記憶の質屋

記憶の質屋

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第一章 純度の高い哀しみ

橘蓮(たちばな れん)の日常は、他人のための追憶を切り売りすることで成り立っていた。

裏路地の雑居ビル、その三階。看板もないドアを開けると、古書の匂いと微かなオゾンの香りが混じり合う。ここが、非合法の記憶売買ブローカー「夕凪堂」だ。蓮は、ここで最も腕のいい「ドナー」として知られていた。

「今回の『記憶』も素晴らしい純度だ、橘さん」

痩身の店主が、ヘッドギアから伸びるケーブルを外しながら感嘆の声を漏らす。蓮の側頭部に貼られた冷却ジェルがひやりと冷たい。つい先ほどまで、蓮の頭の中にあったはずの『初めて自転車に乗れた日の、夏の終わりの夕焼け』は、今や指先ほどの大きさのクリスタルチップに封入され、淡い茜色に明滅していた。

「買い手は?」

「すぐに。あなたの記憶は、いつも高く売れる。まるで本人が体験したかのような没入感だと評判でね。特に、幸福な記憶よりも、こういう……少し切ない、哀しみを帯びた記憶が人気なんだ」

そう、蓮の記憶はなぜか高値がついた。彼自身にも理由は分からない。ただ、幼い頃から、他の人より鮮明に物事を記憶するきらいはあった。風の匂い、光の粒子、アスファルトに染みた雨の味。それらが、まるで昨日体験したかのように生々しく脳裏に蘇る。その感覚を切り離して金に換える行為は、魂の一部を削り取られるような、鈍い痛みを伴った。それでも、彼はやめられなかった。現実の生活は、追憶の中よりもずっと色褪せて見えたからだ。

その日、蓮が夕凪堂を後にしようとした時、店主が引き止めた。

「橘さん、特別な依頼が来ている」

「特別?」

「ある御仁が、あなたの記憶を指名で買いたいと。それも、破格の値段で」

店の奥、年代物の革張りのソファに、一人の老人が座っていた。上質なツイードのジャケットを着こなし、銀髪を綺麗に撫でつけたその男は、静かな威厳を漂わせていた。伊集院と名乗った老人は、深い皺の刻まれた目元で、じっと蓮を見つめた。

「橘蓮さん。あなたの記憶を、一つ、譲っていただきたい」

その声は、穏やかだが有無を言わせぬ響きを持っていた。

「どのような記憶を?」

蓮が尋ねると、老人は一瞬だけ目を伏せ、そして、はっきりと告げた。

「あなたの亡き妻、美咲さんと過ごした、最後のクリスマスの夜の記憶を」

蓮の心臓が、氷水で満たされたかのように凍りついた。

美咲。五年前に病で失った、最愛の妻。彼女との記憶は、蓮がこの色褪せた世界で生きていくための唯一の光だった。それを売るなど、考えたこともない。数多の記憶を切り売りしてきた蓮が、決して手放すことのなかった聖域。

「……お断りします」蓮の声は震えていた。「それだけは、誰にも渡せない」

「無論、タダでとは言いません。あなたが一生、働かずとも暮らしていけるだけの金額をお支払いしましょう」

「金の問題じゃない!」

思わず声を荒らげた蓮を、伊集院は哀れむような、それでいて何かを見透かすような目で見つめ続けた。

「なぜ……なぜ、その記憶を?あなたは一体、何者なんですか」

「いずれ分かります」老人は静かに立ち上がった。「気持ちが変わったら、連絡をください。私は、いつまでもお待ちしています」

伊集院が去った後も、蓮はその場から動けなかった。なぜ、見ず知らずの老人が美咲の名前を知っている?なぜ、数ある思い出の中から、よりにもよってあの夜を?謎と不審が、蓮の心を黒い霧のように覆い尽くしていった。

第二章 褪せた写真の謎

伊集院の訪問は、蓮の心に大きな波紋を広げた。彼はしばらく記憶を売ることをやめ、自らの過去と向き合うことにした。美咲との思い出。それは、蓮にとって絶対的な真実であり、揺るぎない幸福の証だった。

彼は実家の押し入れの奥から、古い段ボール箱を引っ張り出した。アルバムが何冊も入っている。一つ一つ、ページをめくっていく。幼い頃の自分、学生時代の友人たち、両親の若い頃の姿。だが、いくら探しても、そこに美咲の写真は一枚もなかった。

おかしい。結婚式の写真も、新婚旅行で訪れた海辺でのスナップも、確かにあるはずだった。美咲の、あの太陽のような笑顔が、そこにあるはずだったのだ。記憶の中では、彼女はすぐ隣で笑っている。風に揺れる黒髪の感触も、日焼け止めの甘い香りも、昨日のことのように思い出せるのに。

焦燥感に駆られ、彼は家中を探し回った。引き出しの奥、戸棚の裏、本棚の隙間。だが、美咲が存在したという物理的な証拠は、どこにも見当たらない。まるで、彼女が最初からこの世界にいなかったかのように。

混乱した蓮は、再び夕凪堂を訪れた。

「店主、俺の記憶のことで聞きたいことがある」

店主は、蓮の切羽詰まった様子に少し驚きながらも、カウンターの向こうで頷いた。

「俺の記憶は、なぜそんなに純度が高いんだ?なぜ、他のドナーとは違う?」

店主は少し躊躇った後、重い口を開いた。

「……あなたは、『共鳴者(レゾネーター)』だからですよ」

「共鳴者?」

「ごく稀に存在する、特殊な体質を持つ人間です。他人の強い感情や記憶に、ラジオが電波を拾うように同調し、自分の体験として脳内に取り込んでしまう。あなたが見てきた鮮やかな風景や、感じてきた深い感情は……ひょっとすると、あなた自身の体験ではないのかもしれない」

店主の言葉が、ハンマーのように蓮の頭を殴りつけた。

そんな馬鹿なことがあるか。美咲との日々は、確かに俺が過ごしたものだ。彼女の温もりも、悲しみも、喜びも、この身に刻まれている。

「じゃあ、伊集院という老人は……」

「おそらく、あなたの記憶の『本当の持ち主』の一人なのでしょう」

店主は、一枚の古い新聞記事のコピーを差し出した。五年前の冬、高速道路で起きた多重衝突事故の記事だった。死亡者一名、重傷者一名。その重傷者の名前の欄に、蓮は見覚えのある文字を見つけた。

『伊集院 浩介』

蓮の全身から血の気が引いていく。その隣には、死亡者の名前。

『伊集院 美咲』

蓮は、記事の日付を見て絶句した。それは、彼が「自分の妻」美咲を病で亡くしたと記憶している日と、寸分違わぬ日付だった。

第三章 空っぽの器

頭が真っ白になった。世界が足元から崩れ落ちていく感覚。蓮が今まで「自分自身」だと思っていたものの輪郭が、音を立てて溶けていく。

美咲との思い出。

初めて出会った大学の図書館。雨宿りしたバス停。プロポーズした丘の上の公園。病室で、か細い手で蓮の手を握りしめ、静かに息を引き取った最期の瞬間。その全てが、色鮮やかな映画のように脳裏を駆け巡る。だが、それは全て、他人の記憶だったというのか。俺は、誰かの人生を盗んで生きてきたというのか。

蓮は、震える手で伊集院に連絡を取った。指定されたのは、港を見下ろす静かなカフェだった。

窓の外では、灰色の空と海が溶け合っている。そこに現れた伊集院は、以前よりも少し憔悴しているように見えた。

「……全て、あなたの記憶だったんですね」

蓮がかろうじて絞り出した声に、伊集院は静かに頷いた。

「そうだ。あの事故で、私は妻と、そして記憶の大部分を失った」

伊集院は、ぽつりぽつりと語り始めた。事故の衝撃で脳に深刻なダメージを負い、過去の記憶のほとんどを喪失したこと。リハビリを続け、断片的な記憶を取り戻そうと努力したが、最も大切だった妻・美咲との記憶だけは、深い霧の中に閉ざされたままだったこと。

「そんな時、私は『共鳴者』の存在を知った。そして、事故現場に居合わせた人間の中に、私の記憶を無意識に受信してしまった者がいるのではないかと考えた。奇跡的に、あなたを見つけ出すことができたのだ」

事故の日、蓮は偶然にもその高速道路を車で走っていた。大渋滞に巻き込まれ、救急車のサイレンが鳴り響く中、瀕死の伊集院が放った強烈な悲しみと愛の記憶を、蓮の脳は「共鳴」によって吸収してしまったのだ。

「あなたの妻、美咲さんは……」

「事故で、即死だった」伊集院の目に、深い哀しみがよぎる。「私が覚えているのは、そこまでだ。だが、君の中には、私と美咲が過ごした最後の日々の記憶が、完全な形で残っているはずだ。特に、あのクリスマスの夜……あれは、私たちが交わした最後の、そして最も美しい約束の記憶なのだ」

蓮は言葉を失った。彼が心の支えにしてきた、雪の降る夜、暖炉の前で美咲と寄り添い、来年のクリスマスも一緒に祝おうと誓い合ったあの温かな記憶。それは、伊集院が取り戻したくてたまらない、魂の欠片だったのだ。

自分は、ただの空っぽの器だった。他人の記憶で満たされた、借り物の人生を生きてきただけの人形。蓮は、自分のアイデンティティが完全に崩壊するのを感じていた。

「お願いします、橘さん」伊集院は深く頭を下げた。「私の人生を、私に返してください」

その言葉は、蓮の胸に重く、そして鋭く突き刺さった。

第四章 返還の儀式

数日後、蓮は伊集院と共に、夕凪堂の奥にある特別な部屋にいた。

記憶の「抽出」だけでなく、「転送」も可能な最新の設備が整えられている。蓮と伊集院は、向かい合わせのリクライニングチェアに座り、同じタイプのヘッドギアを装着した。

蓮の心は、恐怖と、そして奇妙な安堵感で揺れ動いていた。

美咲との記憶を失うことは、自分の半分が死ぬことに等しい。あの温もり、あの笑顔、あの声。それがなくなってしまったら、自分には何が残るのだろう。空虚な現実だけが、また目の前に広がるのだろうか。

だが同時に、この偽りの記憶から解放されたいという思いもあった。他人の人生を盗んで生きてきた罪悪感から、ようやく自由になれるのかもしれない。

「橘さん、準備はいいかね」

ヘッドギア越しに、伊集院の声が聞こえる。蓮は深く息を吸い、頷いた。

「……始めましょう」

店主がコンソールのスイッチを入れると、低いうなりと共に装置が起動した。蓮の側頭部に再び冷たいジェルが押し当てられ、意識がゆっくりと遠のいていく。

脳裏に、記憶が逆再生のように流れ始めた。

クリスマスの夜。暖炉の炎。美咲の笑顔。

プロポーズした丘。夕日に染まる彼女の横顔。

初めて出会った図書館。本の陰から見えた、真剣な眼差し。

一つ一つの記憶が、鮮やかな光の粒となって、蓮の中から吸い出されていく。それは、愛おしく、そして耐え難い痛みだった。自分の魂が、指の間からこぼれ落ちていく砂のように失われていく感覚。

『ありがとう、私を見つけてくれて』

最後に、美咲の声が聞こえた気がした。それは蓮に向けられた言葉なのか、それとも伊集院に向けられた言葉なのか。もう、分からなかった。

意識が完全に途切れる寸前、蓮は見た。向かいの椅子に座る伊集院の目から、一筋の涙が静かに流れ落ちるのを。その涙は、長い年月を経てようやく持ち主の元へ還った、幸福の涙に見えた。

第五章 夜明けの色彩

蓮が目を覚ました時、窓の外は白み始めていた。

頭の中は、まるで大掃除をした後の部屋のように、がらんとして静かだった。美咲の顔を思い出そうとしても、ぼんやりとした霧がかかったようで、はっきりと像を結ばない。あの鮮やかだったはずの感情も、今は遠い世界の出来事のように感じられた。虚無感。だが、それは予想していたような、耐え難い苦痛ではなかった。むしろ、重い荷物を下ろしたような、不思議な軽やかさがあった。

彼はゆっくりと体を起こし、窓辺に立った。

東の空が、淡い紫からオレンジ、そして燃えるような赤へと、刻一刻とその色を変えていく。夜の終わりと、新しい一日の始まりを告げる、荘厳な夜明け。

蓮は、その光景をただじっと見つめていた。

そして、気づいた。

今まで見てきたどんな夕焼けよりも、どんな星空よりも、今、目の前にあるこの何の変哲もない夜明けの光が、美しく感じられることに。

それは、誰の記憶でもない。誰かから借りた感情でもない。

空っぽになった自分が、今この瞬間に、初めて自分の五感で捉えた、ありのままの風景の色だった。

記憶は、人を形作る。だが、記憶だけがその人の全てではない。

蓮は、他人の記憶という美しい殻を失い、空っぽの器になった。だが、空っぽだからこそ、これから何でも入れることができる。自分自身の体験で、自分自身の感情で、この器を満たしていくことができるのだ。

蓮の頬を、一筋の温かいものが伝った。それは、悲しみの涙ではなかった。

これから始まる、本当の自分の人生に対する、静かな感動の涙だった。彼はもう、記憶の質屋に行くことはないだろう。追憶の中に生きるのではなく、現実の光の中で、新しい記憶を紡いでいくのだ。

空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

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