感情調律師と嘘吐きの鏡
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感情調律師と嘘吐きの鏡

第一章 灰色の雨と偽りの笑顔

ライルが住む街では、もう長いこと、色のある雫が降っていなかった。空から落ちてくるのは、ただ湿り気を帯びただけの、無味無臭な灰色の雨粒ばかり。かつては、人々の喜びが結晶となり、大地を黄金に染める『歓喜の雫』が降り注ぎ、恋人たちのときめきは、甘い香りを放つ『恋慕の雫』となって夜気を潤したという。

だが今、世界は渇いていた。感情そのものが、まるで薄められた絵の具のように、その彩度を失いつつあった。

ライルは市場の喧騒の中、一人立ち尽くす。彼の脳は、他者が感情を込めて吐く嘘を、揺るぎない真実として認識してしまう。果物屋の店主が、皺くちゃの顔に貼り付けた笑みで「これはとびきり甘いですよ、お兄さん!」と声を張る。ライルの耳には、それが絶対的な保証として響いた。しかし、その笑顔の奥にある、熟れすぎた果物を売りつけようとするかすかな侮蔑の感情は、彼の認識を奇妙にねじ曲げる。彼は店主の深い親愛を感じ取り、礼儀正しく一番高価な、しかし傷みかけた果物を買い求めてしまうのだ。

人々との間に生まれる、この微細で決定的な断絶。それがライルを常に孤独にした。彼は人の輪から離れ、灰色の雨が石畳を濡らす音だけを聴いていた。

「あなたが、ライルさんですね」

凛とした声に振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。濡れ羽色の髪を持つ、澄んだ瞳の少女。名をエリアと名乗った彼女は、世界の感情の源泉たる『原初の雫』を守る一族の末裔だという。

「どうか、あなたのそのお力を貸してください。世界が、感情が、死んでしまう前に」

エリアの言葉は真摯だった。だが、ライルの脳は、その言葉の底に沈む、途方もない重圧と微かな絶望を、『世界を救いたい』という強固な意志として変換して受け取っていた。彼はただ、その真っ直ぐな瞳の奥にある、自分には決して理解できないはずの『真実』に頷くことしかできなかった。

第二章 揺らめく鏡の記憶

エリアに導かれ、ライルは街の外れにある古びた神殿へと足を踏み入れた。そこはかつて、世界中から集められた色とりどりの感情の雫で満たされていたという。しかし今、祭壇に並ぶ器は干上がり、壁を彩っていたはずの結晶の輝きも失われ、ただ埃っぽい静寂が満ちているだけだった。

「これが、私達が守ってきたものです」

エリアが指し示したのは、神殿の最奥、月光が差し込む場所に安置された一枚の古びた手鏡だった。銀の蔓草模様が施された、何の変哲もない鏡。

「『嘘吐きの鏡』。伝説では、持ち主の心の嘘を暴くとされています。ですが、誰が手にしても、ただ姿を映すだけ……私達には、もう何も分からないのです」

彼女の声には、諦念の響きがあった。ライルは促されるまま、そっと鏡の縁に指を触れた。

ひやりとした感触。

その瞬間、鏡面が水面のように揺らめいた。映し出されたのはライルの顔ではなく、見知らぬ庭で膝を抱え、声を殺して泣いている幼い少女の姿だった。それは紛れもなく、幼い日のエリアだった。心配そうに駆け寄る大人に、彼女は涙を拭い、「大丈夫、転んだだけ。泣いてない」と懸命に笑顔を作る。

その『嘘』の裏にあった、どうしようもない悲しみという『真実の感情の欠片』が、鏡の中から溢れ出してくるようだった。

「どうして……」エリアが息を呑む。「これは、私がずっと昔に忘れてしまったはずの……」

ライルが触れたことで、『嘘吐きの鏡』は初めてその真の力を示した。それは嘘を暴くのではない。人が偽りの奥底に隠し、忘れ去ってしまった『真実の感情』を映し出す鏡だったのだ。

第三章 善意という名の排斥

鏡の力を確信した二人は、世界の秩序を司る長老たちの会合へと向かった。世界の感情が希薄化している原因は、彼らが推し進める政策にあるとエリアは考えていた。

壮麗な議事堂で待っていたのは、厳格な顔つきの長老たちだった。彼らは口を揃えて主張する。

「世界を蝕むのは、怒り、憎悪、悲しみといった『負の感情』だ。それらが引き起こす災害から人々を守るため、我々はそれらを浄化する儀式を行っている。これこそが善意であり、唯一の正道なのだ」

彼らの言葉は、純粋な善意と信念に満ちていた。ライルには、それが疑いようのない真実として聞こえた。しかし、その善意が、まるで草木を枯らす日照りのように、世界の潤いを奪っているとしたら?

「お願いです、儀式を止めてください!」エリアが声を上げるが、長老たちは聞く耳を持たない。彼らはライルの特異な能力を「不浄なもの」と蔑み、その存在自体を世界の調和を乱す異物と断じた。

「ならば、これを見ていただきたい」

ライルは意を決し、最も強硬に負の感情の排斥を訴える長老の一人に、『嘘吐きの鏡』を向けた。

鏡面が揺れ、映し出されたのは、燃え盛る家々を前に絶望する若き日の長老の姿だった。『怒りの雫』が引き起こした嵐で、彼は家族を失ったのだ。悲しみに暮れる暇もなく、彼はその深い悲しみを憎悪で塗り潰し、『怒り』そのものを根絶やしにすることを誓った。彼が排斥していたのは、世界のためではない。彼自身が向き合うことから逃げ続けた、巨大な悲しみという『真実』だった。

「やめろ……やめるのだ!」

長老は顔を歪め、己の過去を映す鏡を叩き割ろうと手を伸ばした。その瞳に浮かんでいたのは、彼が最も忌み嫌うはずの、純粋な『怒り』の色だった。

第四章 沈黙する世界の源泉

長老たちの制止を振り切り、二人は神殿のさらに奥深く、禁じられた聖域へとたどり着いた。そこは、世界のあらゆる感情の源泉、『原初の雫』が安置されている場所だった。

しかし、二人の目の前にあったのは、想像を絶する光景だった。

空間の中央に浮かぶ巨大な水晶のような雫は、その輝きのほとんどを失い、まるで生命の灯火が消えかけるように弱々しく明滅している。表面には無数のひびが走り、今にも砕け散ってしまいそうだった。そして、その周囲には、人々が『悪い』と決めつけ、捨ててきた感情の雫――淀んだ紫色の『憎悪』、濁った鉛色の『悲しみ』、どす黒い赤色の『怒り』――が、ヘドロのように分厚く堆積していた。

「なんてこと……これが、世界の真の姿……」

エリアが絶句した、その時だった。神殿全体が激しく揺れた。長老たちが、最後の手段として、世界中の『負の感情』を根絶するための大儀式を強行したのだ。

その瞬間、聖域に満ちていた最後の光が、ふっと音もなく消えた。

『原初の雫』は、完全に沈黙した。

まるで糸が切れた人形のように、世界から感情という名の『色』が抜け落ちていくのが分かった。外で鳴り響いていた嵐の音も、人々の叫び声も、すべてがぴたりと止む。エリアの瞳から、使命感も、絶望も、すべての光が消え失せ、彼女はただ虚ろに立ち尽くしていた。世界は、完全な無感動に支配されたのだ。

第五章 偽りの真実を紡ぐ者

静止した世界で、ただ一人、ライルだけが正気だった。

彼の脳は、他者の感情の嘘を真実として受け入れることで、常に感情の輪郭と意味を内側から再構築し続けてきた。だからこそ、世界から感情が失われても、彼の中にはその『原型』が残っていた。

彼は悟った。

世界が求めていたのは、善なる感情だけではない。喜びも、悲しみも、愛も、憎しみも。その全てが等しく世界を彩る真実であり、どれか一つでも欠ければ、世界はバランスを失う。『原初の雫』は、感情の多様性そのものを糧として輝いていたのだ。

人々が『負の感情』を排斥した行為は、自らの魂の一部を切り捨て、源泉を枯渇させる自殺行為に等しかった。

ライルは、虚ろなエリアの前に跪いた。

そして、彼女が失ってしまったはずの感情を、彼の能力を使って『嘘』として語りかける。

「エリア。君は絶望していない。君は、今も心の底から世界を救いたいと、強く、強く願っている」

それは、現状とは全く異なる、完全な嘘。

だが、ライルの脳がそれを絶対的な『真実』として認識した瞬間、その言葉は単なる音の羅列ではなく、純粋な感情のエネルギーとなってエリアの心に届いた。彼女の瞳に、微かな、しかし確かな光が灯る。

ライルは立ち上がり、沈黙した『原初の雫』に『嘘吐きの鏡』をかざした。

「お前は死んでいない。お前は、この世界のあらゆる感情を、再びその胸に抱くことができる!」

鏡はライルの『嘘』という名の真実に呼応し、まばゆい光を放った。そして、人々が捨ててきた無数の『真実の感情の欠片』――長老の悲しみ、エリアの不安、そしてライル自身の孤独――を光の奔流として映し出し、ひび割れた雫の中心へと注ぎ込んでいった。

第六章 雫は再び世界に満ちて

ライルは、すべてを受け入れることを決めた。

偽りの笑顔の裏にある軽蔑も、憎しみの言葉の奥底にある悲しみも、善意という名の排斥も。それらすべてが、歪んでいようとも、この世界に生まれた紛れもない『真実』なのだと。彼の能力は呪いではなかった。あらゆる感情を善悪で裁くことなく、等しく真実として受け入れるために与えられた、世界の歪みを正すための祝福だった。

彼の覚悟が触媒となり、『原初の雫』は注がれた感情の光を吸収し、再びその鼓動を取り戻した。

ひび割れが癒え、内側から七色の輝きが溢れ出す。

輝きは聖域から神殿へ、そして世界中へと広がっていった。

凍り付いていた人々の心に、感情の色が戻っていく。最初に世界を包んだのは、抑圧されていた『怒り』が引き起こす激しい嵐だった。次いで、深い『悲しみ』の雨が降り注ぎ、乾いた大地を潤した。やがて嵐は止み、雨は上がり、雲の切れ間から、暖かな『喜び』の陽光が差し込んだ。

それは混沌としていたが、間違いなく生命力に満ちた、世界の再誕だった。

ライルはもう、孤独ではなかった。彼は、人々の心に寄り添い、その複雑な感情の調和を取り戻す手助けをする『感情調律師』となった。

「ありがとう、ライル」

傍らに立つエリアが、柔らかく微笑んだ。

「……本当に、そう思っているわ」

ライルは、彼女の言葉を、ただ真っ直ぐな真実として受け止めた。彼の世界では、もう嘘も真実も分かつ必要はなかった。すべての感情が、ただそこに『在る』という真実だけで、十分に美しかったからだ。

空を見上げると、生まれたばかりの小さな虹色の雫が、きらきらと輝きながら、ゆっくりと降り注いでいた。


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