感情の調律者(エモーション・チューナー) ―奏でられる世界の心臓―

感情の調律者(エモーション・チューナー) ―奏でられる世界の心臓―

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第一章 色彩の暴力

吐き気が止まらない。

王都を目前にした廃屋の中。僕は崩れた煉瓦の壁に背を預け、膝を抱えていた。

壁の向こう、数キロ先にある王都から風に乗って運ばれてくるのは、腐った卵とカビた紙束を煮詰めたような悪臭だ。

物理的な匂いじゃない。

あれは『諦観』の臭いだ。

生きながら死んでいる人間だけが放つ、魂の腐臭。

「アリス、飲めるか?」

カチャリ、と硬質な音が鳴る。

目の前に差し出されたのは、湯気を立てるマグカップだった。

顔を上げると、プラチナブロンドの髪を煤で汚した女性騎士、リネアが片膝をついている。

彼女は右手の鉄の手甲(ガントレット)を外し、足元に置いていた。

「……すみません、リネアさん」

震える手でカップを受け取る。具のない薄い塩スープだが、その熱だけが、冷え切った僕の指先を慰めてくれた。

「謝るな。お前が謝ると、私は自分が無力だと言われている気分になる」

彼女は素手になった右手で、僕の額に触れた。

剣ダコで固くなった、無骨な指先。

けれど、そこにある体温は驚くほど温かい。

ついさっきまで魔物を斬り伏せていた剣の冷徹さと、不器用なこの温もり。

その落差に、僕は救われている。

「王都の『感情濃度』は異常だ。引き返すなら今だぞ」

リネアの瞳の奥、透き通った水色の光が揺れる。

そこから流れ込んでくるのは、鋭い刃物のような『焦燥』と、それを包み込む毛布のような『慈愛』。

僕、アリス・セレスティンにとって、他人の感情は文字通りの「侵入者」だ。

日本からこの異世界『エモーション』に落ちて数週間。

僕の『共感過敏症』は、ここでは相手の心臓を直接握るような呪いと化していた。

「……行きます。羅針盤が、泣いているんです」

僕はポケットから、真鍮の塊を取り出した。

『感情の羅針盤』。

蓋を開けると、針は狂ったように回転し、赤黒い火花を散らしている。

僕たちは廃屋を出た。

灰色の雲が垂れ込め、彩度を失った世界。

その中心で、世界が悲鳴を上げていた。

第二章 純粋培養された狂気

王都の門をくぐり、中央広場に足を踏み入れた瞬間、僕は胃の中身をぶち撒けそうになった。

「なんだ……これは」

リネアが剣の柄に手をかけ、絶句する。

広場の中央には、巨大なガラスの水槽が鎮座していた。

中には黄金色に輝く液体が満たされている。

その周囲で、絹の服を着た貴族たちがワイングラスを掲げ、陶然とした表情で液体を啜っていた。

彼らの肌は異常なほど艶めき、血管が不自然に脈打っている。

「極上だ! これほどの純度の『歓喜』は久しぶりだぞ!」

下卑た笑い声の足元には、ボロ雑巾のようなものが転がっている。

いや、雑巾じゃない。

人間だ。

やせ細り、肋骨が浮き出た子供たち。

彼らはピクリとも動かない。

目は開いているのに、瞳孔が開ききり、光を映していない。

一人の貴族が、蹲る老人の肩を蹴り飛ばした。

「おい、もっと出せ。もっと『希望』を絞り出せ!」

貴族が老人の首筋に手を触れる。

その瞬間、老人の身体がビクンと跳ね、口から金色の粒子が吸い出された。

粒子は貴族の指輪に吸い込まれ、老人は糸が切れた人形のように地面に崩れ落ちる。

「……やめろ」

僕の喉から、ひきつった音が漏れた。

感情こそが資源。

知ってはいた。けれど、これほど直接的な「捕食」だなんて。

ズズズ……。

広場の隅、搾りカスとして捨てられた人々の影から、黒いコールタールのような泥が湧き上がる。

行き場を失った『絶望』が凝固し、異形の顎(あぎと)を形成していく。

「ヒッ! 澱(よどみ)が出たぞ! 衛兵、片付けろ!」

貴族が悲鳴を上げ、ワイングラスを取り落とす。

「させるか!」

リネアが抜剣し、地面を蹴る。

銀閃一閃。

生まれかけた魔物の腕が宙を舞う。

しかし、魔物は怯まない。

斬られた断面からさらに泥が溢れ、リネアの剣にまとわりつく。

「重い……ッ!?」

「リネアさん、下がって! 斬っちゃだめだ!」

僕は叫びながら、二人の間へ割って入る。

「アリス!?」

「彼らは……泣いてるんだ!」

僕は泥の塊に素手で触れた。

ドクンッ!

心臓を万力で締め上げられるような衝撃。

(寒い、暗い、お腹すいた、ママ、痛い、痛い、痛い!)

何百人もの子供の絶叫が、鼓膜ではなく脳髄に直接響く。

鼻からツーと血が垂れるのがわかった。

血管が破裂しそうだ。

それでも、僕は彼らの『絶望』を飲み込む。

僕の身体をフィルターにして、泥を濾過する。

黒い泥は僕の腕を這い上がり、やがて透明な霧となって空へ消えた。

後に残ったのは、静寂と、膝をついて荒い息を吐く僕だけ。

視界がぐらりと歪む。

「……無茶をするなと言っているだろう!」

リネアが駆け寄り、僕を抱き起こす。

彼女の腕の中で、僕は広場の奥、王城の向こうにそびえる巨大な影を見上げた。

枯れ果てた巨木。

あれが、元凶だ。

第三章 枯れゆく心臓

王都の最奥、『感情の樹』の前。

かつて虹色に輝いていたという伝説の大樹は、いまや墓標のように灰色に干からびていた。

樹の根元には、無数のパイプが突き刺さり、ポンプが唸りを上げて樹液を――『感情』を強制的に吸い上げている。

「素晴らしい効率だと思わないか?」

拍手の音と共に、白い祭司服の男が現れた。

その顔には、張り付いたような穏やかな笑みが浮かんでいる。

「貴様が祭司長か」

リネアが切っ先を向ける。

「暴力をやめたまえ、野蛮な騎士よ。私は世界を救っているのだ」

祭司長は両手を広げ、枯れた樹を背にした。

「見ろ、この静けさを。争いなどない。悲しみもない。我々が『負の感情』という不純物を取り除き、純粋な『喜び』だけで世界を満たせば、そこは楽園になる」

「そのために、子供たちから心を奪うのか!」

「多少の犠牲はつきものだ。悲しみを生む種は、芽吹く前に摘まねばならん。君もそう思うだろう? 異界の少年」

男の視線が僕を射抜く。

彼の心からは、一切の迷いが感じられない。

本気で、これが正義だと信じている。

狂気よりもタチが悪い、『純粋な善意』だ。

「……違う」

僕は震える足で一歩前へ出る。

羅針盤が熱い。火傷しそうだ。

「悲しみがない世界なんて、楽園じゃない。ただの標本箱だ」

「何?」

「影がなければ、光の強さはわからない。失う痛みを知らなければ、愛しさもわからない! 清濁併せ呑んで、泥の中で足掻くから、人の心は綺麗なんだ!」

僕は羅針盤を掲げた。

真鍮の塊が変形し、複雑な幾何学模様を描いて展開する。

「アリス、何をする気だ」

リネアの声が震えている。

彼女は気づいている。

僕がこれから何を代償にしようとしているのかを。

「リネアさん。僕をここまで連れてきてくれて、ありがとう」

「待て。やめろ。嫌な予感がするんだ」

彼女が僕の手首を掴む。

その力は強くて、痛くて、泣きたくなるほど愛おしい。

「お前がいなくなる気がする。世界なんてどうでもいい。私はお前が生きていればそれで……!」

騎士としての責務を捨て、ただ一人の女性として、彼女は僕を繋ぎ止めようとしていた。

その『執着』こそが、何よりも人間らしい感情だ。

僕は彼女の手を、一本ずつ、優しく剥がした。

「リネアさんが教えてくれたんです。その手の温かさが、僕をここに繋ぎ止めてくれた」

だから、返さなきゃいけない。

この世界に、本当の色を。

僕は走り出した。

祭司長の制止も、リネアの絶叫も振り切って。

枯れた樹の幹、その中心に空いた洞へ、羅針盤を叩き込む。

最終章 さよならの色彩

ガギィィィンッ!

世界が割れる音がした。

「ぐ、があああああああっ!!」

指先から、腕から、肩から、僕という存在が『ほどけて』いく。

奔流。

数億人の感情が、僕というちっぽけな器に逆流してくる。

産声の輝き。

臨終の安らぎ。

初恋の甘酸っぱさ。

裏切りの苦味。

殺意の赤。

嫉妬の紫。

全てが混ざり合い、僕の肉体を内側から食い破る。

痛い。熱い。

骨が軋み、砕け散る音が体内で響く。

皮膚が裂け、血の代わりに光が噴き出す。

「アリスーーッ!!」

リネアが駆け寄ってくるのが見えた。

けれど、もう僕には彼女を抱きしめる腕がない。

指先から炭化し、光の粒子となって風にさらわれていく。

(ああ、怖いなあ)

死ぬのは怖い。

消えるのは寂しい。

もっとリネアと話したかった。

あの不味いスープを、もう一度飲みたかった。

けれど、その『恐怖』や『未練』さえも、樹は養分として吸い上げていく。

僕の恐怖が、樹の脈動を強くする。

ドクン、ドクン。

枯れ木に血液が巡る。

灰色の空が割れた。

雲の切れ間から、七色のオーロラが降り注ぐ。

それは単なる光の屈折じゃない。

『感情』そのものの輝きだ。

広場の子供たちが、ふと空を見上げる。

その瞳に、色が戻る。

彼らは泣き出した。大声で、顔をぐしゃぐしゃにして。

それが、どれほど健康的な光景か。

祭司長がへたり込み、呆然と空を仰いでいる。

僕の意識はもう、霧のように薄い。

最後に、目の前で泣き崩れるリネアの顔を見た。

なんて酷い顔だろう。

鼻水ですすけて、目は真っ赤で。

でも、世界中のどんな宝石よりも美しい。

僕は残った最後の力を振り絞り、風になった唇で、彼女の涙を拭った。

(笑って、リネア)

言葉は音にならず、感情の波紋となって彼女に届く。

僕の身体は弾け飛び、無数の光の蝶となって世界へ散った。

***

風が止んだ。

感情の樹は、見上げるような巨木へと蘇り、黄金の葉と紫の果実を揺らしていた。

王都には、人々の喧騒が戻っている。

怒鳴り声も、泣き声も、笑い声も、すべてが混ざり合った生きた音が。

リネアは、樹の根元に落ちていた小さな真鍮の欠片を拾い上げた。

動かなくなった羅針盤の針は、どこも指していない。

「……馬鹿野郎」

彼女は欠片を強く握りしめ、額を押し付けた。

掌に残る鋭い痛みだけが、彼がいた確かな証拠だった。

彼女は立ち上がる。

頬を伝う涙を乱暴に拭い、剣帯を締め直す。

空は高く、どこまでも青い。

その青さは、かつて彼が見せた瞳の色に、少しだけ似ていた。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
アリスは共感過敏症ゆえに世界の悲鳴を肌で感じ、負の感情を排除する祭司長の「純粋な善意」がもたらす偽りの楽園を否定。自らの命を代償に、清濁併せ呑む感情こそが人間性の証だと世界に問いかける。リネアは騎士の責務を超え、アリスを「世界より大事」と庇う献身と深い愛を示した。

**伏線の解説**
冒頭の「諦観の臭い」や「泣く羅針盤」は、世界が感情を失っている状況と、アリスの使命を示す伏線。リネアの瞳に見える「焦燥」と「慈愛」は、アリスへの深い愛情の表れ。感情が「澱」として魔物化する描写は、負の感情の抑圧が新たな歪みを生むことを示唆する。

**テーマ**
本作は、負の感情をも肯定し、清濁併せ呑むことこそが豊かな人生、真の幸福であるというテーマを深く掘り下げる。アリスの自己犠牲は、単なる犠牲ではなく、世界に「感情の色彩」と「人間性」を取り戻すための究極の「調律」だった。愛、恐怖、悲しみ、喜び、その全てがあってこそ、世界は脈動し、命は輝くのだ。
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