第一章 残響と喪失
雨音には、無数の物語が溶けている。水島湊は、ヘッドフォンの奥で目を閉じながら、アスファルトを叩く雫のオーケストラに耳を澄ませていた。彼は音響デザイナーだ。世界のあらゆる音を採取し、再構成して、新たな命を吹き込むのが彼の仕事であり、生き甲斐だった。今夜もまた、徹夜で取り組むプロジェクトのため、深夜の街角で録音したばかりの雨音を編集していた。
再生、逆再生、フィルタリング。指先がマウスの上を滑るたび、ありふれた環境音は表情を変える。その時だった。ごく微かな、しかし決して聞き過ごすことのできない不協和音が、彼の鼓膜を震わせた。それはノイズとも旋律ともつかない、奇妙な響きだった。周波数スペクトルを表示させると、特定の帯域だけが異常な波形を描いている。まるで、この世の物理法則を無視した音が、現実の裂け目から漏れ出しているかのようだ。
好奇心は、時に破滅への扉を開ける鍵となる。湊は、その異質な音だけを慎重に抽出し、増幅した。
瞬間、世界が反転した。
ヘッドフォンから溢れ出したのは、ガラス細工の風鈴を幾千も同時に鳴らしたような、清らかで、それでいて胸を締め付けるほどに切ない旋律だった。音の洪水が脳を洗い、意識が純白の光に塗り潰されていく。最後に脳裏をよぎったのは、誰かの泣きそうな笑顔と、果たせなかった約束の言葉――だったような気がした。
次に目を開けた時、湊は柔らかな苔の絨毯の上に横たわっていた。雨の匂いは消え、代わりに瑞々しい草いきれと、どこか甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。見上げた空には、太陽の代わりに七色の光彩が巨大な川のように流れ、ゆっくりと明滅を繰り返していた。周囲の植物は、まるで呼吸するように淡い光を放ち、その葉擦れの音は、それ自体がひとつの和音を奏でている。
ここは、どこだ?
混乱した頭で身を起こし、自分の手を見る。見慣れた、少し節くれだった自分の手だ。しかし、頭の中は奇妙なほど静まり返っていた。昨日まで格闘していた仕事の締め切りも、住んでいたアパートの部屋番号も、毎朝コーヒーを買っていたコンビニの名前も、すべてが濃い霧の向こうに霞んでいる。
そして何より恐ろしかったのは、家族の顔が思い出せないことだった。父がいたはずだ。母も。もしかしたら、妹か弟がいたかもしれない。温かい記憶の感触だけが胸に残り、その具体的な映像がすっぽりと抜け落ちている。空っぽの引き出しを開けた時のような、途方もない喪失感が心臓を鷲掴みにした。
「……誰か……」
絞り出した声は、自分のものではないかのように掠れていた。返事はない。ただ、風が彼の足元に落ちていた小さな結晶を転がし、カラン、と澄んだ音を立てただけだった。それは涙の粒がそのまま凍ったような、不思議な輝きを放つ石だった。
第二章 忘却の結晶を追って
湊がその世界――後に「響晶界(きょうしょうかい)」と呼ばれることになる場所――を彷徨い始めて、幾日が過ぎたか。時間の感覚さえ曖昧になっていた。空腹は、光る果実を食べることで満たされ、喉の渇きは岩清水が癒してくれた。しかし、心の渇きだけはどうにもならなかった。失われた記憶の空白は、日を追うごとに存在感を増し、湊を苛んだ。
やがて彼は、小さな集落に辿り着いた。そこでは、彼と同じように元の世界の記憶を失いかけた人々が、静かに暮らしていた。彼らは皆、どこか諦観を漂わせた穏やかな瞳をしていた。集落の長老と名乗る老婆は、お茶を差し出しながら、この世界の理を静かに語って聞かせた。
「ここは、時の流れから置き去りにされた者たちが流れ着く場所。響晶界に留まる代償として、我々は元の世界の記憶を少しずつ手放していくのさ」
老婆は、窓の外で微かな音を立てる光る草花に目を細めた。「失われた記憶は、魂から剥がれ落ち、『忘却の結晶』となって、この世界のどこかに現れる。それに触れれば、一時だけ、失った思い出を追体験できるという」
「結晶を……集めれば、記憶は戻るのですか?」
湊の問いに、老婆はゆっくりと首を振った。
「それは叶わぬ願いだよ。結晶はしょせん残響に過ぎない。過去の幻影に囚われれば、今の生を見失うだけ。我々は、過去を忘れ、ここで新たな生を受け入れたのだ」
他の住人たちも、かつては結晶を探し求めたのだろう。だが、今は誰もその話を口にしない。彼らは、過去という名の重荷を下ろし、この幻想的な世界で穏やかに生きることを選んだのだ。
しかし、湊にはできなかった。胸に巣食う空虚感は、ただのノスタルジーではなかった。それは、何か決定的に大切なものを裏切ってしまったという、罪悪感にも似た痛みだった。思い出せない「誰か」への、消えない負い目。彼は、その正体を突き止めなければならなかった。
集落を後にして、湊は再び一人で結晶を探す旅に出た。彼は音響デザイナーとしての鋭敏な聴覚を頼りにした。結晶は、現れる瞬間にごく微かな、固有の音を発するらしかった。風の音、水の音、植物のざわめきの中から、その異質な響きを探し出す。それは、果てしないノイズの中から、意味のある信号を探し出す作業に似ていた。
そんな旅の途中、彼は一人の少女に出会った。廃墟となった円形劇場の石段に、ぽつんと座っていた。年は十代半ばくらいだろうか。亜麻色の髪を風になびかせ、大きな瞳でじっと湊を見ていた。
「君は……?」
声をかけても、少女は何も答えなかった。ただ、こくりと頷くだけ。言葉を話せないのかもしれない。湊がその場を去ろうとすると、少女は彼の服の袖をくい、と引いた。そして、何かを訴えるように、東の方角を指差した。その瞳には、不思議なほどの強い意志が宿っていた。
湊は、少女を「リラ」と名付けた。リラは言葉を話さなかったが、彼女の存在は湊の孤独を和らげてくれた。そして何より、彼女は驚くべき能力を持っていた。まるでコンパスのように、忘却の結晶がある場所を正確に感じ取ることができるらしかった。リラに導かれるまま、湊はいくつかの結晶を見つけることができた。
苔むした遺跡の틈새で見つけた琥珀色の結晶。それに触れると、日曜の昼下がり、縁側で昼寝をする猫の温かさと、微かな醤油の匂いが蘇った。誰かの、穏やかな午後の記憶。
川底で輝いていた青い結晶。触れた指先から、初めて自転車に乗れた時の高揚感と、膝に作った擦り傷の痛みが駆け巡った。誰かの、小さな成長の記憶。
だが、どれも湊自身の記憶ではなかった。他人の思い出を覗き見するたびに、安堵と同時に、言いようのない罪悪感が募った。それでも彼は探すのをやめなかった。自分の心の空洞にぴったりと嵌る、たった一つのピースを見つけ出すために。リラは、そんな湊の隣を、いつも静かに歩き続けていた。
第三章 世界が奏でる交響曲
リラの導きは、ついに湊を世界の中心へと誘った。そこは、巨大な水晶の断崖から、光の粒子が滝のように流れ落ちる場所だった。「調律の滝」と、かつて長老が呼んでいた場所だ。滝壺から立ち上る飛沫は、空中で無数の忘却の結晶となり、オーロラの光を受けてダイヤモンドのように煌めいていた。ここは、この世界の全ての記憶が集まる場所なのだ。
圧倒的な光景に息を呑む湊。無数の結晶が、それぞれ異なる音色で囁きかけてくる。喜びの記憶は高く澄んだ音を、悲しみの記憶は低く掠れた音を立てている。その中で、一つだけ、ひときわ強く湊の心を引く結晶があった。それは、まるで泣いているかのような、悲痛な響きを放っていた。
これだ。これこそが、俺が失ったものの核心に違いない。
湊は、呼ばれるように滝壺へと足を踏み入れ、手を伸ばした。震える指先が、その白く濁った結晶に触れた。
瞬間、彼の意識は奔流に呑まれた。
――それは、ある老女の記憶だった。彼女は病床にあり、窓の外を見ている。孫娘と交わした約束。「次の満月の夜には、一緒に丘の上から星を見ようね」。しかし、彼女の身体はもう動かない。窓から見える月は、無情にも満ちていく。果たせぬ約束、残される孫娘への愛と後悔。涙が、皺だらけの頬を伝う感触が、あまりにも生々しく湊の心を貫いた。
違う。これも、俺の記憶じゃない。
愕然として顔を上げると、いつの間にか、背後にあの集落の長老が立っていた。
「ようやく、気づいたようだね」
その声は、滝の音に負けないほど静かに、しかしはっきりと響いた。
「自分の記憶を探す旅は、ここでおしまいだ。なぜなら、お前さんが探している“自分の記憶”など、初めからここにはないのだから」
長老の言葉の意味が理解できず、湊は混乱した。
「どういう、ことですか……?」
「この世界、響晶界はな」と、長老は滝が生み出す無数の結晶を見渡した。「かつてここへ流れ着き、全ての記憶を失って、やがて光に還っていった者たちの……その記憶の残響が集まってできた、巨大な夢のようなものなのだよ」
衝撃の事実に、湊は言葉を失った。この美しい世界が、誰かの失われた思い出でできている? 空を流れるオーロラも、音楽を奏でる植物も、全ては名も知らぬ人々の記憶の欠片だというのか。
「我々は皆、他人の夢の中で生きているに過ぎない」長老は続けた。「そして……お前さんをここまで導いたその娘」
長老の視線が、不安げに湊を見つめるリラに向けられる。
「その娘こそ、お前さん自身が、この世界に足を踏み入れた時に最初に手放した、最も強い記憶の残滓……そのものだよ」
雷に打たれたような衝撃が、湊の全身を駆け抜けた。リラが、俺の記憶?
彼はリラを見た。彼女が話せなかった理由。彼女がいつも何かを訴えるように見つめてきた理由。全てが繋がった。
「まさか……リラは……俺が果たせなかった『約束』の記憶……?」
湊の言葉に、リラは初めて、その大きな瞳から一筋の涙をこぼした。そして、静かに、しかしはっきりと頷いた。彼女が話せなかったのは、その記憶の核心である「約束の言葉」そのものが、湊の中から抜け落ちていたからだ。
真実を知った湊は、その場に崩れ落ちた。自分の過去を取り戻す旅は、全くの無意味だった。いや、それどころか、彼は自分の失われた記憶の化身に導かれて、他人の記憶の墓場を巡っていたのだ。
だが、絶望の底で、彼はふと気づいた。足元でカラン、と音を立てる結晶。川のせせらぎ。風の音。リラの静かな呼吸。それら全てが、バラバラでありながら、一つの巨大な音楽を形成していることに。
誰かの後悔。誰かの喜び。誰かの小さな成長。それらが混ざり合い、響き合い、この儚くも美しい世界を織りなしている。
失われた記憶を取り戻すのではない。この、世界そのものが奏でる音楽を、聴くこと。
湊はゆっくりと立ち上がった。彼はもう、自分の失われた過去に固執してはいなかった。彼の心には、この世界を構成する無数の名もなき記憶たちへの、深い愛おしさが芽生えていた。
彼は音響デザイナーだった。音を拾い、繋ぎ、調和させる専門家だ。
「そうか……俺がすべきことは、これだったんだ」
湊は、リラに向き直り、優しく微笑みかけた。そして、彼女の手をそっと取った。言葉はなくても、心が通じ合うのを感じた。
「俺は、調律師になろう。この世界の」
彼は、失われた記憶を探すことをやめた。代わりに、響晶界に散らばる記憶の音、結晶の響きを集め、それらを調和させる旅を始めた。悲しみの音と喜びの音を重ね、後悔の響きを希望の旋律で包み込む。バラバラだった誰かの思い出は、湊の指先から、一つの壮大な交響曲として生まれ変わっていく。
元の世界に戻る道を探すのではない。この「記憶の残響でできた世界」で、新たな意味を見出し、生きていく。それが湊の出した答えだった。
彼が奏でる音楽が響き渡るたび、リラの瞳には、少しずつ言葉に似た光が宿っていくような気がした。いつか彼女が声を取り戻す日、それは、湊がこの世界と完全に調和し、新たな「約束」を見つけた時なのかもしれない。
七色のオーロラの下、二人の調律師の旅は、静かに始まろうとしていた。