第一章 色褪せた後悔と追憶郵便
湿った段ボールの匂いが充満するアパートの一室で、水島蓮(みずしま れん)は古雑誌の山に埋もれていた。書店員という仕事柄、部屋は常に紙の匂いに満ちている。しかし、その匂いですら、最近はどこか色褪せて感じられた。彼の日常そのものが、彩度を落とした古い写真のように、ぼんやりと霞んでいた。
一年前に姉の葵(あおい)が死んでから、蓮の世界から鮮やかな色が消えた。
その日も、彼は惰性で郵便受けを覗いた。チラシと公共料金の請求書に混じって、一通の古風な封筒が紛れ込んでいた。消印もなければ、切手もない。ただ、彼の名前と住所だけが、万年筆で書かれたような流麗な筆跡で記されている。差出人の名はどこにも見当たらない。
訝しみながら封を開けると、中から現れたのは一枚の案内状と、上質な和紙の便箋だった。
『追憶郵便サービスのご案内』
その奇妙な見出しの下には、信じがたい言葉が並んでいた。
「もう一度、会いたい人へ。当サービスは、あなたの想いを故人へ届け、一日限りの再会を叶えます」
胡散臭い、と蓮は思った。新手の詐欺か、たちの悪い冗談だろう。しかし、その案内状から目が離せない。まるで、心の奥底に沈めていた澱を、指でかき混ぜられるような感覚。
案内の最後には、小さな文字でこう記されていた。
「※再会に関する一切の記憶は、翌日の日の出と共に、利用者の中から消去されます。ご了承ください」
記憶が消える。その一文が、蓮の心に奇妙な安堵をもたらした。
姉との最後の会話は、電話越しに交わされた、刺々しい言葉の応酬だった。画家になるという夢を追い、定職にも就かずにアルバイトを転々とする姉に、蓮は苛立ちをぶつけたのだ。
「いつまでそんな馬鹿みたいなことやってるんだよ。いい加減、現実見ろよ」
電話の向こうで、葵が息を呑む気配がした。何かを言い返そうとして、しかし彼女は結局、無言で電話を切った。それが、永遠の別れになった。翌日、彼女は交差点で信号無視の車にはねられ、あっけなくこの世を去った。
後悔が、鉛のように胸に沈んでいる。謝りたかった。けれど、もうその相手はいない。この重苦しい罪悪感から解放されるなら、どんな手段でもよかった。
「記憶が消えるなら、好都合だ」
蓮は乾いた声で呟いた。謝罪したという事実さえあれば、この心の重荷は軽くなるはずだ。たとえ、その記憶自体を失ったとしても。
彼はペンを手に取った。付属の便箋に、事務的に謝罪の言葉を書き連ねていく。その行為は、罪悪感という名の借金を返済するための、ただの手続きのように感じられた。
第二章 海辺のカフェ、束の間の再会
指定された日、蓮は海沿いの町へ向かった。案内状に記されていたのは、防波堤のそばにぽつんと建つ、ガラス張りの小さなカフェの名前だった。潮の香りが、彼の記憶の扉を微かに叩く。子供の頃、夏になるとよく姉とこの海の近くの祖母の家へ遊びに来た。
カフェの扉を開けると、カラン、と軽やかなベルの音が鳴った。窓際の席。そこに、彼女はいた。
「蓮。久しぶり」
葵は、生前と何一つ変わらない姿で、太陽のような笑顔を向けてきた。ストローハットの影が、彼女の柔らかな表情に落ちている。時間が巻き戻ったかのような、非現実的な光景。蓮は言葉を失い、ただ立ち尽くした。
「座らないの?」と葵に促され、蓮はぎこちなく向かいの席に腰を下ろす。心臓が早鐘を打っていた。用意してきた謝罪の言葉が、喉の奥でつかえて出てこない。
「あのさ、姉さん。俺…」
「ん?なあに?」
「あの時は、ごめん。本当に、ひどいことを言った」
やっとの思いで絞り出した言葉を、葵は穏やかな表情で聞いていた。そして、ふわりと笑って首を横に振る。
「もういいよ、そんなこと。それより、見て。ここのクリームソーダ、昔、ばあちゃんが作ってくれたやつにそっくりなの」
拍子抜けするほど、彼女はあっさりと彼を許した。蓮は、自分が囚われていた後悔が、独りよがりなものだったのかもしれないと感じ始める。
二人の会話は、まるで空白の一年間などなかったかのように、自然に弾んだ。子供の頃の他愛もない思い出話。蓮が勤める書店の話。葵が好きだった画家の話。蓮は、自分が姉について知らないことばかりだったと思い知らされた。彼女がどんな絵を描き、どんなことに心を動かされ、どんな未来を夢見ていたのか。
「蓮はさ、昔から本を読む時、眉間に皺を寄せる癖があるよね。今もだよ」
葵に指摘され、蓮ははっとして眉根を緩める。忘れていた。自分のそんな癖さえも。姉との時間の中で、凍てついていた蓮の心が、少しずつ解かされていくのを感じた。窓の外では、夕日が海をオレンジ色に染め始めている。永遠にこの時間が続けばいいのに、と柄にもなく思った。その願いが叶わないことを、彼は誰よりも知っているのに。
第三章 笑顔の裏の真実
夕闇が窓の外を支配し始め、カフェの灯りが温かく二人を包む頃、葵はふと真顔になった。
「ねえ、蓮。私からの話も、聞いてもらっていいかな」
その声には、先ほどまでの快活さとは違う、静かな覚悟が滲んでいた。蓮は黙って頷く。別れの時間が近いことを、肌で感じていた。これで心残りなく、この一日を忘れられる。そう思った矢先だった。
葵はテーブルの上に、一枚の写真をそっと置いた。
それは、蓮の知らない写真だった。満面の笑みを浮かべた葵の隣に、優しそうな目をした見知らぬ男性が寄り添っている。二人の背景には、満開の桜並木が広がっていた。
「この人ね、高階さん。私の、婚約者だったの」
「……え?」
蓮の思考が、一瞬停止した。婚約者? 聞いたこともない。
「蓮にも、ちゃんと紹介したかったんだ。びっくりさせようと思って。あの事故の日、あなたに電話したのはね、喧嘩の続きをするためじゃなかった。この人のことを、報告したかったの。そして、ちゃんと仲直りしたかった」
葵は、震える声で続けた。彼女が追いかけていた画家の夢は、ただの自己満足ではなかった。将来、高階さんと築く家庭を、自分の好きなことで支えたいという、ささやかで、しかし確固たる決意の表れだったのだ。
「だからね、蓮に『馬鹿みたいだ』って言われた時、すごく、すごく悲しかった。私の人生で、一番幸せなはずの瞬間を、大好きな弟に否定された気がして」
葵の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、蓮が初めて見る、姉の涙だった。
雷に打たれたような衝撃が、蓮の全身を貫いた。
彼は、ただの些細な喧嘩だと思っていた。自分の未熟さから出た、軽率な一言だと。しかし、違ったのだ。自分は、姉の人生で最も輝かしい瞬間を、その幸福の絶頂を、無自覚に、そして無慈悲に踏みにじってしまったのだ。
「でもね」と葵は涙を拭い、精一杯の笑顔を作った。「私は、蓮を許してる。本当に。だから、お願い。あなたも、あなた自身を許してあげて。そして、これだけは忘れないで。私が、誰よりもあなたを愛していたことだけは」
忘れないで、と彼女は言った。
しかし、この再会のルールは絶対だ。夜が明ければ、この記憶は消える。姉の婚約者のことも、電話の本当の理由も、彼女の涙も、そして、今、ようやく受け取ることができた、心からの「赦し」も。
忘れたくない。忘れてはいけない。この温もりを、この痛みごと、抱きしめて生きていきたい。
蓮は初めて、記憶を失うという代償の本当の重さに気づき、声にならない叫びをあげていた。絶望が、彼の心を真っ黒に塗りつぶしていく。それは、一年前に姉を失った時よりも、ずっと深い闇だった。
第四章 記憶なき涙と、始まりの一歩
翌朝、蓮は自室のベッドで目を覚ました。ひどく長い夢を見ていたような気がする。しかし、その内容は靄がかかったように思い出せない。ただ、胸のあたりに、ずっしりとした何かと、それとは裏腹な、不思議な温かさが同居していた。
ぼんやりとした頭で体を起こすと、机の上に置かれた見慣れない封筒が目に入った。それは、彼が数日前にポストに投函したはずの、追憶郵便の返信用封筒だった。なぜ、ここにあるのだろう。
封を開けると、中には一枚の便箋。そこには、見覚えのない、けれどどこか懐かしさを感じる、優しい筆跡で短い言葉が綴られていた。
『蓮へ。
あなたの人生を、精一杯生きてください。いつでも、空から見ています。
追伸:昨日、海辺のカフェに、素敵な写真立てを忘れていったよ。』
読み終えた瞬間、理由もなく、蓮の瞳から大粒の涙が溢れ出した。止まらなかった。悲しいのか、嬉しいのか、自分でも分からない。ただ、魂が震えるような感覚だけが、そこにあった。失われた記憶の代わりに、消えない感情だけが、彼の心に刻みつけられていた。
彼は導かれるようにアパートを飛び出し、電車に乗り込んだ。昨日、訪れたはずの(しかし記憶にはない)海辺の町へ。カフェの扉を開けると、あのベルの音が彼を迎えた。
店の隅の、窓際の席。そこに、ぽつんと一つの写真立てが置かれていた。
吸い寄せられるように近づき、それを手に取る。写真の中では、満面の笑みを浮かべた姉と、見知らぬ男性が幸せそうに寄り添っていた。
蓮は、再会の詳細も、姉の告白も、婚約者の存在も、すべて忘れてしまった。
しかし、彼は知っていた。この写真が、とてつもなく大切なものであることを。そして、自分がもう、過去に囚われていないことを。胸に沈んでいた鉛のような後悔は消え去り、そこには温かな光が灯っていた。
蓮は写真立てをそっと胸に抱きしめた。色褪せていた世界に、鮮やかな色彩が戻ってくる。潮の香り、カフェの喧騒、窓から差し込む陽光。そのすべてが、新しく、輝いて見えた。彼は写真の中の姉に向かって、心の底から、初めて曇りのない笑顔で呟いた。
「ありがとう、姉さん」
記憶は失われた。だが、愛されたという確かな感触は、彼の魂に新たなプロローグを刻んだ。彼はもう、振り返らない。空の上から見守る姉に胸を張れるように、今日から始まる自分の物語を、精一杯生きていくのだ。