止まった砂時計と虹の波紋
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止まった砂時計と虹の波紋

第一章 波紋の街

俺、水上朔(みなかみ さく)には、奇妙なものが見える。人の影に揺らめく、透明な波紋。それは『後悔』という感情の可視化された姿だ。波紋の大きさや揺らぎの激しさは、その人物が抱える悔恨の深さに比例する。

雑踏に紛れ、俺はカフェの窓から街を眺めていた。恋人に心ない言葉をぶつけてしまった青年、その影にはさざ波のような波紋が絶え間なく広がる。事業に失敗し、家族を路頭に迷わせた初老の男、その足元には渦を巻くような澱んだ波紋が纏わりついている。この街は、声なき後悔で満ちていた。

だが、どれだけ他人の波紋が見えようと、俺自身の影にそれが映ることは一度もなかった。まるで、俺という人間には過去を悔やむ心そのものが欠落しているかのように。その事実が、俺を世界から一枚隔てた場所に立たせているような、薄ら寒い孤独感を常に与えていた。

「また、人の影ばかり見ておるのか」

ふと、背後からしわがれた声がした。振り向くと、古時計店の店主、時田さんが温かい紅茶を差し出していた。彼の影にもまた、亡き妻を一人で逝かせてしまったという、深く静かな波紋が揺れている。

彼の店の片隅には、俺が物心ついた頃から持っている砂時計が置かれていた。中央に細い亀裂が走り、中の白銀の砂は一粒たりとも落ちることがない。止まった時間の象徴。俺の空っぽな内面を映す鏡のようだった。

その日、俺は奇妙な光景を目にする。いつも公園のベンチで、戦友を見殺しにした過去を悔やみ、嵐のような波紋を揺らしていた老人がいた。その日、彼の影から、まるで陽炎が消えるように、ふっと波紋が掻き消えたのだ。老人は虚空を見つめ、その表情からは長年彼を苛んできたはずの苦悩が、記憶そのものと共に抜け落ちてしまったかのように見えた。

第二章 消えゆく記憶

その現象は、瞬く間に世界中に広がっていった。ニュースはこれを「限定的集団健忘症」と名付け、専門家たちが首を捻っていた。しかし、俺にはわかっていた。これは病気などではない。世界から、特定の種類の後悔が『消去』されているのだ。

俺は、消えゆく後悔にある共通点を見出していた。それは、「誰かを、何かを、守れなかった」という自責の念に起因する後悔だった。事故で子供を亡くした親から、助けられなかった友を持つ者から、その記憶に伴う痛みが根こそぎ奪われていく。

「なあ、朔。覚えてるか?昔飼ってた犬のコタロウのこと」

友人の健太が、こともなげに言った。

「あいつ、俺の不注意で車に轢かれて死んだだろ。昔は夢に見るほどうなされたけど、今じゃなんであんなに苦しんでたのか、さっぱり思い出せないんだ」

健太の影から、かつて確かに存在したはずの、激しい後悔の波紋は跡形もなく消えていた。彼の言葉には、コタロウへの愛情の温かみすら感じられない。まるで、他人事のように。

ぞっとした。後悔は確かに苦しい。だが、それは愛した記憶、大切だった証そのものではないのか。それを失うことは、魂の一部を削り取られることと同義ではないのか。世界は、静かに、そして確実に、大切な何かを失い始めていた。

第三章 亀裂の囁き

後悔の消滅が加速するにつれて、世界は物理的に軋み始めた。人々が抱える悔恨の念が発していた『時空の歪み』の均衡が崩れたのだ。街灯は不規則に明滅し、精密機械は理由もなく停止する。カフェのカップに注がれた水が、重力に逆らうように不自然に盛り上がる。空気は重く、まるで粘性を帯びたように肌にまとわりついた。

その夜、自室の窓辺で月を眺めていた俺は、信じられないものを目にした。あの止まっていた砂時計。その中央の亀裂から、一粒、また一粒と、白銀の砂がこぼれ落ちていたのだ。カタ、カタ、と微かな音を立てて。

止まっていた俺の時間が、世界の異変と呼応するように動き出した。

直感が告げていた。この現象の核心へ行かなければならない、と。最も強い時空の歪みが観測されている場所――街外れにそびえる、閉鎖された旧国立天文台。俺は震える手で砂時計を掴むと、夜の闇へと駆け出した。

第四章 未来からの訪問者

天文台の巨大なドームは、しんと静まり返っていた。床には厚く埃が積もり、差し込む月光がその軌跡を銀色に照らし出している。その中心に、一人の男が立っていた。俺と、瓜二つの顔をした男が。

男はひどく疲弊しきっていた。その体は陽炎のように揺らめき、向こう側の望遠鏡が透けて見える。だが、その瞳に宿る光は、鏡で見る俺自身のものと寸分違わなかった。

「待っていたよ、過去の俺」

彼の声は、囁くように掠れていた。未来から来た、もう一人の俺なのだと彼は言った。

未来の世界で、「守れなかった」という後悔の連鎖が、破滅的な災害を引き起こす巨大な『因果の癌』と化したのだという。それは人々の心を蝕み、やがては世界そのものを崩壊させるほどのエネルギーを持つに至った。彼は、その根源を断ち切るために過去へ跳び、原因となる後悔を消し去っていたのだ。

「他に、方法はなかったんだ」

そう呟く彼の影に、俺は目をやった。そこには、何一つ波紋はなかった。後悔という感情をすべて失った者の、空虚で、あまりにも悲しい影が横たわっているだけだった。

第五章 虹色の後悔

「ふざけるな!」俺は叫んだ。「後悔を消すことは、その人の人生を、心を奪うことと同じだ!お前は、世界から魂を抜き取っているんだぞ!」

未来の俺は、静かに頷いた。その半透明の顔に、初めて深い苦悩の色が浮かぶ。

「…わかっている。俺は、世界を救うために、世界で最も大切なものを壊して回っていた。人々が、愛した記憶と共に抱きしめていたはずの、尊い痛みを」

彼の体が、足元から光の粒子となって霧散し始める。因果律を歪めた代償。存在そのものが、この時間軸から消去されようとしていた。

「この行為こそが…」

彼は、最後の力を振り絞るように、俺を見つめた。

「…俺の、たった一つにして、最大の…取り返しのつかない後悔だ」

その言葉が、まるで遺言のように響き渡った瞬間。

彼の消えゆく意志が、激流となって俺の内に流れ込んできた。そして、俺の体に、生まれて初めて、巨大で、どうしようもなく温かい後悔の波紋が生まれたのだ。

――自分自身の存在を消してでも、世界を救おうとした。

その、あまりにも純粋で、悲しい自己犠牲の念から生まれた波紋は、七色の光を放っていた。まるで、夜明けの空に架かる虹のように。

その時、俺が握りしめていた砂時計の砂が、滝のように一斉に流れ落ちた。サラサラと音を立て、最後の白銀の粒が落ちきる。そして、カラン、と澄んだ音を立てて、完璧な姿を取り戻した砂時計は、静かに反転した。

第六章 新しい朝

未来の俺が消え、天文台に静寂が戻った。世界から異変の気配は消え、空気は澄み渡っていた。

街に戻った俺が見たのは、元に戻った世界だった。人々の影には、消えたはずの後悔の波紋が、再び静かに揺らめいていた。だが、それは以前とはまるで違って見えた。どの波紋の奥にも、あの時俺の体に宿ったものと同じ、微かな虹色の光が灯っていたのだ。それは絶望だけの澱みではない。後悔と共に存在する、許しや、明日への希望を示唆する、優しい光だった。

人々は、後悔の記憶を取り戻した。しかし、その記憶は、未来の俺が残した虹の光によって、新たな『選択肢』として書き換えられていた。過去は変えられない。だが、過去との向き合い方は、変えることができる。

俺は、自分の影をアスファルトに落とす。そこに、もう虹色の波紋はなかった。だが、その温かな重みは、確かに俺の胸の中心に残っている。未来の俺が命と引き換えに教えてくれた、後悔と共に生きていくことの意味。

俺は、止まっていた時間を乗り越え、初めて自分の後悔を受け入れることができた。

ポケットの中で、砂時計が新しい時を刻み始めている。不完全で、時に痛みも伴う、だが、だからこそ愛おしいこの世界で。俺は、もう一度歩き出す。


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