情動結晶のレクイエム

情動結晶のレクイエム

0 6274 文字 読了目安: 約13分
文字サイズ:

第一章 感情の欠片

アスファルトに叩きつけられる寸前、水瀬湊(みなせ みなと)が最後に見たのは、無感動な灰色の空だった。トラックのクラクション、誰かの悲鳴、そして唐突な静寂。大学の講義をサボり、目的もなく彷徨っていただけの、ありふれた一日が終わるはずだった。

次に目を開けた時、湊は柔らかな苔の上に横たわっていた。肺を満たすのは、雨上がりの森のような濃密な空気。見上げれば、空には二つの月が浮かび、紫と翠の光が絡み合いながら地上を照らしている。知らない запах(匂い)、知らない響き、知らない光景。明らかに、そこは湊の知る世界ではなかった。

混乱する頭で身を起こすと、胸のあたりに微かな温かさを感じた。シャツの胸ポケットを探ると、硬質な何かが指に触れる。取り出してみて、湊は息をのんだ。それは、手のひらに収まるほどの、淡い桜色をした結晶だった。内側からぼんやりと光を放ち、触れると心臓の鼓動と共鳴するように、かすかに脈打っている。万華鏡のように複雑なカットが施されているわけでもないのに、見る角度によって幾重にも表情を変える。それは、湊がこれまでの人生で見たどんな宝石よりも美しかった。

「……なんだ、これ」

呟いた瞬間、足元の草むらがカサリと音を立てた。警戒して身構えると、そこに立っていたのは、亜麻色の髪を三つ編みにした、大きな瞳の少女だった。獣の皮を鞣したような簡素な服を着ているが、その佇まいは洗練されている。

「あなた、旅の人? 大丈夫?」

少女は驚いたように目を見開いた後、心配そうに駆け寄ってきた。その視線が、湊の持つ桜色の結晶に注がれる。

「まあ……なんて綺麗な『喜び』の結晶。しかも、こんなに純度が高いなんて」

「喜び……?」

意味が分からず問い返すと、少女はきょとんとした顔で湊を見つめた。

「ええ。心が満たされたり、嬉しかったりすると生まれるでしょう? あなたが今、目覚めて、生きていることに安堵した……その感情が形になったのよ」

少女はエリアナと名乗った。彼女の説明は、湊の常識を根底から覆すものだった。この世界『エクリシア』では、人の感情は『情動結晶』と呼ばれる物理的な実体となって体外に現れるのだという。喜び、悲しみ、怒り、驚き――あらゆる感情が、それぞれ異なる色と輝きを持つ結晶となる。そして人々は、その結晶を貨幣のように使い、燃料として街の灯りを灯し、時には砕いて飲み物に入れ、その感情の余韻を嗜むのだと。

「でも、僕の世界ではそんなこと……」

「あなたの世界? ああ、あなたは『迷い人』なのね」

エリアナは納得したように頷いた。ごく稀に、湊のように別の世界から迷い込む者がいるらしい。彼女は湊を自分の住む街へ案内すると言って、手を差し伸べた。

無気力な日常だった。大学の授業は退屈で、友人との会話も上滑りしているように感じられた。何かに夢中になることも、心を震わせることもなく、ただ時間が過ぎるのを待っているだけ。そんな空っぽだった自分が、こんなにも美しいものを生み出せる。その事実が、湊の胸に不思議な熱を灯した。エリアナに導かれて歩き出すと、今度は足元に、小さな琥珀色の結晶が一つ、ぽとりと生まれた。

「これは『好奇心』ね。素敵だわ」

エリアナが微笑む。その笑顔を見て、湊の胸ポケットで桜色の結晶がまた一つ、静かに形を結んだ。自分の心が、初めて誰かの役に立っている。その実感が、湊の中で何かが変わり始める予感をさせていた。

第二章 希望の神木

エリアナが住む街『ルミナ』は、巨大な結晶質の岩盤の上に築かれていた。家々は白く輝く石で造られ、街路には様々な色の情動結晶をはめ込んだランプが、幻想的な光を投げかけている。人々は湊を『稀人(まれびと)』と呼び、物珍しそうにしながらも温かく迎え入れてくれた。

湊の特異性はすぐに街の知るところとなった。彼が生み出す結晶は、この世界の住人のものとは比べ物にならないほど大きく、純度が高かったのだ。特に、湊が無邪気な子供たちと遊んだ時にこぼれ落ちる『喜び』の結晶や、エリアナが語るエクリシアの歴史に耳を傾ける時に生まれる『驚嘆』の結晶は、街のエネルギー炉を何日も満たすほどの力を持っていた。

「ミナト、君はすごいよ! 君のおかげで、この冬はみんな凍えずに済みそうだ」

パン屋の主人が、焼きたてのパンを差し出しながら屈託なく笑う。湊は照れながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。その温もりは、やがて陽だまりのような色の結晶となって、彼の足元に輝きを生んだ。人々はそれを拾い上げ、感謝の言葉を口にする。

感情を表現することが苦手だった。嬉しいと思っても、どう笑えばいいか分からなかった。悲しいと感じても、涙は出てこなかった。しかし、この世界では、彼の心は隠しようもなく形となって現れる。そして、それが誰かを笑顔にする。湊は生まれて初めて、自分の存在が肯定されているという確かな手応えを感じていた。

そんなある日、エリアナは深刻な顔で湊を街の中心にある広場へ連れて行った。そこには、天を衝くほど巨大な、しかし葉の一枚もつけていない枯れ木がそびえ立っていた。

「これは『神木』。ルミナの始まりから、この街を守ってきた存在なの。でも、もう何十年も前に枯れてしまって……」

神木は、人々の『希望』の結晶を糧にしていたのだという。しかし、厳しい環境と繰り返される厄災の中で、人々は希望を抱くことを忘れ、神木は力を失ってしまったのだと、エリアナは寂しそうに語った。

湊は枯れ果てた神木を見上げた。この街に来て、たくさんの優しさをもらった。エリアナの笑顔、パン屋の主人の温かさ、子供たちの笑い声。彼らにとって、この神木がどれほど大切な存在だったか、痛いほど伝わってくる。

「僕に、何かできるかな」

湊は神木の根元にそっと触れた。そして、目を閉じて、強く、強く願った。この優しい人々が、この美しい街が、これからもずっと続いてほしい。エリアナがもう二度と、あんなに悲しい顔をしなくてすむように。

心の底から湧き上がる、純粋で力強い祈り。それは、これまでの人生で感じたことのないほど強烈な感情の奔流だった。目を開けると、彼の両手の中から、眩いばかりの純白の光が溢れ出ていた。それは一つの巨大な結晶となり、まるで小さな太陽のように輝きながら、ゆっくりと神木の幹に吸い込まれていった。

奇跡が起きた。乾ききっていた樹皮に瑞々しい光が走り、固く閉ざされていた枝の先から、小さな緑の芽が一斉に顔を出す。広場にいた人々から、わっと歓声が上がった。エリアナは涙を浮かべ、湊の手を固く握りしめた。

「ありがとう、ミナト……! ありがとう……!」

人々の歓喜と感謝が、新たな結晶となって広場に降り注ぐ。色とりどりの光が乱舞する様は、まるで祝福の吹雪のようだった。湊は、込み上げる達成感と幸福感に包まれながら、確信していた。ここが自分の居場所だ。この世界のために、自分のすべてを捧げよう、と。

第三章 魂を喰らうもの

神木が復活して以来、街はかつてないほどの活気に満ちていた。数日後に開かれる『再生祭』に向けて、誰もが浮き足立っている。祭りの主役はもちろん湊だった。彼はこの街の救世主であり、希望の象徴だった。

祭りの当日、湊は広場の中心に設けられた壇上にいた。エリアナが隣で微笑んでいる。これから湊は、感謝と祝福の気持ちを込めて、過去最大級の『幸福』の結晶を生み出すことになっていた。集まった人々の期待に満ちた眼差しが、心地よいプレッシャーとなって湊の背中を押す。

湊は深呼吸し、心を集中させた。この街での日々を思い返す。エリアナとの出会い、人々の優しさ、神木の復活。一つ一つの思い出が、胸の中で温かい光に変わっていく。感情が高まり、全身が熱を帯びる。これまでにないほど強大な力が、体内で渦を巻くのが分かった。

「さあ――!」

力を解放しようとした、その瞬間。

激痛が、心臓を直接鷲掴みにされたかのように湊を襲った。視界が真っ赤に染まり、全身から力が抜けていく。熱は一瞬で氷のような冷たさに変わり、意識が急速に遠のいていく。人々の悲鳴が、水底から聞くようにくぐもって響いた。最後に見たのは、血の気を失い、絶望に顔を歪ませるエリアナの姿だった。

次に目覚めた時、湊は薄暗い石造りの部屋に寝かされていた。見知らぬ天井。しかし、祭りの広場ではない。体を起こそうとすると、全身に鈍い痛みが走った。

「目が覚めたか、稀人よ」

声のした方を見ると、暖炉の前に一人の老人が座っていた。顔には深い皺が刻まれ、その瞳は全てを見透かすような静けさを湛えている。街の外れに住み、人々から『忌み人』として避けられている賢者、カシムだった。

「ここは……? エリアナは?」

「あのお嬢さんなら、お前さんをここに運び込んだ後、街へ戻っていったわい。……真実を知る覚悟はできたか?」

カシムは静かに語り始めた。その内容は、湊が築き上げてきた幸福な世界を、木っ端微塵に破壊するものだった。

情動結晶は、感情そのものが形になったものではない。それは、この世界に古くから存在する、魂を喰らう微細な寄生生物『情動喰らい(アニマ・ファージ)』の排泄物だというのだ。情動喰らいは宿主の感情を糧とし、そのエネルギーを吸い尽くした後に、副産物として結晶を生み出す。結晶を生み出せば出すほど、宿主の魂は本質的な部分から削り取られていく。そして、やがては全ての感情を失い、ただ生きているだけの抜け殻になる。

「エクリシアの人間は、生まれながらにこの寄生生物と共生しておる。長い年月をかけて、魂を喰われすぎぬよう、微弱な結晶しか生み出さぬように進化した。だが、お前さんは違う。何の耐性もないお前さんの魂は、奴らにとって極上の餌だ。神木を蘇らせたあの『希望』は、お前さんの魂の、かなりの部分を喰い散らかした結果じゃよ」

湊は言葉を失った。自分の行いは、誰かを救う崇高なものではなかった。ただ、自らの魂を切り売りして、寄生生物の食べかすで偽りの奇跡を起こしていただけだった。人々が喜んだあの結晶は、自分の魂の残骸だったのだ。

「エリアナも……街のみんなも、知っていたのか……?」

「……知っていた。この世界は緩やかに滅びに向かっておる。情動喰らいが活性化し、人々の魂を蝕む速度が上がっておるのじゃ。強力な結晶を生み出すお前さんは、奴らにとって……街の滅びを先延ばしにするための、最後の希望だったのじゃろうな」

絶望が、冷たい泥のように湊の心を埋め尽くした。信じていた笑顔も、感謝の言葉も、すべてが自分を消費するための芝居だったのか。カシムは黙って、一冊の古い手記を湊に差し出した。それは、エリアナの日記だった。

『ミナトの生み出す結晶は、あまりに美しく、あまりに純粋だ。けれど、その輝きを見るたびに胸が痛む。私たちは、彼の優しさに甘え、彼の魂を食い物にしている』

『今日も彼は、子供たちのために『喜び』の結晶を生み出してくれた。子供たちの笑顔は本物だ。けれど、その笑顔の代償を考えると、私は彼に笑いかける資格などない』

『ごめんなさい、ミナト。あなたを利用している。でも、この街を見捨てることはできない。私は……最低だ』

そこに綴られていたのは、罪悪感と、街を守りたいという悲痛な願いとの間で引き裂かれる、エリアナの苦悩そのものだった。彼女は湊を騙していた。しかし、彼女もまた、逃れられない運命の中で苦しんでいたのだ。

第四章 終わりある世界で

冷たい石の床に、一筋の光が差し込んでいる。湊はカシムの家で、夜明けを迎えていた。手には、エリアナの日記が握られている。怒り、悲しみ、裏切られたという思い。しかし、それ以上に、日記に綴られた彼女の痛みが、湊の心を締め付けていた。

扉が軋む音がして、エリアナが入ってきた。その顔は憔悴しきっている。彼女は湊の前に立つと、深く、深く頭を下げた。

「……ごめんなさい」

絞り出すような声だった。

「知っていたわ。あなたが結晶を生み出すたびに、あなたの魂が削られていること。でも、言えなかった。あなたが、私たちの最後の希望だったから」

この世界は、もう長くない。情動喰らいの活動が異常に活発化し、大地は痩せ、人々は希望を失い、魂の消耗が加速している。強力な情動結晶だけが、その滅びの速度をわずかに緩めることができる唯一の手段だった。

「君を責めないよ」

湊の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

「僕はずっと、空っぽだった。何のために生きてるのか、分からなかった。でも、ここに来て、初めて誰かの役に立てる喜びを知った。君たちがくれたあの時間は、偽物じゃなかった。僕にとっては、本物だったんだ」

カシムが口を開く。「その寄生生物を殺す方法はある。お前さんの魂から完全に切り離す薬草がある。そうすれば、お前さんは二度と結晶を生み出すことはない。魂を削られることもない。だが、この世界の滅びは、もう止められなくなる」

選択肢は二つ。自分の魂を守り、この世界を見捨てるか。それとも、自らの魂が尽きるその日まで、この愛してしまった世界のために結晶を生み出し続けるか。

湊は静かに立ち上がると、エリアナの前に立った。彼女の瞳には、後悔と懇願の涙が浮かんでいる。

「僕は、選ぶよ」

湊は、空っぽだった自分の人生に意味を与えてくれたこの世界で、最後まで生きることを選んだ。だが、それは無制限に自分を犠牲にすることではなかった。

「僕はもう、求められるままに感情を垂れ流したりはしない。僕が本当に『大切だ』と感じた瞬間、僕が自分の意志で『捧げたい』と願った時にだけ、結晶を生み出す。それは、滅びを少しだけ先延ばしにするだけの、気休めかもしれない。でも、意味があるはずだ。終わりに向かう世界で、最後まで人間らしく、心を込めて生きることに」

それは、自己犠牲とは違う、成熟した覚悟の言葉だった。エリアナは、その決意に満ちた湊の瞳を見て、ただ涙を流すしかなかった。

数年後。世界は、緩やかに終わりへと向かっていた。神木の輝きは弱まり、街の灯りも以前よりは暗い。しかし、そこに絶望はなかった。人々は、限りある時間の中で、今を懸命に生きていた。

湊はエリアナと共に、ルミナの街を見下ろす丘の上にいた。空には相変わらず、紫と翠の二つの月が浮かんでいる。湊の体は以前よりも弱々しくなったが、その眼差しには、穏やかで深い光が宿っていた。

「綺麗だね」

エリアナが寄り添いながら呟く。湊は黙って頷くと、彼女の手をそっと握った。そして、胸の奥から湧き上がる、静かで、温かい感情を、ゆっくりと形にする。

彼の掌に、小さな、小さな結晶が現れた。それは夕焼けの空を溶かし込んだような、優しい橙色をしていた。

「これは、『安らぎ』の結晶だ」

湊はそう言って、微笑んだ。

それは世界を救うほどの力はない、儚い輝きだった。しかし、終わりある世界の中で、自らの意志で見つけ出した、かけがえのない魂の欠片。その小さな光は、滅びゆく世界の片隅で、誰よりも強く、確かな輝きを放っていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る