第一章 錆びついた午後の追憶
工房の空気は、古びた紙と酸化した鉄の匂いで澱んでいた。窓から差し込む午後の陽光は、空気中を舞う無数の塵を黄金色の粒子に変えていたが、作業台に向かうエレノア・ヴォルテックスにとって、それは集中を乱すノイズでしかなかった。
彼女の指先が、呼吸を止めるほどの慎重さで極小のピンセットを操る。先端が掴んでいるのは、直径二ミリにも満たない真鍮の歯車だ。これを機械式時計の心臓部、テンプの軸に滑り込ませなければならない。許される誤差はゼロ。ほんのわずかな手ぶれが、すべてを台無しにする。
額から汗が一筋、こめかみを伝って流れ落ちた。
鼓動がうるさい。ドクン、ドクンと指先の脈動にまで響き、ピンセットの先端を微かに揺らす。
「……落ち着いて」
自身に言い聞かせた瞬間だった。不意に工房の外で鳥が鋭く鳴き、エレノアの肩がびくりと跳ねた。
カシャン。
乾いた、絶望的な音が響いた。ピンセットから弾かれた歯車は、作業台の縁を叩き、床の闇へと転がり落ちていった。
エレノアの喉が引きつる。まただ。また、失敗した。
彼女は反射的に奥歯を噛み締め、思考よりも速く、脳の奥にあるスイッチを叩いた。
世界から色彩が剥落した。
視界がセピア色のモノクロームへと染まり、周囲の音が水中に沈んだようにくぐもる。エレノアの固有能力が発動したのだ。
半径十メートルの空間だけが、物理法則を無視して逆流を始める。
床の闇に消えたはずの歯車が、重力に逆らってふわりと浮き上がった。それは放物線を描いて作業台の縁へと戻り、ピンセットの先端に吸い付く直前の位置で静止する。
エレノアは目を見開いたまま、その軌道を凝視した。
歯車がどの角度で落ち、どこに当たり、床のどの板の隙間へ転がっていったか。
彼女の能力は「時間を巻き戻す」ことではない。正確には「直近の過去を視覚的に再生する」ことに過ぎない。このセピア色の世界で歯車を掴み直すことはできないのだ。現実は確定してしまっている。
できるのは、失われた物体の位置を特定することと、失敗の原因を分析することだけ。
(指の角度が浅すぎた。もっと垂直に、力は三割抜いて)
彼女は歯車が描いた軌跡を網膜に焼き付け、リハーサルを終えるように能力を解除した。
瞬きと共に色彩と音が戻ってくる。
歯車は手元にない。床の暗がり、先ほど視認した古びた板の隙間に、鈍い光を放って落ちている。
エレノアは荒い息を吐きながら床に這いつくばり、埃まみれの床板から歯車を拾い上げた。指先はまだ微かに震えている。だが、今度は迷わなかった。予習した通りの角度、力加減でピンセットを操り、カチリと微かな手応えと共に部品を定位置に嵌め込む。
成功だ。けれど、胸に湧き上がるのは達成感ではなく、泥のような自己嫌悪だった。
「……また、カンニング」
呟きは作業台の上のオイル瓶に吸い込まれた。一度きりの本番を、恐怖に震えながらなぞっているに過ぎない。この手は何も生み出していない。ただ、失敗を取り繕っているだけだ。
その時、胸ポケットの懐中時計がじわりと熱を帯びた。
エレノアは作業の手を止め、シャツ越しに胸を押さえる。熱い。まるで誰かの体温のような、生々しい熱量。
取り出した時計のガラスには、蜘蛛の巣のような無数のひびが入っている。長針と短針は永遠に「あの日」の時刻、午後三時四十二分で凍りついている。妹、リリアの形見。
エレノアが能力を使うたび、この時計は咎めるように発熱し、彼女の肌を焦がす。
『お姉ちゃん、怖がらないで』
幻聴が脳裏を掠めた。七年前、崖崩れの轟音にかき消されたはずの妹の声。
あの日、エレノアが手を伸ばすのを一瞬ためらわなければ。あるいは、もっと早く危険に気づいていれば。
後悔は鎖となって彼女を縛り付け、未来への歩みを止めていた。彼女が時計修理の仕事に固執するのも、壊れた時間を直せば、いつか自分の過ちも直せるのではないかという、身勝手な祈りに過ぎない。
ドンドンドン!
突然、工房のドアが乱暴に叩かれた。硝子窓がビリビリと震えるほどの勢いだ。
「エレノア! いるか、エレノア!」
馴染みのパン屋、トムの声だ。いつもは陽気な老人の声が、今は悲鳴のように裏返っている。
エレノアが椅子を蹴って立ち上がり、ドアを開けた瞬間、生暖かい腐臭が鼻をついた。
「トム、どうしたの……」
言葉は途中で凍りついた。
トムは何かを抱きかかえていた。フリルのついた可愛らしいピンク色のワンピース。今朝、元気に走り回っていた五歳の孫娘、アリスの服だ。
だが、その服から伸びている手足は、枯れ木のように細く、茶色いしみが浮いていた。
トムの腕の中にいたのは、アリスの服を着た、干からびた老婆だった。
「……ひっ」
エレノアは息を呑み、後ずさった。
老婆の顔には深い皺が刻まれ、眼球は白濁し、口元からは涎が垂れている。だが、その瞳の奥には、状況を理解できない幼児の怯えが残っていた。
「あ……あ……」
老婆の口から、掠れた空気の漏れる音がする。それは五歳の子供が祖父を呼ぶ声の成れの果てだった。
「広場の噴水だ」トムが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で叫んだ。「アリスがボールを追いかけて、ほんの数秒、目を離した隙に……空間が、歪んで見えたんだ。駆け寄ったら、アリスがこんな姿に!」
トムの手は震え、孫娘だったはずの老婆の体を支えきれずにいる。アリスの肌からは、急速な老化に伴う独特の枯れた匂いが漂い、工房のオイルの匂いを塗り替えていく。
エレノアの背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。
世界の均衡が崩れている。
彼女が些細な仕事のミスを確認するために時間を巻き戻した、その代償として、世界のどこかで時間の収支が合わなくなったのだとしたら? 彼女が盗み見た数秒の「過去」のつけを、この少女が数十年の「未来」として支払わされたのだとしたら?
ジジジ、ジジッ。
手の中の懐中時計が、かつてないほど激しく脈打ち始めた。熱い。火傷しそうなほどの熱が掌を焼く。
エレノアは堪らず時計を取り落としそうになり、裏蓋に刻まれた紋様が赤く明滅していることに気づいた。
発光する線は、地図を描いていた。この工房から北へ、深く暗い森を抜けた先。かつてリリアが命を落とした古の遺跡、『嘆きの断崖』を指し示している。
そして、止まっていたはずの秒針が、あり得ない動きを見せた。チチチ、と痙攣するように逆回転し、ひび割れたガラスを内側から叩いたのだ。
『来い』と、時計が告げていた。
『すべての歪みの始まりへ』
エレノアは震える拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込む鋭い痛みだけが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。
「……トム、アリスをベッドへ。私が、なんとかする」
根拠などない。だが、これ以上逃げることは許されないのだと、焦げ付く掌が教えていた。
第二章 歪んだ天秤の巡礼
『嘆きの断崖』への道のりは、狂った季節のパッチワークを歩くようだった。
道中の森は、常識的な生態系を完全に逸脱していた。右側の樫の木は瑞々しい新緑の若葉を茂らせているのに、左側の並木は枯れ果て、幹には白い茸がびっしりと生え、指で触れれば崩れ落ちるほど朽ちている。足元の草花に至っては、蕾から開花、結実、そして枯死までのサイクルを数秒ごとに繰り返し、まるで早送りの映像を見ているような目眩を誘う。
エレノアは外套のフードを目深に被り、ひび割れた懐中時計をコンパス代わりに進んだ。時計の振動は、断崖に近づくにつれて激しさを増し、心臓の鼓動と不快なシンクロを始めていた。
「ハァ、ハァ……」
息が白い。と思えば、次の瞬間にはじっとりと汗ばむ熱気に包まれる。気温さえもが数メートルごとに乱高下していた。
森の中腹、かつて交易路として使われていた石造りの橋に差し掛かった時だった。
谷底には激流が渦を巻いている。橋は古いが、まだ渡れそうに見えた。エレノアは意を決して石畳に足を乗せた。
一歩、二歩。
橋の中央付近まで進んだ時、足元からミシミシという異音が響いた。
石が鳴いているのではない。石が「老いて」いるのだ。
エレノアが見下ろすと、踏みしめた石畳が急速に風化し、苔むし、ひび割れていくのが見えた。時間の急流が橋を直撃していた。
「っ!」
彼女が駆け出した瞬間、後ろの石畳が砂となって崩れ落ちた。
走る。走るたびに、足をついた場所から橋が灰のように崩壊していく。
あともう少し。対岸の土が見える。だが、最後のアーチが音を立てて砕けた。
エレノアは跳んだ。
空中で体が浮遊する一瞬が、永遠のように感じられた。
ドサッ。
対岸の泥に無様に転がり込む。背後で轟音が響き、数百年の歴史を持つ石橋が、わずか数秒で塵となって谷底へ消えていくのを、彼女は肩で息をしながら見送った。
休む暇はなかった。森の奥から、低く唸るような獣の声が聞こえたからだ。
茂みを割って現れたのは、巨大な狼だった。だが、その姿はおぞましかった。半身は幼体のように毛並みが柔らかく、もう半身は骨が浮き出るほど痩せこけ、毛が抜け落ちている。
時間の歪みに蝕まれた獣は、狂った眼光でエレノアを睨みつけた。
襲いかかってくる。
その動きは不自然極まりなかった。コマ送りのようにカクカクと動き、次の瞬間には目の前へ瞬間移動している。
避けられない。
エレノアは反射的に能力を発動させた。
セピア色の世界。狼が飛びかかってくる軌道が見える。右へ。いや、空中で軌道を変えて左へ。
彼女は獣の爪が喉元を切り裂く未来を網膜に焼き付け、能力を解除した。
現実に戻った瞬間、彼女は泥にまみれながら左へ転がった。
風を切る音。狼の爪が、先ほどまで彼女の首があった空間を空しく薙ぎ払う。
「ガアッ!」
獣がバランスを崩した隙に、エレノアは泥を掴んでその目に投げつけ、全速力で斜面を駆け上がった。
肺が焼けつくように熱い。能力を使うたびに、懐中時計の熱が胸を焦がし、体力がごっそりと削ぎ落とされていく感覚がある。まるで自分の寿命を前借りして走っているようだ。
どれほど走っただろうか。
森が唐突に開け、冷たい風が吹き抜けた。
『嘆きの断崖』。
かつて古代文明が時を観測するために築いたとされる塔の残骸が、荒涼とした崖っぷちに墓標のようにそびえ立っている。
そこは、世界の終わりのような静寂に包まれていた。
空の色は紫色に澱み、雲は渦を巻いて静止している。重力が曖昧になり、大小様々な岩の破片が空中に静止して浮かんでいた。
エレノアは膝をつきそうになるのを堪え、断崖の縁へと歩を進めた。
あの日、リリアが落ちた場所。
懐中時計の針が狂ったように回転を始め、ガラスのひび割れがさらに広がる。ミシミシと音を立てて、今にも砕け散りそうだ。
「……見せて。本当のことを」
エレノアは恐怖をねじ伏せ、能力を解放した。
これまでの「十メートル以内、直近の過去」というリミッターを外す。この場所は時が壊れている。今の彼女なら、この場の残留思念と空間の歪みを利用して、あの日、あの瞬間の真実にダイブできるはずだ。
視界が溶け出し、現在と過去の境界が崩壊する。
エレノアの意識は肉体を離れ、七年前の雨の日へと引きずり込まれていった。
第三章 『時』を殺すための愛
雨の匂い。泥の感触。
鼓膜を叩く豪雨の音が、鮮烈に蘇る。
エレノアは息を潜め、断崖の岩陰に身を隠していた。いや、正確には「過去の光景」の中の岩陰に、現在の彼女の意識が同調しているのだ。
目の前には、七年前の自分がいた。まだ幼さが残る顔で、必死に崖下を覗き込んでいる。
「リリア! どこ!?」
過去の自分の叫び声が、風にかき消されていく。
だが、今のエレノアが見ているのは、そこではない。
崖の少し下、突き出た岩棚の上だ。そこに、妹のリリアがいた。
彼女は一人ではなかった。
リリアの向かいに、黒いフードを目深に被った人影が立っている。
(誰……?)
エレノアは目を凝らした。あの嵐の日、現場に第三者がいた記憶などない。
稲妻が閃き、一瞬だけ闇を切り裂く。
その光の中で、フードの人物が顔を上げた。
エレノアは呼吸を忘れた。心臓が凍りついたように止まる。
その顔は、成長したリリアそのものだった。
だが、その相貌はあまりに凄惨だった。右半身は赤黒いケロイド状の火傷で爛れ、片目は白濁して潰れている。残った左目には、老人のような深い絶望と、鋼のような冷たい決意が宿っていた。
未来から来たリリア。
それが意味することを理解するより早く、二人のリリアの会話が、雨音を縫ってエレノアの耳に届いた。
「……だから、ここで終わらせなきゃいけないの」
傷だらけの未来のリリアが、静かな声で言った。その手には凶器も何も握られていない。ただ、悲しげに過去の自分を見つめている。
「お姉ちゃんは、私が事故で死ねば、一生自分を責める。私が生き残れば、私のために世界を巻き戻そうとして、やがて『時間蝕』ですべてを壊してしまう。未来は地獄だったわ。空が落ちて、誰も死ねない世界」
七年前のリリア――まだあどけない少女のリリアが、蒼白な顔で頷く。
「私がお姉ちゃんを、怪物にするのね」
「ええ。だから、呪いをかけるの」
未来のリリアは、少女の頬に、火傷でただれた手をそっと添えた。
「お姉ちゃんに、二度と時間を操作させないための、重い楔を。私を救えなかったという絶望だけが、お姉ちゃんを『普通の人間』に留めておける」
エレノアは口元を手で覆った。吐き気が込み上げる。
妹の死は、事故ではなかった。
誰かに殺されたのでもなかった。
未来の破滅を防ぐため、姉である自分に「取り返しのつかないトラウマ」を植え付けるための、同意の上の自殺だったのだ。
「分かった」
少女のリリアが、震える声で答えた。
「お姉ちゃんが、誰も傷つけない世界で生きられるなら」
彼女は微笑んだ。雨に濡れたその笑顔は、聖女のように美しく、そして残酷だった。
直後、崖の上から「リリア!」と叫ぶ過去のエレノアの声が響いた。
少女のリリアは、未来の自分に背を向け、崖の縁へと歩み寄る。そして、差し出された姉の手を、わざと掴み損ねるような動作で避けた。
彼女は自ら、虚空へと身を投げたのだ。
「いやあああぁぁぁっ!」
現在のエレノアの絶叫が、時空の狭間に木霊する。
嘘だ。そんな献身があっていいはずがない。
私のために死んだ? 私を正しい道に縛り付けるために、あんな冷たい谷底へ?
未来のリリアが、岩陰に隠れる現在のエレノアの方を振り向いた気がした。
その唇が動く。
『ごめんね。愛してる』
視界が明滅し、ガラスが砕けるような音が世界を満たす。
耐えきれなくなった空間が悲鳴を上げ、エレノアの意識は強制的に『嘆きの断崖』の現実へと弾き飛ばされた。
第四章 ひび割れた秒針の先へ
現実に戻ったエレノアは、硬い岩盤の上に倒れ込んでいた。
涙で視界が歪んでいる。だが、泣いている場合ではなかった。
彼女が真実に触れてしまったことで、この場所の時間の歪みが限界点を超えたのだ。
ゴゴゴゴゴ……と地鳴りが響き、紫色の空に巨大な亀裂が走る。そこから歯車のような幾何学模様の光が溢れ出し、世界を塗りつぶそうとしていた。
ガシャッ!
エレノアの手の中で、懐中時計がついに粉々に砕け散った。
中から飛び出したのは、小さな、銀色の鍵だった。
妹が、最期の瞬間に時計の中に隠した、未来へのパスポート。あるいは、姉の能力を封印するための最後の安全装置。
目の前の空間が裂け、黒い渦が現れる。
それは彼女自身の能力の具現化であり、甘美な誘惑の入り口でもあった。
渦の奥に、リリアの手が見えた。
七年前のあの日、掴めなかった手が、今なら届く距離にある。
『お姉ちゃん、こっちへ来て』
幻聴が囁く。この渦に飛び込めば、全てをやり直せる。リリアを説得し、死なせない未来を選べるかもしれない。
だが、その先にあるのは、未来のリリアが語った「誰も死ねない地獄」だ。
一方で、エレノアの足元の岩盤は、急速に砂となって崩れ始めていた。
現実世界が消滅しようとしている。
トムの孫娘、アリスのしわがれた顔が脳裏をよぎる。彼女を救うには、この歪みを正すしかない。
右には、妹を取り戻せる過去への扉。
左には、崩れゆく現実と、罪のない人々の命。
「う、うぅ……っ!」
エレノアは右手を伸ばした。リリアの手を掴みたい。あの温もりにもう一度触れたい。その衝動だけで、指先が黒い渦へと吸い寄せられていく。
あと数センチ。指が触れれば、もう戻れない。
だが、その直前で、彼女の左手が猛然と右腕を掴んだ。
爪が肉に食い込み、血が滲む。
「だめだ……!」
彼女は血を流す腕を、無理やり引き戻した。
リリアは、私が「未来」を生きることを願って命を賭した。その想いを、過去への執着で踏みにじることなど、できるはずがない。
エレノアは震える手で、砕けた時計から落ちた銀の鍵を拾い上げた。
鍵穴などない。だが、直感で分かった。これは空間に使うものではない。自分自身に使うものだ。
「私は、進む!」
叫びと共に、エレノアは銀の鍵を、自身の左胸、心臓の真上へと力一杯突き立てた。
肉を貫く鈍い音。
激痛が走った。だが、それは肉体の痛みであると同時に、魂の一部をもぎ取られるような喪失の痛みだった。
体内で何かが弾け飛ぶ。
時間を粒として捉える感覚、世界を巻き戻せるという全能感、それらが血と共にドロドロと流れ出ていく。
直後、黒い渦が収縮し、断末魔のような閃光を放って炸裂した。
視界が白一色に塗りつぶされる。
エレノアは吹き飛ばされながら、最後の瞬間に見た。渦の奥のリリアが、満足げに微笑んで手を振り、闇の彼方へと消えていくのを。
光が収まった時、そこに立っていたのは、ただの時計師の娘だった。
空の亀裂は塞がり、紫色の澱みは消え失せ、澄み渡るような青空が広がっている。
浮遊していた岩は重力に従って地面に落ち、歪んでいた森の木々も、あるべき姿に戻っていた。
風が吹いている。普通の、少し冷たい午後の風だ。
エレノアの手の中で、砕けた懐中時計の残骸は完全に沈黙していた。もう二度と震えることも、光ることもないだろう。
それはただの、壊れたガラクタになった。
だが、エレノアはその冷たい金属片を、愛おしげに握りしめた。
「さようなら、リリア」
涙は枯れ果てていた。その代わり、胸の奥に静かで力強い灯火が灯っていた。
失ったものは大きい。能力も、妹の形見も、過去への道も。
だが、手に入れたものがある。
確定した「現在」という足場だ。
エレノアは断崖の縁に背を向け、一歩を踏み出した。
工房へ帰ろう。
トムに謝りに行こう。アリスは元の姿に戻っているだろうか。彼女のために、最高のからくり時計を作ってあげよう。
明日の天気は分からない。次に落とす歯車は、もう戻ってこない。
失敗すれば叱られるだろう。傷つき、傷つけられるかもしれない。
それでも、この修正の効かない「一度きりの時間」は、何よりも鮮やかで、残酷なほどに美しい。
エレノア・ヴォルテックスは、二度と振り返らなかった。
彼女の足跡は、乾いた土の上に、確かな今を刻み続けていた。