた光は、決して消えはしない。僕はこれからも写真を撮り続けるだろう。ファインダー越しに、いつか彼女が見つめていた星の光を探しながら。空に結ばれた無数の想いが、未来で誰かの心を照らすことを信じて。