空葬のレクイエム
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空葬のレクイエム

第一章 塵を拾う男

カイの視界の端は、いつもミルクを垂らした水のように白濁していた。そのせいで、世界の輪郭は常に曖昧で、まるで古い夢のなかにいるようだった。だが、彼には他の誰にも見えないものが見えた。アスファルトのひび割れに、錆びた街灯の根元に、打ち捨てられたベンチの隅に、それらは瞬いていた。人が失くした「希望」の、微細な光の塵。

彼は指先でそっと塵を掬い上げる。ひんやりと、そしてどこか儚い感触。それを、腰に提げた古びたガラスの小瓶にそっと収めた。瓶の中では、集められた無数の塵が寄り添い、淡い銀河のように渦を巻いている。

ここは、人々が空を忘れた街。かつて誰もが鳥のように自由に大空を舞っていたという話は、もはや絵本の中の御伽噺だ。今やほとんどの人間が、見えない鎖に繋がれたように地面を歩いている。「諦め」という名の、魂に付着する小さな重りのせいだ。重りは人を地に縛りつけ、積み重なればその存在さえ希薄にしてしまう。近頃、街角からふっと人が消えることが増えた。半透明になった隣人が、ある朝、陽炎のように揺らいでいなくなる。そんな話が、乾いた風に乗って囁かれていた。

カイは瓶を揺らし、光の渦を眺めた。瓶の底には、光の届かない黒い砂が澱のように溜まっている。「諦めの残り滓」。希望を集めれば集めるほど、この黒い砂もまた増えていく。まるで光と影が分かちがたく結びついているように。なぜだろう。この奇妙な連動が、彼の胸に小さな棘となって突き刺さっていた。これは単なる心の病などではない。もっと大きな、何か巨大な「意図」がこの世界を覆っているのではないか。そんな疑念が、白濁した視界の向こうで渦巻いていた。

第二章 飛べない歌姫

黄昏時、カイは古いレンガ造りの酒場にいた。むせ返るようなアルコールの匂いと、燻製肉の香ばしい煙のなか、ステージでは一人の女性が歌っていた。リナ。かつて彼女は、天頂で最も高く舞い、その歌声を風に乗せて街中に届ける「空の歌姫」だった。しかし今、彼女の足は固く床に根を下ろし、その歌声には、地に縛り付けられた者の切ない響きが混じっていた。

カイは彼女の足元に、他の誰よりも濃く、そして重い「諦め」の気配を感じていた。だが、それと同時に、彼女の歌声の震えの合間に、ひとき見事な光の塵がこぼれ落ちるのを見た。それは、これまで彼が見たどんな希望よりも大きく、強く輝いていた。

歌い終えたリナが、カイのいるカウンター席にやってきた。

「また来たのね、塵拾いさん」

彼女の声は、少し掠れていた。

「あなたの歌が好きだから」

カイは正直に答えた。リナは力なく笑い、グラスの氷を指でかき混ぜる。その指先から、小さな光の粒が生まれ、すぐに消えた。

「もう、昔みたいには歌えない。空の高さを知らない歌なんて、ただの音の羅列よ」

「それでも、あなたの歌には希望が宿る」

カイが言うと、リナは寂しそうに目を伏せた。

「希望なんて、とうの昔に失くしたわ。この足にまとわりつく重りが、その証拠」

彼女の言葉は、この街に住む多くの人々の心を代弁しているようだった。急速に、まるで伝染病のように広がる諦観。カイは、リナの足元で明滅する大きな光の塵を、ただじっと見つめることしかできなかった。

第三章 希望の反響

満月の夜、カイは街で最も高い「響きの塔」の頂上に立っていた。眼下には、重力に魂を引かれた人々の営みが、小さな灯りとなって広がっている。彼は腰の小瓶を逆さにした。集めた希望の塵が、銀色の砂のように夜空へ舞い上がる。

次の瞬間、街全体が震えた。

塵が解放された希望は、音のない音となって人々の心に反響した。初めて恋人に手を振られた少年の、胸が張り裂けそうな痛み。コンクールに落選し、筆を折った画家の、キャンバスを裂く絶望。愛する者を救えず、天を仰いだ医者の、無力感に濡れた祈り。それらは全て、希望が失われた瞬間の、生々しい感情の残響だった。

地面を歩く人々が、ふと足を止める。ある者は涙を流し、ある者は遠い空を見上げた。忘れていた痛み、諦めたはずの夢が、一瞬だけ胸をよぎる。それは慰めではなく、むしろ傷口に塩を塗りこむような行為かもしれない。だが、カイは信じていた。痛みを思い出すことこそが、再び希望を抱くための第一歩なのだと。

しかし、代償は大きかった。解放と同時に、カイの視界は激しい光に焼かれ、ほとんどが真っ白になった。立っていることすらままならず、彼は塔の壁に手をついた。そして気づく。空になったはずの小瓶の底で、あの黒い「諦めの残り滓」が、以前よりも濃く、深く、渦を巻いていることに。希望を解放すれば、諦めもまた深まる。この世界の法則は、あまりにも残酷な均衡の上に成り立っていた。

第四章 世界の心臓

「このままじゃ、あなた自身が消えてしまう」

塔の下で待っていたリナは、カイのあまりの消耗ぶりに声を震わせた。

「この現象には、何か仕掛けがあるはずだ。希望と諦めが、まるで天秤の両皿のように釣り合っている」

ほとんど見えない目で、カイはリナに訴えた。

「古文書に記されていたわ。『世界の心臓』。街の地下深くにある、禁じられた聖域。世界の理を司る場所だって」

二人は、埃と忘却に閉ざされた地下遺跡へと足を踏み入れた。湿った土の匂いと、悠久の時の重みが肌を刺す。遺跡の最深部で彼らが見たものは、人の想像を絶する光景だった。

そこは巨大な空洞になっており、中央には天を突くほどの巨大な水晶の柱が屹立していた。水晶はゆっくりと脈動し、無数の光の糸を街の真上へと伸ばしている。その光の糸は、人々の魂から直接「希望」を吸い上げ、エネルギーとして水晶に集めているようだった。そして、吸い上げた場所には、代わりに黒い靄のような「諦め」が注入されていく。

これが、人々が急速に希望を失い、飛べなくなっていた原因。

これが、「世界の調律者」の正体だった。

第五章 調律者の囁き

カイが水晶に近づくと、直接、頭の中に声が響いてきた。それは男でも女でもなく、古く、そして疲弊した、世界そのものの声のようだった。

《…見つけたか、小さな回収者よ》

声は言う。この世界は、もう限界なのだと。星の生命力が枯渇し、このままでは全ての生命が唐突な終わりを迎える。だからこの「淘汰のシステム」を創ったのだ、と。

《希望は最も純粋な生命エネルギー。それを少しずつ徴収し、世界の延命に充てている。その対価として与えられる諦めは、魂を緩やかに大地へ還すための鎮静剤。急激な死の苦痛ではなく、穏やかな消滅を与えるための、慈悲だ》

カイの能力は、このシステムが希望を吸い上げる際にこぼれ落ちる「漏れ」を回収するための、偶然の産物だという。

《お前の行いは、我々の延命措置を助けていたに過ぎぬ》

調律者は、カイに選択を迫った。このシステムを維持し、世界の緩やかな終焉を受け入れるか。あるいは、システムを破壊し、人々から偽りの希望を一時的に取り戻させ、その結果として訪れる、より速く、より残酷な世界の崩壊を招くか。

カイの背後で、リナが息を呑むのが分かった。あまりにも巨大で、残酷な真実だった。

第六章 最後の飛翔

カイは、ほとんど見えない目でリナの方を振り返った。彼女の輪郭は白くぼやけている。だが、彼女の魂が震えているのは分かった。

「リナ」

彼は、腰の小瓶を外した。それはもう空のはずだったが、なぜか一つの、ひときわ強い光が残っていた。

「これは、僕の最後の希望だ」

それは、かつてカイが抱いていた夢。いつかリナと共に、空の最も高い場所で彼女の歌を聴くという、ささやかな、そして何よりも大切な希望だった。彼はその塵を、自らの手のひらに乗せた。

「世界の終わりは、誰にも止められない。でも、どう終わるかは、僕たちが選べるはずだ」

彼はリナに微笑みかけた。それは、全てを受け入れた者の、穏やかな笑顔だった。

「諦めの中で静かに消えるんじゃない。たとえ一瞬でも、もう一度、自分の意志で空を目指す機会を、みんなに」

彼は水晶の柱に向き直った。そして、最後の希望を握りしめたまま、自身の心臓に手を当てた。彼が解放するのは、瓶に集めた他人の希望ではない。彼自身の存在、その全てだった。

「さよなら、リナ。君の歌を、空で聴きたかった」

その言葉を最後に、カイの体は無数の光の塵と化し、激しい奔流となって水晶の柱に叩きつけられた。

第七章 夜明けの塵

眩い光が空洞を満たし、世界の心臓の脈動が、一瞬だけ止まった。

地上では、人々を縛り付けていた見えない重圧が、ふっと消え去った。足が軽い。魂が軽い。誰もが驚き、顔を上げた。空から降り注いでいたはずの、あの息苦しい諦めの気配が、嘘のように晴れている。何人かが、おそるおそる地面を蹴った。体が、わずかに浮いた。歓声と嗚咽が、街のあちこちから湧き上がる。

リナは、崩れ落ちる遺跡から一人、地上へ戻った。東の空が、白み始めている。カイの姿はどこにもない。だが、彼女には見えた気がした。夜明けの光の中を、一人の青年が、どこまでも高く、自由に飛翔していく幻を。

世界の終わりが先延ばしにされただけだと、彼女は知っている。この猶予は、きっと長くはない。それでも、人々は空を見上げていた。絶望の淵で与えられたのではなく、自らの足で再び立った場所から、自分の意志で空を見上げていた。

リナは、新しい朝の冷たい空気を深く吸い込んだ。そして、静かに歌い始める。それはカイに捧げる鎮魂歌であり、残された者たちを鼓舞する希望の歌だった。その歌声は、もう地を這う響きではなく、澄み渡った夜明けの空へと真っ直ぐに昇っていった。

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