忘れられた音色の調律師

忘れられた音色の調律師

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第一章 不協和音と古びたピアノ

月明かりだけが頼りの古い工房で、僕、相沢響(あいざわ ひびき)は一台のグランドピアノに向き合っていた。埃と、オイルと、古い木の匂いが混じり合った空間。師匠である老調律師が懇意にしている好事家から預かった、百年前の骨董品だ。鍵盤は黄ばみ、弦は錆びつき、その音はもはや音楽と呼べる代物ではなかった。

調律師見習いの僕にとって、これは仕事というより罰ゲームに近い。かつてピアニストを夢見た僕の耳は、完璧な調和から僅かでも外れた音を、痛みとして感じ取ってしまう。ハンマーを手にチューニングピンを回すたび、不快な唸りが脳を直接揺さぶる。

「……もう、やめだ」

深夜二時。集中力はとうに切れ、苛立ちだけが募っていた。僕は工具を無造作に置き、力なく鍵盤に突っ伏した。夢破れた僕には、壊れたピアノを直す仕事がお似合いだ。そんな自嘲が胸をよぎる。完璧な演奏を求め、指が裂けるほど練習し、そしてコンクールの舞台で頭が真っ白になったあの日から、僕の世界は色褪せてしまった。音楽は、僕にとって喜びではなく、呪いになった。

その時だった。

――ポロォン……

澄み切った、水滴が水面に落ちるような音がした。顔を上げても、工房には僕一人。空耳か、と再び突っ伏そうとした瞬間、また音がした。今度は、いくつかの音が重なり合った、柔らかな和音。それは、目の前の古びたピアノから聞こえてくるようだった。

ありえない。僕はこのピアノの弦をすべて緩めたはずだ。物理的に音が出る状態ではない。なのに、その音色はどこまでも純粋で、悲しいほどに美しかった。それは僕がずっと追い求めてきた、けれど決して届かなかった理想の音。

吸い寄せられるように、僕は震える指をそっと鍵盤に置いた。触れた瞬間、意識がぐにゃりと歪む。工房の景色が溶け出し、色と光が渦を巻いた。ピアノの木の匂いが、いつの間にか深い森の土と苔の匂いに変わっていく。目眩と共に僕の身体は重力を失い、どこまでも深く、美しい音色の源へと落ちていった。

第二章 音が生まれる森

僕が意識を取り戻した時、目に映ったのは見たこともない光景だった。巨大な樹々が空を覆い、その葉の一枚一枚がステンドグラスのように淡い光を放っている。空気は澄み渡り、呼吸するたびに胸が洗われるようだった。地面には柔らかな苔が絨毯のように広がり、足元では小さな光の粒が、まるで蛍のように明滅を繰り返している。

「……ここは、どこだ?」

呆然と呟く僕の耳に、さえずりのような、鈴のような、不思議な音が聞こえてくる。見れば、光の粒が明滅するたびに、その音が生まれているようだった。ここは、音が目に見える世界なのかもしれない。

「森の調和を乱す者は、あなたですか?」

凛とした声に振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。亜麻色の髪を長く伸ばし、木の蔓で編んだような簡素な服をまとっている。彼女の瞳は、森の奥にある湖のように深く、静かな光を宿していた。

「僕は、相沢響。気づいたらここに……。君は?」

「私はリーナ。この『調律の森』の番人です」

リーナと名乗る少女は、僕が迷い込んだこの世界について教えてくれた。ここは、あらゆる事象が「音」によって成り立っている世界。風の音、水のせせらぎ、木々のざわめき、そのすべてが調和し、世界を維持しているのだという。そして彼女は、その調和が乱れないよう、森の音を「調律」する役目を担っているらしかった。

「最近、森のどこかから不快な不協和音が生じ、木々が枯れ始めているのです。あなたからは、その不協和音と同じ匂いがします」

彼女の言葉に、僕は自分の世界の古いピアノを思い出した。僕をここに導いたあの美しい音色は、この森の音だったのか。そして、僕が感じていた不快な唸りこそが、彼女の言う不協 fauteuil.

「手伝わせてくれないか」僕は思わず口にしていた。「僕も、調律師なんだ。音を聞き分けることには、少しだけ自信がある」

リーナは驚いたように目を見開いたが、やがて静かに頷いた。僕たちは共に森を歩き始めた。リーナが指さす場所の音に耳を澄ます。それは、微かな歪みだった。本来ならソの音であるべき光の粒が、ほんの少しだけ低い。僕はポケットに入れていたチューニングハンマー(何故か一緒に転移していた)を取り出し、おそるおそる、光る木の枝に触れた。まるでピアノの弦を調律するように、意識を集中させる。

すると、僕の意を汲んだかのように、木の枝の光が揺らめき、正しい音階を奏で始めた。不協和音が消え、心地よいハーモニーが森に満ちる。

「すごい……。こんなに正確に音を捉えるなんて」リーナが感嘆の声を漏らした。

「君こそ。森全体の音を一人で聞いているんだろう?すごい集中力だ」

僕たちは互いに微笑み合った。誰かに自分の能力を認められたのは、いつ以来だろう。挫折感に苛まれ、呪いとまで思ったこの耳が、ここでは誰かの役に立つ。その事実は、僕の凍てついた心を少しずつ溶かしていった。リーナと共に森の音を調律する日々は、僕にとって失われた時間を取り戻すような、穏やかで満たされた時間だった。

第三章 僕が奏でる絶望のフーガ

森の調和は、しかし、長くは続かなかった。僕たちが一ヶ所の不協和音を正しても、また別の場所から、さらに強い不協和音が生まれる。それはまるで、僕たちの努力を嘲笑うかのようだった。森の奥深くに進むにつれ、枯れた木々は増え、光の粒は弱々しくなり、空気は重く澱んでいった。

そして、僕たちは森の中心にある泉にたどり着いた。そこが、不協和音の源だった。泉の水は黒く濁り、水面からはヘドロのような泡が、呻き声のような音を立てて弾けている。その音を聞いた瞬間、僕は全身に激痛が走るのを感じた。

「ぐっ……あぁっ!」

頭を抱えてうずくまる僕の脳裏に、忘れたはずの光景が蘇る。コンクールの眩い照明。審査員の冷たい視線。そして、僕の指から生まれ落ちた、致命的なミスタッチの音。聴衆の失望のため息。ピアノから逃げ出した僕を責める、師の言葉。完璧でなければ価値がない、お前は失敗作だ、という幻聴。

「響!しっかりして!」

リーナの叫び声で、僕はかろうじて我に返った。だが、僕が苦しむのに呼応するように、黒い泉の不協和音はさらに増幅していく。

その時、僕は悟ってしまった。この悍ましい不協和音の正体を。

「……僕だ」僕は震える声で言った。「この音は、僕の心の中から生まれている」

僕がピアノに感じていた絶望。完璧を求めるあまりに自分を追い詰めた憎悪。夢破れたことへの後悔。それらすべての負の感情が、この世界に流れ込み、音となり、森を蝕んでいたのだ。僕が森を救おうと調律すればするほど、僕の存在そのものが、新たな不協和音を生み出していた。なんという皮肉だろう。

リーナは悲しげに瞳を伏せた。「気づいてしまったのですね。あなたを元の世界に還すことだけが、森を救う唯一の方法です。あなたという『音』が、この世界から消えれば、不協和音も止まるはず」

彼女の言葉は、僕の胸に鋭く突き刺さった。元の世界に還る?あの色褪せた、絶望に満ちた日常に?リーナと別れて、一人で?

「嫌だ」僕は叫んだ。「還りたくない!ここにいたい!君と一緒に、この森の音を守りたいんだ!」

僕の叫びは、そのまま絶望の音となり、泉から黒い飛沫を噴き上げた。森全体が悲鳴を上げるように軋む。リーナは僕の前に立ち、両腕を広げて庇うように言った。

「響、あなたの気持ちは嬉しい。でも、あなたのその想いが、森をさらに苦しめている。お願い、行って」

「どうしてだよ!僕がここにいちゃいけないのか!」

「違う!でも、今のあなたのままでは……」

彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙は青い光の結晶となり、カラン、と寂しい音を立てて地面に砕けた。それを見た瞬間、僕はすべてを理解した。彼女は僕を拒絶しているのではない。僕と、そして彼女自身が愛するこの森を守るために、最も辛い選択をしようとしているのだ。

僕がここにいる限り、森は死ぬ。僕が森を愛すれば愛するほど、その死は早まる。僕の存在そのものが、この世界の呪いだったのだ。

第四章 未来へ響く序曲

絶望の淵で、僕は自分の両手を見つめた。かつて夢を奏でた指。そして、夢を壊した指。この指は、不協和音しか生み出せないのか?

いや、違う。リーナが教えてくれたじゃないか。音は調律できる、と。

ならば、僕が調律すべきは、森の音ではない。僕自身の心、そのものだ。

「リーナ、少しだけ時間をくれないか」

僕は覚悟を決めて顔を上げた。そして、黒く濁った泉の前に、静かに座った。目を閉じ、意識を自分の内側へと深く沈めていく。そこには、僕が目を背け続けてきた醜い感情が、不協和音の嵐となって渦巻いていた。失敗への恐怖。他人への嫉妬。自分への嫌悪。

逃げるのはもうやめだ。僕はその一つ一つの音に、真正面から向き合った。チューニングハンマーを握るように、心の耳を澄ませる。

――完璧でなくてもいい。

――間違えてもいい。

――その痛みも、苦しみも、すべてがお前の音なんだ。

不協和音を消し去るのではない。抑えつけるのでもない。受け入れるのだ。歪んだ音も、濁った音も、すべて僕自身の一部として。そして、それらすべてが重なり合った時、初めて生まれる響きがあるはずだ。僕だけの、音楽が。

僕がそう覚悟を決めた瞬間、心の中の嵐が、ふっと静まった。そして、無数の不協和音の中から、か細くも美しい、一本の旋律が立ち上ってきた。それは悲しみの音色であり、後悔の響きであり、それでもなお、未来への希望を奏でる音だった。

僕がゆっくりと目を開けると、黒い泉は元の澄み切った輝きを取り戻していた。濁りは消え、水面からは生命力に満ちた、暖かなハーモニーが生まれている。森の木々は再び光を放ち始め、僕たちを祝福するように、優しい風の音が頬を撫でた。

「……君が、君自身の音を、調律したのね」リーナが、涙の滲んだ笑顔で囁いた。

僕の役目は終わった。森は救われたのだ。そして、それは別れの時が来たことを意味していた。僕の身体が、足元から少しずつ透き通り始めている。

「リーナ、ありがとう。君のおかげで、僕はもう一度、音楽を愛せるようになった」

「私こそ。響、あなたの音は、私がこの森で永遠に奏で続けるから」

彼女はそっと僕の手に触れた。その温もりを感じたのが最後だった。視界が再び光に包まれ、僕は意識を失った。

気づけば、僕は工房の古いピアノに突っ伏していた。窓の外は、白み始めている。夢だったのだろうか。しかし、僕の心は、かつてないほどの静けさと充実感に満たされていた。

僕はゆっくりと立ち上がり、ピアノの鍵盤に指を置いた。そして、森で聴いたあの旋律を、僕自身の音を、奏で始めた。それは完璧な演奏ではなかったかもしれない。けれど、そこには僕のすべての感情が溶け込んでいた。痛みも、喜びも、そしてリーナへの感謝も。僕の指から生まれた音楽は、工房を満たし、夜明けの光と共にどこまでも響き渡っていくようだった。

ふと、鼻腔をくすぐる微かな香りに気づく。それは、深い森の土と、雨上がりの苔の匂いだった。ピアノの鍵盤の隙間から、あの調律の森の香りがしていた。

夢じゃなかった。僕は一人じゃない。

僕はそっと微笑み、未来へと続く僕だけの序曲を、奏で続けた。その音色は、きっとどこかで森を守る彼女にも届いていると、信じながら。

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