回帰する影、逆流する砂

回帰する影、逆流する砂

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第一章 影たちのざわめき

俺、湊(みなと)の目には、この世界が少しだけ違って見えている。人々が歩くその傍らには、決まって薄墨のような影が寄り添っているからだ。それは物理的な影ではない。彼らが心に秘める「未練」や「後悔」が形を成した、あり得たはずの「もう一人の自分」の姿だった。画家になる夢を諦めた老人の傍らには絵筆を握る若き日の影が、恋人と別れた女性の足元には幸せそうに微笑む花嫁姿の影が、ぼんやりと揺らめいている。

この街には奇妙な習わしがあった。人々は人生の節目で生まれた「後悔の欠片」を、街角の路地裏や古井戸といった「時の澱み」と呼ばれる場所に捧げるのだ。そうすることで心の整理をつけるらしい。だが、俺にはわかる。捧げられた後悔は消えることなく澱みに沈殿し、街全体に微細な時間の歪みを生み出している。澱みの近くを通りかかると、空気がわずかに重くなり、遠い昔のざわめきが聞こえる気がした。

最近、その影たちの様子がおかしかった。普段は主人に静かに付き従うだけの彼らが、妙にざわめき、現実世界に干渉しようとするかのように輪郭を濃くしている。喫茶店の窓から外を眺めていると、商談に敗れたらしいサラリーマンの隣で、成功したはずの「もう一人の彼」が怒りの形相で主人の肩を掴もうとしていた。ぞくりと背筋が冷える。

無意識に、ポケットの中の古い砂時計を握りしめた。幼い頃、失踪した幼なじみの陽菜(ひな)にもらった、ガラス玉に閉じ込められた小さなキーホルダー。この砂時計の砂は、本来決して落ちることがない。だが今、指先に伝わるガラスの冷たさの奥で、数粒の砂が重力に逆らって舞い上がるのを、確かに感じていた。

第二章 鐘楼と時の澱み

街の異変は、日を追うごとに深刻になっていった。交差点の真ん中で、老婆が突然泣き崩れた。「ああ、あなた。あの時、行かないでと言えばよかった」。彼女の傍らには、旅立つ夫を見送らなかった「もう一人の自分」の影が実体化しかけ、老婆を過去の駅のホームへと引きずり込もうとしていた。周囲の人々には、その異様な光景は見えていない。ただ呆然と立ち尽くす老婆を見ているだけだ。

俺は駆け寄り、老婆の肩を掴んだ。「しっかりしてください! ここは今です!」。俺の声が届いたのか、影は苦しげに揺らめいて薄れていく。老婆ははっと我に返り、涙を拭った。

この現象は、ある一点を中心に広がっているようだった。影が最も濃く、時間の歪みが強い場所。ポケットの砂時計は、街の旧市街を指すかのように、逆流の勢いを増していく。導かれるようにしてたどり着いたのは、街で最も古く、今では誰も使わなくなった「鐘楼」だった。苔むした石畳、蔦の絡まる壁。その足元には、街で最も深く、最も多くの後悔を吸い込んできた「時の澱み」が、濃紺の闇のように広がっていた。

空気が違う。澱みから吹き上げる風は、鉄錆と、遠い夏の夕立の匂いを運んでくる。ひゅう、と鳴る風の音に混じって、誰かの囁き声が聞こえる気がした。

「まだ、間に合う」

「やり直せる」

耳を塞ぎたくなるような後悔の残響。その中心で、砂時計がかつてないほど激しく逆流を始めた。

第三章 逆流する砂の記憶

鐘楼の澱みに近づいた瞬間、握りしめた砂時計が灼けるように熱くなった。視界が白く染まり、ぐらりと世界が揺れる。これは、ただの歪みじゃない。強い意志を持った過去への引力だ。

――ざあざあと、夏の終わりの雨の音がする。

幻視だった。砂時計が見せる過去の風景。俺はびしょ濡れの子どもで、鐘楼の下で雨宿りをしている。隣には、同じように濡れたワンピース姿の陽菜がいた。

「ミナトは臆病だもんね」

陽菜はそう言って、悪戯っぽく笑った。彼女はいつもそうだ。俺が躊躇う一歩を、いつも先に踏み出してくれる。

「この砂時計あげる。これはね、『勇気の砂時計』。砂が落ちきる前に決断すれば、何でもうまくいくおまじない」

彼女が俺の手に握らせた、ガラスの砂時計。中の砂は、なぜか最初から固まって落ちなかった。

「いつか、ミナトが本当に困った時、この砂がきっと助けてくれるよ」

その笑顔が、陽炎のように揺らめいて消える。はっと我に返ると、俺は変わらず鐘楼の前に立っていた。だが、澱みの中心に、今まで見たこともないほど濃く、巨大な影が浮かび上がっていた。それは、少しだけ大人びた陽菜の姿をしていた。俺の知らない、あり得たはずの彼女の姿。その影は、悲しげに、そして必死にこちらへ手を伸ばしていた。

第四章 もしも、あの日

「返して……」

陽菜の影が囁く。その声は、澱みに沈んだ無数の後悔と共鳴し、空間そのものを震わせた。街灯が明滅し、周囲の建物の輪郭がぐにゃりと歪む。他の人々の影たちも、主人の身体から離れ、陽菜の影に呼応するように暴れ始めた。街全体が、過去という名の渦に飲み込まれようとしている。

「何を返すんだ! 君は、陽菜はどこに行ったんだ!」

俺が叫ぶと、陽菜の影は苦しげに顔を歪めた。

「あの日を、返して……! あなたを救うために……私が選んだ、あの日を!」

その言葉と共に、影は凄まじい力で俺を過去へと引きずり込もうとした。抵抗できない。景色が猛スピードで巻き戻っていく。人々の笑い声、車のクラクション、蝉時雨。そして、全ての色と音が、一つの情景に収束していく。

あの日。陽菜が失踪する直前の、夏の午後。

俺たちはいつものように、街外れの踏切で遊んでいた。線路に落ちたガラス玉を拾おうと、俺が身を乗り出した、その瞬間だった。けたたましい警報音。迫り来る電車の轟音。動けなくなった俺を、陽菜が突き飛ばした。

――そうか。俺は、あそこで死ぬはずだったんだ。

だが、幻視の中の現実は違った。陽菜は俺を突き飛ばさなかった。代わりに、彼女は何かを強く願い、俺のポケットにあった砂時計が、一瞬だけ強く輝いた。すると、時間がほんのわずかに巻き戻り、俺はガラス玉を落とすことなく、無事に線路の向こう側へ渡っていた。俺が事故に遭うという未来そのものが、捻じ曲げられていたのだ。

そして、その代償のように、陽菜の姿が足元から透き通り、掻き消えていった。

第五章 君が捧げた後悔

影が俺に見せたかったのは、真実だった。陽菜は失踪したのではない。彼女は、自らの存在を「感情の供物」として時の澱みに捧げることで、俺が死ぬ運命を無理やり変えたのだ。彼女が持っていた、時間を操るほどの強い想い。それが、彼女自身の最大の「後悔」として、この鐘楼の澱みの核となっていた。

「あなたが生きていない未来なんて、いらなかった」

目の前の陽菜の影が、涙を流しながら呟く。

「でも、あなたを助けたことで、私はあなたと一緒にいる未来を失った。これが私の後悔。私の未練。だから、もう一度……あの日をやり直して、今度こそ、二人で助かる道を……」

彼女の後悔は、俺を救いたいという切なる願いそのものだった。この暴走は、俺を過去に引き戻し、より良い結末を求める彼女の魂の叫びだったのだ。街全体の時間を歪めてまで、たった一つの「もしも」を叶えようとしていた。

砂時計が、ポケットの中で静かに逆流を止めた。その意味を、俺は理解した。選択の時が来たのだ。彼女の願いを受け入れ、過去に戻るか。それとも、彼女が命懸けで与えてくれた、この現実を生きるか。

第六章 夜明けの選択

俺は、陽菜の影に向かって、一歩踏み出した。歪んだ時空の圧力が全身を軋ませる。だが、もう迷いはなかった。

「ありがとう、陽菜」

声が震える。頬を伝うのは、悲しみか、感謝か、もうわからなかった。

「君がくれたこの未来を、俺はちゃんと生きるよ。君がいない世界は、寂しい。辛い。毎日、君のことを思い出す。……でも、それが、君が俺にくれた時間なんだ。それを無かったことには、絶対にしない」

俺はポケットから砂時計を取り出し、陽菜の影へと掲げた。

「この砂時計は、『勇気の砂時計』なんだろ? だったら、俺は勇気を出すよ。君のいない未来を、一人で歩いていく勇気を」

俺の言葉が、澱みの奥深くまで染み渡っていく。陽菜の影の輪郭が、ゆっくりと光の粒子に変わり始めた。彼女は、最後にふわりと微笑んだ気がした。それは、俺の記憶の中にいる、あの夏の日のままの笑顔だった。

「さよなら、ミナト」

優しい声だけを残して、影は光と共に空へと昇っていく。それと同時に、街を覆っていた時間の歪みが霧散し、鐘楼に朝の光が差し込んできた。暴走していた影たちは静けさを取り戻し、何事もなかったかのように、それぞれの主人の足元へと戻っていく。

全てが終わった。街は、正常な時の流れを取り戻したのだ。

手の中の砂時計を見ると、固まっていたはずの砂が、さらさらと、静かに落ち始めていた。下へ、未来へと向かって。それはまるで、止まっていた誰かの時間が、再び動き出した証のようだった。俺はそれを強く握りしめ、夜明けの空を見上げた。そこに陽菜の姿はない。だが、彼女が守ってくれたこの世界で、俺は生きていく。彼女の願いと共に。

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