第一章 古びた木箱
父が死んだ。肺を病み、最後の数ヶ月は病院のベッドの上で、窓の外を眺めて過ごしていた。俺、長谷川健太は、三十三歳になった今も、その背中が何を語っていたのか、ついに理解できないままだった。
父、修一は、寡黙な男だった。家具職人として腕は確かだったらしいが、家庭では影が薄く、その手から温もりを感じた記憶はほとんどない。食卓では新聞を盾に沈黙し、キャッチボールをねだった俺の言葉は、いつも空気に溶けて消えた。そんな父を、俺は子供の頃から軽蔑していた。冷たい男、家族に興味のない男、と。
四十九日の法要を終え、母の佳代子に頼まれて、俺は埃っぽい実家の書斎の遺品整理を始めた。壁一面の本棚には、意匠や木工技術に関する専門書が整然と並んでいる。父の世界は、この四畳半の空間で完結していたのだ。そう思うと、改めて息が詰まるような感覚に襲われた。
本を段ボールに詰める作業は単調だった。その時だ。本棚の最下段、奥の壁との隙間に、黒ずんだ木箱が隠されているのに気づいたのは。鍵はかかっていない。軋む音を立てて蓋を開けると、樟脳の匂いとともに、一枚の色褪せた写真と、分厚い手帳が姿を現した。
手に取った写真に、俺は息を呑んだ。そこに写っていたのは、知らない女と、五歳くらいの少女だった。柔らかな陽光の中、海辺で屈託なく笑っている。そして、その二人を優しい眼差しで見つめているのは、間違いなく、若き日の父だった。俺の知る、あの仏頂面の父とは似ても似つかない、幸福に満ちた表情で。
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。これは、誰だ? 父の、もう一つの家族なのか? 俺と母を裏切っていたのか? 疑問と怒りが、渦を巻いてこみ上げてきた。隣室で穏やかに茶をすする母の姿が目に浮かび、吐き気がした。俺は震える手で、手帳――父の日記であろうそれ――の最初のページをめくった。父の隠された人生の扉を、開けてしまったのだと直感しながら。
第二章 裏切りの日記
書斎の窓から差し込む西日が、床の埃を金色に照らし出していた。俺はその光の中で、父の日記を貪るように読み進めた。万年筆で綴られた丁寧な文字は、俺の知らない父の姿を克明に浮かび上がらせていく。
日記は、俺が生まれる十年も前から始まっていた。そこには、写真の女性――小夜子という名だった――との出会いと、燃えるような恋が、詩的な言葉で綴られていた。父は、ただの寡黙な職人ではなかった。情熱を内に秘め、一人の女性を深く愛する、血の通った青年だったのだ。読み進めるほどに、俺が「父」として知る人物像は脆くも崩れ去っていく。
『小夜子の笑顔は、まるで春の陽だまりだ。この温もりを守るためなら、俺はなんだってできる』
ページをめくる指が、嫉妬と憎しみで震えた。母さんには、こんな言葉をかけたことがあっただろうか。俺たち家族に向けられることのなかった情熱が、この日記には溢れていた。写真の少女は「海(うみ)」と名付けられ、父は彼女の成長を、まるで実の父親のように喜んでいた。
『海が初めて「しゅうちゃん」と呼んでくれた。壊れ物を抱くように、その小さな体を抱きしめた。この子の未来が、幸多きものであるようにと、心から願う』
俺は、父に一度も抱きしめられた記憶がない。父の愛情は、すべてこの偽りの家族に注がれていたのだ。そう確信すると、腹の底から黒い感情がせり上がってきた。母への裏切りだ。俺たち家族への冒涜だ。
この事実を、母に伝えるべきか。いや、伝えるべきではない。穏やかに暮らす母の心を、今更かき乱す必要はない。だが、このまま俺一人が秘密を抱え、父の墓前に静かに手を合わせることなどできるだろうか。父の墓石を、この手で叩き割りたくなるかもしれない。
日記の後半、日付が俺の生まれた年に近づくにつれ、記述には次第に影が差し始める。幸せな日々の描写の合間に、小夜子の体調を気遣う一文が、痛々しく混じるようになっていた。
第三章 沈黙の理由
日記を読み進める俺の額に、冷たい汗が滲んでいた。物語は、俺の予想を根底から覆す方向へと、静かに舵を切った。
『小夜子の病状が芳しくない。医者は、もう長くはないと告げた。神様、なぜだ。なぜ、こんなにも優しい彼女から光を奪うのですか』
小夜子は、若くして不治の病に侵されていた。そして、父が佳代子――俺の母――と見合い結婚したのは、その直後のことだった。日記には、母への誠実な思いが綴られていた。
『佳代子さんは、太陽のような人だ。俺の心の闇を、その明るさで照らしてくれる。この人を生涯、大切にしようと誓った』
俺は混乱した。二重生活の言い訳か? だが、父の文字からは、欺瞞の色は読み取れなかった。そして、決定的な一文が、俺の思考を打ち砕いた。
『妹、小夜子が、眠るように息を引き取った。あいつの最期の言葉は「海を、お願いね」だった。当たり前だ、兄ちゃんに任せろ。お前の一人娘は、俺が必ず幸せにする』
――妹。
小夜子は、父の愛人ではなかった。たった一人の、血を分けた妹だったのだ。
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。写真の中の父の優しい眼差しは、恋人に向けるものではなく、病床の妹とその娘に向けられた、家族としての慈愛の眼差しだったのだ。
ページは続く。小夜子の死後、夫も後を追うように事故で他界し、幼い海は天涯孤独の身となった。父は、姪である海を引き取り、自分の手で育てようと決意する。しかし、その時、母のお腹には新しい命が宿っていた。俺だ。
『佳代子に、全てを話すべきか。いや、だめだ。初めての妊娠で、心身ともに不安定な彼女に、これ以上重荷を背負わせるわけにはいかない。俺の家族の問題は、俺一人で背負うべきだ』
父は苦悩の末、海を遠縁の夫婦に養子に出すことを決断した。日記のその部分は、涙でインクが滲んでいた。
『海を、手放した。駅のホームで、小さな手が俺の指を離れない。「行かないで」と泣き叫ぶ声を背に、俺は振り返ることさえできなかった。すまない、海。すまない、小夜子。俺は、お前たちを守れなかった。この罪は、一生かけて償う』
そこから、父の人生は一変した。彼は自らに罰を科すように、感情を押し殺し、寡黙な仕事人間となった。家族サービスをしなかったのではない。できなかったのだ。遠くで暮らす姪への贖罪の念と、新しい家族への愛情との間で、彼の心は引き裂かれていた。年に一度、養父母に大金を送り、送られてくる海の写真に、日記の中でだけ語りかける。それが、父にできる唯一のことだった。俺が軽蔑していた父の沈黙は、声にならない慟哭そのものだったのだ。
第四章 海の名前
俺は日記を閉じた。頬を伝う熱い雫が、乾いた木の表紙に染みを作った。父さん、あんたは、なんて不器用で、なんて優しい人だったんだ。
俺が知っていた父は、その人生のほんの一片に過ぎなかった。父は、二つの家族を、たった一人で背負っていた。俺たち家族の平穏を守るために、もう一つの家族への愛情と罪悪感を、分厚い沈黙の壁の向こうに封じ込めていたのだ。あの書斎は、父にとって唯一、本当の自分でいられる聖域であり、そして、出口のない牢獄でもあったのだ。
俺は立ち上がり、隣室の母の元へ向かった。母は、縁側で穏やかに庭を眺めていた。
「母さん」
「なあに、健太。終わったのかい」
「父さんの書斎、あのままでいいかな。もう少し、片付けたくないんだ」
母は、俺の顔をじっと見つめ、そして全てを察したように、ふわりと微笑んだ。
「そうかい。あそこは、あのお父さんの大切なお城だったからね。健太がそうしたいなら、そうしなさい」
母は、知っていたのかもしれない。いや、知らなくとも、父の沈黙の奥にある何かを、感じ取っていたのだろう。それこそが、夫婦というものなのかもしれない。
日記の最後のページには、一つの住所が記されていた。成長した海の、現在の住所だった。父は、会いに行く勇気がないまま、その場所をただ記し続けることしかできなかったのだ。
数日後、俺は新幹線に乗っていた。窓の外を流れる景色を見ながら、父のことを考えていた。父が守りたかったもの。父が繋ぎたかった絆。それを、今度は俺が受け継ぐ番だ。
目的の駅で降り、バスに乗り換える。潮の香りがする街だった。住所を頼りに歩くと、坂の上の、海が見える小さな家にたどり着いた。表札には「三浦」とある。養父母の姓だろう。
俺は、ドアの前に立った。心臓が大きく波打っている。チャイムを押す指が、わずかに震えた。この扉の向こうに、父がその生涯をかけて想い続けた「海」がいる。
空を見上げると、冬の澄み切った青空が広がっていた。まるで、凪いだ海のように静かだ。その静寂の中に、俺は初めて、父の穏やかな笑顔を見た気がした。
俺は、深く息を吸い込み、チャイムに指を伸ばした。父が果たせなかった再会を、これから俺が始めるのだ。これは贖罪ではない。父が遺してくれた、新しい家族の物語の始まりなのだから。