第一章 漂流者の森、欠けたる星の導き
ユイは、常にどこか満たされない感覚を抱えて生きていた。大学の講義も、友人との他愛ない会話も、彼女の心に空いた大きな穴を埋めることはなかった。まるで、大切な何かを失ったまま、その「何か」すら思い出せないかのように。漠然とした喪失感と、日常に巣食う退屈さが、彼女の心を常に重くしていた。
その日も、ユイは図書館の片隅で、無意識に古びた書物の背表紙を指でなぞっていた。黄ばんだ羊皮紙に記された、古代の天文学に関する記述。何気なく開いたページから立ち上る、埃とインクの匂いが、妙に心地よかった。その瞬間、目の前が一瞬で歪んだ。書物に吸い込まれるような感覚に襲われ、次の瞬間には、全身が浮遊するような浮遊感と、冷たい風が頬を撫でる感触に包まれていた。
目を開けると、そこは図書館の無機質な白い壁ではなかった。視界を埋め尽くすのは、青みを帯びた植物が密集する、深く幻想的な森。頭上には、現実世界の夜空では決して見ることのない、巨大な惑星が複数、鮮やかな光を放ちながら浮かんでいた。その惑星の一つは、まるで誰かに齧られたかのように、大きく欠けている。耳に届くのは、聞いたことのない鳥たちのさえずりや、木の葉が擦れ合う、神秘的な音色。まるで夢の中にいるような、しかし五感に訴えかけるほどの鮮烈な現実感に、ユイは息を呑んだ。
傍らに目をやると、草むらに埋もれるように、一つのペンダントが落ちていた。それは、銀色の小さな星型をしており、中央が欠けていた。見たこともないはずなのに、なぜか心の奥底が締め付けられるような、懐かしさを覚える。そのペンダントを手に取った瞬間、微かな熱が指先に伝わり、ユイの心に漠然とした「探し物」の予感が芽生えた。
「――そこにいるのは、漂流者か?」
背後から、透き通るような声が響いた。振り返ると、細身の体躯に軽やかな森の色をまとった少女が、弓を構えてユイを見つめていた。尖った耳に、夜空の星を閉じ込めたような瞳。エルフだ。ユイはアニメや小説でしか見たことのない存在に、驚きを通り越して呆然とした。少女は弓を下ろし、ゆっくりと歩み寄る。
「警戒する必要はない。ここは森の奥。人間が一人で来る場所ではない。貴女はどこから来た?」
リアナと名乗るそのエルフの少女は、ユイが別世界から来たことを瞬なく理解しているようだった。彼女は「アストラル」と呼ばれるこの世界には時折、ユイのような「漂流者」が流れ着くのだと説明した。漂流者は皆、何かを失い、何かを求めていると。ユイには、自分が何を失ったのか、何を探しているのかすら分からなかったが、リアナの言葉と、手の中の欠けたペンダントが、かすかな希望の光を灯した。リアナはユイを自分の村へ案内し、長老に会わせることにした。森の奥深くへと続く道を、ユイは半信半疑のまま、リアナの後を追った。彼女の胸には、この奇妙な世界での新たな旅への、期待と不安が入り混じっていた。
第二章 忘れられた歌、響く木々の囁き
リアナに導かれ辿り着いたエルフの村は、巨木に寄り添うようにして築かれていた。木々の葉は虹色に輝き、小川のせせらぎはまるで歌を奏でているかのようだ。村人たちは皆、穏やかな表情で、ユイのような異邦人に対しても温かい視線を向けた。リアナはユイに、村の生活と、このアストラル世界の成り立ちを教えてくれた。ここでは自然が全てであり、人々は星々の導きに従って生きているという。
村の長老は、リアナの祖母にあたる、深く皺の刻まれた顔に知性の光を宿した女性だった。長老はユイが持つ欠けたペンダントを興味深げに眺め、静かに語り始めた。「このアストラル世界は、本来あるべき姿ではないのかもしれない。それは、誰かの『失われた記憶の断片』が編み上げた、巨大な夢の世界だという伝承がある。そして、その夢の主が、自らの記憶を取り戻すことでしか、世界は真の光を取り戻せない、と。」
長老の言葉は、ユイの心を深く揺さぶった。失われた記憶。もしこの世界が、自分の失った記憶から生まれたものだとしたら、なぜ自分は何も思い出せないのだろう? 長老はさらに続けた。「貴女のペンダントは、『星の歌』と呼ばれる古代の伝承に繋がると言われている。それは、失われたものを呼び戻す、あるいは忘れ去られた真実を明らかにする力を持つだろう。」
村での日々は、ユイにとって不思議な感覚の連続だった。食事の匂い、風の音、リアナが奏でる優雅な竪琴の音色。それら全てが、どこか懐かしい響きを帯びていた。リアナとの他愛ない会話の中で、ユイは時折デジャヴのような感覚に襲われた。村の広場で子供たちが遊ぶ姿、夕暮れ時にリアナが口ずさむ古い歌。断片的なイメージが脳裏をよぎるが、それが何であるか理解できない。まるで、遠い昔に経験した出来事の残像のようだった。
ある日、リアナはユイを連れて、村から少し離れた古い遺跡へと向かった。そこは、かつて「星の歌」が響いたとされる場所で、今は苔むした石柱が立ち並ぶのみだった。遺跡の中央には、巨大な石の祭壇があり、その表面には、ユイが持つペンダントと同じ、星型のくぼみが彫られていた。リアナは、古文書に記された「星の巡りが最も高まる時、真実の扉が開かれる」という一節を口にした。その日の夜、空には欠けた惑星がいつも以上に近く、鮮やかに輝いていた。ユイは、自分の心に渦巻く漠然とした喪失感の正体を突き止めるため、意を決して祭壇の前に立った。
第三章 崩壊の兆し、真実の星屑
リアナが古文書から読み解いた通りの時刻、欠けた惑星が遺跡の祭壇の真上に位置した。月光ならぬ「惑星光」が祭壇に降り注ぐ中、ユイは震える手で、大切に握りしめていた欠けた星のペンダントを、祭壇のくぼみにそっと嵌め込んだ。
その瞬間、ペンダントはまばゆい光を放ち始めた。光の粒子が空間を舞い、まるで時が巻き戻るかのように、空中に失われていたもう半分が実体化した。欠けた星は再び完全な姿を取り戻し、以前よりもずっと強く、そして温かく輝き出した。その光がユイの全身を包み込んだ時、彼女の脳裏に激しい閃光と記憶の奔流が押し寄せた。
それは、忘れ去られていたはずの、鮮烈な過去の映像だった。
幼い頃の自分。そして、隣には愛らしい笑顔を浮かべた小さな女の子、アリス。
二人はいつも一緒だった。公園で遊び、秘密基地を作り、そして、お揃いの星型のペンダントを宝物のように大事にしていた。アリスはいつも、空に輝く星を見上げ、「いつかお兄ちゃんとあの星まで行きたいね」と無邪気に笑っていた。ユイはアリスにとって、全てだった。そしてアリスも、ユイにとってかけがえのない存在だった。
映像は、やがて衝撃的な瞬間に切り替わる。
けたたましい車のクラクション。タイヤが路面を擦る耳障りな音。
そして、一瞬の暗転――。
あの日の交通事故だ。
ユイは、アリスを庇うように抱きしめた。その瞬間、全ての景色がスローモーションのように見えた。
アリスの小さな手が、ユイの服を掴んでいた。
「お兄ちゃん……だいすき……」
朦朧とする意識の中で、アリスはユイに微笑みかけ、そして、その小さな体から温かさが失われていった。
「嘘だ……」
ユイの口から、掠れた声が漏れた。
アストラル世界が、音を立てて崩れ始める。虹色の木々は色を失い、空に浮かぶ惑星は輝きを失っていく。リアナの焦った声が聞こえるが、ユイの耳には届かない。
この世界は、ユイが幼い頃に交通事故で亡くした妹アリスとの思い出、そしてその喪失によって心を閉ざし、封印した自身の記憶と心が具現化した世界だったのだ。
ユイは事故後、妹を失った悲しみと、自分だけが生き残った罪悪感、アリスを守れなかった後悔から、その記憶を深く心の奥底に封じ込めていた。異世界への転生は、その記憶を取り戻し、心を癒すための「無意識の旅」だったのだ。
そして、リアナ。彼女は、ユイの妹アリスの面影を持つ存在であり、この世界の創造主であるユイ自身の「潜在意識」が生み出した、ユイを導くガイドだった。村の長老も、ユイが幼い頃に読んでいたおとぎ話の登場人物が具現化したものだった。この世界の全てが、ユイの記憶の断片から生まれていた。
真実を知ったユイは、あまりの衝撃に膝から崩れ落ちた。世界が、自分が信じていた全てが偽物だと感じ、絶望が胸を締め付ける。同時に、失われた妹アリスへの深い愛情と、忘れてしまっていたことへの、言いようのない自責の念が溢れ出した。涙が止まらない。
「どうして……どうして忘れてしまったの、アリス……!」
その時、ユイの前にリアナがそっと膝をついた。彼女の瞳は、アリスがユイを見つめていた時と同じ、深い優しさに満ちていた。
「偽物なんかじゃない。この世界は、あなたの心が生み出したもの。だからこそ、ここにある感情は全て本物よ。痛みも、悲しみも、そして愛も……全て、あなたの心そのものなの。」
リアナの言葉が、崩れゆく世界の中で、唯一の真実としてユイの心に響いた。
第四章 記憶の修復、癒やしの光
アストラル世界は、ユイの慟哭に呼応するように、ますます激しく揺らぎ始めた。空に浮かぶ巨大な惑星には亀裂が走り、地面はひび割れ、幻想的だった森は枯れ木のような様相を呈している。このままでは、ユイの心と共に、世界そのものが消滅してしまう。
リアナは、ユイの手を握り、真剣な眼差しで訴えた。「世界を救うには、あなたが妹さんとの全ての記憶を受け入れ、過去と向き合う必要があります。忘れていた悲しみも、喜びも、後悔も、全てを抱きしめる勇気を持つこと。それが、この世界の、そしてあなたの心を癒す唯一の道。」
ユイは、リアナの言葉に突き動かされるように、再び目を閉じ、記憶の奔流へと身を委ねた。
幼い頃のアリスとの楽しかった日々。二人で隠れて食べたお菓子、一緒に見た花火、そして、空に輝く星々に夢を語り合った夜。一つ一つの記憶が、心に温かい光を灯していく。それは、悲しみだけではない、深い愛情に満ちた宝物のような時間だった。
そして、再びあの事故の瞬間がフラッシュバックする。
車が突っ込んでくる。アリスを庇った。アリスが微笑んだ。そして、温かい体が冷たくなっていく。
あの時、ユイはアリスを守れなかった自分を許せなかった。アリスを失った痛みに耐えきれず、その記憶全てを心の奥底に封じ込めたのだ。それは、痛みを避けるための、あまりにも残酷な自己防衛だった。
だが、あの時アリスが最後に微笑んだのは、ユイを守ろうとしたアリス自身の「愛」だったのだと、今なら分かる。アリスはユイを責めてなどいなかった。ユイを守り、そして愛していたのだ。
ユイは、失われた妹への愛情と、あの日の後悔を、今度こそ真正面から受け入れた。アリスとの記憶は、悲しいだけのものではない。それは、ユイの人生を豊かに彩る、かけがえのない思い出だったのだ。心を閉ざし、記憶に蓋をすることで、ユイはアリスとの美しい思い出までも葬り去ってしまっていた。
ユイが記憶の全てを受け入れ、妹への愛を再確認した時、アストラル世界に変化が訪れた。ひび割れた大地は癒え、枯れ木は再び緑を取り戻し、空に走っていた亀裂は消え去った。欠けていた惑星も元の姿を取り戻し、以前よりもさらに力強く、希望に満ちた光を放ち始めた。世界は、ユイの心と共に再生していく。それは、悲しみだけでなく、喜びや希望も織り交ぜられた、真の「心の風景」だった。ユイの内面には、失われていた温かさと、妹アリスへの変わらぬ愛、そして未来への希望が満ちていた。
第五章 再生する世界、そして旅立ちの朝
完全に修復されたアストラル世界は、以前にも増して、鮮やかな光と生命力に満ちていた。空には無数の星々が輝き、巨大な惑星は完全な球体となって、優しく世界を見守っている。ユイはリアナと共に、アストラル世界の中心にそびえ立つ、「記憶の樹」と呼ばれる場所へと向かった。
樹齢千年とも思われる巨大な樹は、虹色の葉を茂らせ、その根元からは澄み切った泉が湧き出していた。そこには、幼い頃のユイと、笑顔のアリスが立っていた。それは、ユイが心の奥底にしまい込んでいた、最も大切で、最も苦しい記憶の具現化だった。
ユイは、そっと幼い自分とアリスに語りかけた。
「ごめんね、アリス。忘れてしまって。でも、もう大丈夫。もう決して忘れない。あなたとの思い出は、ずっと、私の中に生き続けるから。」
アリスの姿は、ユイの言葉と共に、光の粒子となってゆっくりと消えていく。その光は、ユイの心に、温かい余韻を残していった。それは、悲しい別れではなく、記憶との和解、そして未来への希望を象徴する光だった。
ユイはリアナに深く頭を下げた。「ありがとう、リアナ。あなたがいなければ、私はきっと、永遠にこの場所を彷徨い続けていた。」
リアナは、アリスと同じ優しい瞳で微笑んだ。「いいえ。あなたは、最初から答えを知っていた。ただ、思い出すきっかけが必要だっただけよ。たとえ現実世界に戻っても、あなたの心はもう、一人ではない。アリスは、いつもあなたの傍にいるわ。」
その言葉を最後に、リアナの姿も、光となってユイの心へと溶け込んでいった。
ユイは、アストラル世界に別れを告げる。それは、失われた記憶を取り戻し、心を癒すための、終わりなき旅の終わりだった。
目を開けると、そこは図書館の古い書物の前だった。
夕日が窓から差し込み、埃の舞う空間をオレンジ色に染めている。頬を撫でる風は、現実世界の微かなものでしかなかったが、その冷たさが心地よかった。
傍らには、あの欠けた星のペンダントがあった。しかし、それはもはや欠けてはいなかった。完全に修復された、あの星型のペンダントが、夕日の光を受けて、静かに輝いている。
ユイの内面には、失われていた温かさと、妹アリスへの変わらぬ愛、そして未来への確かな希望が満ちていた。喪失感を抱え心を閉ざしていたユイは、異世界での旅を通じて、過去と向き合い、未来へと歩み出す強さを手に入れたのだ。
立ち上がり、窓の外の夜空を見上げる。あの欠けた惑星は、もうそこにはない。しかし、無数に輝く星々が、以前とは違う、優しい輝きを放っているように見えた。それは、ユイの心が世界を映し出す光景が変わった証だった。
もう、悲しい記憶に囚われることはない。アリスとの思い出は、ユイの心を照らす、永遠の光となった。ユイは、もう一度、アリスが大好きだった星を、その記憶と共に、静かに見つめた。