不協和音の調律師

不協和音の調律師

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第一章 不協和音の街

響蓮(ひびきれん)の世界は、不協和音で満ちていた。ピアノ調律師である彼にとって、音は職業であり、同時に呪いでもあった。人が嘘をつくとき、その声には微かで、しかし確実に耳を刺す不協和音が混じる。それはまるで、完璧に調律されたピアノの一弦だけが狂っているような、不快な響きだった。

「これで、完璧ですね。息子も喜びます」

グランドピアノの前に座る婦人は、優雅に微笑んだ。だが、その声には、ドとドのシャープが同時に鳴るような、鈍い歪みがまとわりついていた。蓮は無表情に頷く。この婦人は、提示した調律代を値切るために、ありもしない息子のコンクールの話を持ち出したのだ。

「ええ。定期的なメンテナンスをお勧めします」

蓮は感情を殺してそう答え、請求書を差し出した。街のノイズ、人々の会話、そのすべてに嘘の気配が潜んでいる。だから蓮は、他人と深く関わることをやめた。真実と偽りが混濁した音の洪水から耳を守るには、孤独が一番の防音壁だった。

そんな彼の静寂を破るように、一本の電話が鳴った。十年以上、ほとんど会話もなかった母親からだった。

「蓮?……お父さんの工房、覚えているでしょう。そろそろ、きちんと片付けようと思うの」

父。その単語を聞いた瞬間、蓮の耳の奥で、最も不快な不協和音が鳴り響いた気がした。蓮の父、響徹(とおる)は、腕利きの時計職人だった。しかし、蓮が高校生の頃、事業に失敗し、莫大な借金を背負って家族の前から姿を消した。数年後、遠い北の町で亡くなったと、人づてに知らされただけだった。家族を捨てた、大嘘つき。それが蓮の父親に対する評価のすべてだった。

「……好きにすればいい」

「お願い。あなたにしか分からない道具もあるかもしれない。一度、見てくれないかしら」

母親の声にも、諦めと懇願が混じった、濁った音がしていた。断り切れない、奇妙な義務感が蓮の喉を締め付ける。結局、彼は週末に実家へ向かうことを約束してしまった。

埃っぽい空気が鼻を突く。実家の裏手にひっそりと立つ、父の工房。蓮が足を踏み入れるのは、十数年ぶりだった。壁には設計図がピンで留められ、作業台には無数の精密な工具が、まるで主の帰りを待つかのように整然と並んでいる。時間の止まった空間。その静寂が、かえって蓮の心をざわつかせた。

母親に言われた通り、道具を仕分ける。ルーペ、ピンセット、極小のドライバー。父の大きな背中と、魔法のように時計を組み上げていく太い指を思い出す。その記憶に、不意に胸が痛んだ。

作業台の引き出しの奥、他の工具とは別に、革張りの分厚いノートが一冊、ひっそりと収められていた。蓮はそれを手に取る。父の筆跡だった。日記だ。表紙をめくると、インクの匂いとともに、止まっていたはずの父の時間が流れ出す。蓮は、その日記を読むことで、忌まわしい過去の不協和音を再び聞くことになるのだと、覚悟していた。

第二章 沈黙の日記

蓮は工房の隅にある古びた椅子に腰掛け、日記を読み始めた。ページをめくるたび、インクで綴られた父の言葉が、脳内でその無骨な声に変換されていく。

『四月十日。蓮が小学校に入学した。少し大きめの制服が、誇らしげで、そして少しだけ滑稽だった。校門の前で撮った写真は、一生の宝物だ』

蓮はその記述を読み、眉をひそめた。入学式の日のことなど、とうに忘れていた。だが、父の声で再生されるその文章には、あの耳障りな不協和音が一切混じっていなかった。ただ、温かく、少し照れたような響きだけがあった。

読み進めるうちに、蓮の混乱は深まっていく。日記の中の父は、蓮が知る父とはまるで別人だった。仕事一筋で家庭を顧みない冷たい男ではなく、息子の些細な成長を喜び、不器用な愛情を言葉にできないまま、それを文字に託す、一人の父親の姿があった。

『七月二十二日。新作の時計の機構が、ようやく形になった。この歯車が正確に時を刻むように、蓮の未来も輝かしいものであってほしいと、星に願った』

『九月三日。蓮と二人で、港町の遊園地へ行った。観覧車から見た夕焼けを、あいつは忘れないでいてくれるだろうか。最高の笑顔だった』

遊園地? 蓮の記憶のどこを探しても、父と二人で遊園地に行った思い出は存在しなかった。父はいつも工房に籠っていた。休日にどこかへ連れて行ってもらった記憶はない。これは、嘘だ。明らかな、偽りの記述だ。

蓮は日記から顔を上げた。なぜだ? なぜ、この明らかな嘘から、不協和音が聞こえない? 父の声は、そこにある出来事を、一点の曇りもない真実として語りかけてくる。まるで、本当にあったことのように。

蓮は日記を閉じた。心臓が早鐘を打っていた。父は嘘つきだったはずだ。家族を裏切り、借金から逃げた卑怯者。そう信じることで、蓮は父の不在を乗り越えてきた。だが、この「沈黙の日記」は、その信念を根底から揺さぶってくる。

もしかしたら、嘘をついているのは、自分の記憶の方なのか?

いや、そんなはずはない。蓮は苛立ちを振り払うように立ち上がった。この謎を解かなければ、前に進めない。日記には、父の友人や取引先の名前がいくつか記されていた。

「古川さん……」

父が最も信頼していたという、弟子の名前。蓮は、この人物に会うしかないと決意した。父の「嘘」に隠された真実を知るために。彼は不協和音のしない父の言葉の謎に、抗いがたく惹きつけられていた。

第三章 父が信じた嘘

数日後、蓮は古い住宅街の一角にある、小さな時計修理店を訪れていた。店の主である古川は、白髪の穏やかな老人だった。蓮が事情を話すと、彼は深く息を吐き、店の奥へと招き入れた。

「徹さん……師匠の日記を、読まれたのですね」

古川は、湯気の立つお茶を差し出しながら、静かに言った。その声には、悲しみと懐かしさが滲んでいた。

「日記には、俺の知らない父の姿がありました。でも、明らかに事実と違うことも書かれていた。遊園地に行ったことなんて、一度もなかったのに……。あれは嘘のはずです。なのに、僕の耳には、父の声に何の歪みも聞こえないんです」

蓮の切実な問いに、古川はしばらく目を伏せていた。やがて、意を決したように顔を上げ、蓮の目をまっすぐに見つめた。

「蓮さん。あなたの能力のことは、師匠から聞いていました。『嘘を聞き分ける耳』だと」

「父が……?」

「ええ。そして、師匠はあなたに、最大の嘘をつき通した。いや……もしかしたら、あれは師匠にとって、嘘ではなかったのかもしれない」

古Kawaはゆっくりと言葉を続けた。その一つ一つが、蓮の築き上げてきた世界の壁を、静かに、しかし確実に崩していく。

「師匠は、失踪したのではありません。病だったのです。若年性のアルツハイマー病でした」

アルツハイマー。その言葉は、雷鳴のように蓮の頭に響き渡った。

「病気が、師匠の記憶を少しずつ蝕んでいきました。新しいことを忘れ、古い記憶は混濁し、やがて、現実と願望の区別がつかなくなっていった。日記に書かれていたのは、師匠が本当に体験した記憶と、本当はそうありたかった、そうしてやりたかったという、強い願いが混ざり合った、師匠だけの『真実』だったのです」

遊園地の記憶。それは、息子をどこへも連れて行ってやれなかった父親の後悔が生み出した、幻の思い出だったのだ。

「あなたの耳に不協和音が聞こえなかったのは、当然です。師匠は、日記に書いたことを、心の底から真実だと信じていた。あなたの能力は、『悪意のある欺瞞』、つまり、人が嘘だと自覚している嘘にしか反応しない。師匠の言葉には、一片の欺瞞もなかった。ただ、壊れていく悲しみだけがあったのです」

蓮は息を呑んだ。父は嘘つきではなかった。彼は、病という巨大な運命と、たった一人で戦っていたのだ。

「師匠が家を出たのは、借金から逃げるためではありません。自分が壊れていく醜い姿を、最愛の息子であるあなたに見せたくなかったからです。あなたの記憶の中に、いつまでも『強い父親』として残りたかった。それが、師匠が最後まで守りたかった、たった一つの見栄だったのかもしれません」

涙が、蓮の頬を伝った。十年間の憎しみと誤解が、氷解していく。父は、最後まで家族を、蓮を、愛していた。その不器用で、悲しいやり方で。

「師匠はね、残された時間を使って、あなたのための時計を作っていました。まだ、未完成のままですが……。工房の、設計図が貼られた壁の裏に、隠し棚があるはずです」

古川の声は、震えていた。蓮は、立ち上がることもできず、ただ静かに泣いていた。

第四章 時を刻む和音

工房に戻った蓮は、震える手で壁の一部を押した。ギ、と鈍い音を立てて、隠し棚が現れる。その中には、ビロードの布に包まれた、銀色の懐中時計が鎮座していた。

手に取ると、ずしりとした重みが伝わってきた。文字盤には、ラピスラズリを砕いて散りばめたような、美しい夜空が描かれている。裏蓋を返すと、そこには、父の震えるような筆跡で、こう刻まれていた。

『我が愛する息子、蓮へ。お前の進む道が、美しい和音で満たされますように』

蓮は、声を上げて泣いた。父の愛が、時を超えて、今、確かに彼に届いた。

時計のムーブメントは、いくつかの歯車が欠けたまま、沈黙していた。父が残した、最後の宿題。蓮は涙を拭うと、作業台に向かった。父の日記に残された設計図と、調律師として培ってきた精密な指先の感覚だけが頼りだった。

ピンセットで極小のネジを掴み、ルーペを覗き込みながら歯車を組み合わせていく。それは、ピアノの弦を一本一本調整していく作業に似ていた。狂った音を探し、正しい音程へと導く。蓮は、父の止まった時間を、もう一度動かそうと、一心不乱に作業を続けた。

数日後。最後の一つの歯車が、カチリと音を立てて所定の位置に収まった。蓮が竜頭を巻くと、時計の中から、命が宿ったかのような小さな鼓動が聞こえ始めた。

カチ、カチ、カチ……。

その秒針の音は、蓮が今まで聞いたどんな音よりも、澄み切っていた。それは単なる機械音ではない。いくつもの歯車が完璧に噛み合い、一つの目的のために時を刻む、美しい「和音」だった。父が遺した、嘘のない、真実の愛情の音。蓮は、その音に耳を澄ませながら、静かに微笑んだ。初めて、心の底から父を許すことができた。

蓮は、完成した懐中時計を胸ポケットに収め、工房の扉を開けた。外の世界は、相変わらず様々な人間の声と、喧騒に満ちている。その中には、きっとこれからも、耳障りな不協和音が混じり続けるだろう。

だが、もう蓮は、その音を恐れなかった。不協和音の向こう側にある、人の弱さや、悲しみや、そして時として隠された真実を探すことができる。父が教えてくれたからだ。

街の雑踏の中を歩き出す。胸のポケットで、父の時計が、温かい和音を静かに奏でている。蓮の耳には、世界の音が、ほんの少しだけ、優しく響いているような気がした。彼の新しい時間が、今、確かに動き始めた。

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