第一章 蒼光の残滓
湊(ミナト)の営む古道具屋『時のかけら』は、忘却の匂いがした。埃と古い木材が混じり合った甘く乾いた香りが、客のいない静寂のなかで、時間の澱のように沈んでいる。棚に並ぶのは、持ち主を失った品々。インクの染みが消えない万年筆、弦の切れたウクレレ、片方だけのイヤリング。それらは皆、かつて誰かの人生の一部だった。
その日も、湊はカウンターの奥で、手に入れたばかりの古い懐中時計を柔らかい布で磨いていた。銀色の蓋に刻まれた細かな傷の一つ一つが、見知らぬ誰かの物語を囁いているように思えた。窓の外、夕暮れのオレンジ色に染まる街路を人々が足早に通り過ぎていく。彼らの纏う「存在光度」が、淡いオーラとなって湊の目には映っていた。ある者は太陽のように眩しく、ある者は頼りない蝋燭の炎のように揺らめいている。
その瞬間、前触れもなく、それは来た。
心臓を直接鷲掴みにされるような激痛。それは単なる肉体的な苦痛ではなかった。見知らぬ老人の、八十年分の後悔と、たった一つの温かい記憶が、奔流となって彼の全身を駆け巡った。冷たいベンチの感触。孫娘の小さな手の温もり。そして、誰にも看取られることなく一人で逝くことへの、底なしの絶望。まるで自分の記憶であるかのように、その感情は彼の意識を焼き尽くした。
「……っ!」
湊はカウンターに手をつき、荒い息を繰り返した。数秒後、嵐が過ぎ去ったかのように痛みは消え、彼の額には脂汗が滲んでいた。震える視線を窓の外に向けると、先ほどまで雑踏に紛れていた一人の老人の姿が、陽炎のように揺らめき、急速に透明になっていくのが見えた。誰一人、その異変に気づかない。人々は彼を透かして歩き、彼のいた空間には何事もなかったかのように日常が続いていた。
老人が完全に消えた跡に、何かがカラン、と乾いた音を立ててアスファルトに落ちた。それは、青白い燐光を放つ、古い懐中時計だった。湊が今しがた磨いていたものと、よく似ていた。
第二章 共鳴する痛み
世界は静かに病んでいた。テレビのニュースキャスターが、神妙な面持ちで「突発性認識消失症候群」の世界的流行を伝えている。専門家たちは、極端な社会的孤立が原因だと分析していたが、誰もその本質を理解してはいなかった。人々は生まれながらに持つ「存在光度」を失い、誰の記憶にも留まることなく、世界から認識されなくなっているのだ。光度がゼロになった人間は、そこにいても、誰にも見えない。
湊は、店の奥にある小さな居住スペースで、拾ってきた懐中時計をテーブルに置いた。それはもう青白い光を放ってはおらず、ただの冷たい金属塊に戻っていた。あの老人の感情の奔流を思い出す。子供の頃、一度だけ公園で会ったことがある。迷子になった湊に、その懐中時計を見せて時間を教えてくれた、優しい人だった。そうだ、あの時、彼は別れ際に「忘れないでいようね」と笑ったのだ。
また、痛みが来た。今度は鋭く、短く。
胸を突き刺す焦燥感。認められたいと願いながら、誰にも声をかけられなかった少年の孤独。卒業式の日に、体育館の隅で壁に寄りかかっていた、ほとんど話したことのない同級生の顔が浮かぶ。彼が落とした万年筆を拾って手渡した、ほんの数秒の接触。
「ありがとう」
か細い声だけが、記憶の底から蘇る。湊は窓の外を見た。遠くの雑居ビルの屋上から、何かが煌めきながら落ちていくのが見えた。彼は駆け出していた。現場に残されていたのは、インクの切れた一本の万年筆だった。
この連鎖は、偶然ではない。
湊は確信していた。自分が感じる痛みは、過去に自分が何らかの形で関わり、「別れ」や「喪失」を経験した相手が放つ、存在の最後の叫びなのだ。そして、その叫びは、まるで彼を世界の崩壊へと引きずり込むための、呪いのように響いていた。
第三章 忘れられた栞
『時のかけら』の最も奥まった場所、陽の光さえ届かない一角に、湊だけが知る特別な棚がある。そこには、彼がこれまでに受け止めてきた痛みと共に回収した「忘れられた品々」が、墓標のように静かに並べられていた。懐中時計、万年筆、色褪せたリボン、錆びた鍵。
その中央に、一枚の押し花の栞が置かれている。
栞を見るたび、彼の胸は締め付けられる。それは、数年前に彼の前から忽然と姿を消した、たった一人の親友、ハルカが残したものだった。彼女が消える瞬間の感情は、これまでのどんな痛みよりも深く、永く、彼の魂を苛んだ。それは、愛と、絶望と、そしてほんの少しの安堵が入り混じった、あまりにも複雑な感情のモザイクだった。
『私たちは、絶対に忘れたりしない。もし世界中の人がお互いを忘れても、ミナトと私だけは、ずっと覚えている』
公園のブランコに揺られながら、ハルカはそう言って笑った。彼女の「存在光度」は、まるで真昼の太陽のように眩しかった。だが、そんな彼女でさえ、この世界から消えた。いや、消されたのか。
湊は栞にそっと指を触れる。ひんやりとした紙の感触。彼女はなぜ消えたのか? 世界で頻発するこの現象と、ハルカの消失は繋がっているのか? そして、なぜ自分だけが、この消えゆく魂の悲鳴を聞き続けるのだろうか。答えのない問いが、彼の心を蝕んでいく。この痛みは、罰なのだろうか。それとも、何かの役目なのだろうか。
第四章 結晶の囁き
世界の崩壊は加速していた。街のあちこちで、人々が輪郭を失っていく。湊は、もはや絶え間なく押し寄せる感情の奔流に、身も心も削られていた。彼自身の「存在光度」もまた、他人の痛みを引き受けるたびに、少しずつ弱まっているのを感じていた。
ある嵐の夜だった。激しい雨が店の屋根を叩き、世界中の嘆きが聞こえるようだった。湊が床に蹲り、新たな痛みに耐えていると、店の奥から今まで感じたことのない、強い光が放たれた。
ハッとして顔を上げると、信じられない光景が広がっていた。特別な棚に並べられた「忘れられた品々」が、一斉にまばゆい青白い光を放ち、共鳴し合っている。光は細い糸となって宙を舞い、店の中心でゆっくりと絡み合い、一つの巨大な光の塊――記憶の結晶を形作ろうとしていた。
その光の中心で、ひときわ強く輝いているのは、ハルカの栞だった。
何かに引き寄せられるように、湊はふらつく足で結晶に近づいた。そして、震える指先で、そっと栞に触れた。
その瞬間、宇宙が弾けるほどの情報と感情が、彼の脳内になだれ込んできた。それは個人の記憶ではなかった。何世代にもわたって人々が忘れ去ってきた、無数の愛、友情、感謝、そして悲しみ。握り合った手の温もり、交わした約束の言葉、些細な親切。世界を繋ぎ止めていたはずの、集合的記憶そのものだった。
彼は悟った。この現象は、誰かの悪意ではない。世界が、あまりにも多くの「忘却」に耐えきれなくなった末の、緩やかな自壊だった。人々が繋がりを軽んじ、記憶をないがしろにした結果、世界の存在光度の総量が限界まで低下していたのだ。そして、自分が受け止めてきた痛みは、消えゆく人々が最後に放つ「忘れないで」という祈りであり、世界を繋ぎ止めようとする最後の抵抗だったのだ。
第五章 存在の灯火
目の前の記憶の結晶は、不完全に揺らめきながら、か細い光を放っている。それは、世界を再起動させるための、最後の希望。しかし、それには核となる強大なエネルギーが必要だった。
湊は全てを理解した。この結晶に、自分がこれまで受け止めてきた全ての感情の奔流と、自らの「存在光度」の全てを注ぎ込めば、失われた記憶のネットワークを蘇らせることができる。だが、それは自身の完全な消滅を意味していた。肉体だけでなく、誰の記憶からも消え去る、真の無。
一瞬、恐怖が彼の心をよぎった。しかし、すぐにそれは消えた。脳裏に、消えていった人々の顔が次々と浮かび上がる。公園の老人、孤独だった同級生、そして誰よりも大切だったハルカの笑顔。
『私たちは、絶対に忘れたりしない』
そうだ、約束したじゃないか。
湊は静かに微笑んだ。それは諦めではなく、覚悟の笑みだった。彼は両手を広げ、まるで愛しい者を抱きしめるかのように、ゆっくりと記憶の結晶へと歩み寄った。
「みんなの想い、確かに受け取った。今度は、僕が返す番だ」
彼が結晶に触れた瞬間、湊の身体は足元から眩い光の粒子となって、サラサラと崩れ始めた。痛みはなかった。ただ、無数の温かい記憶に包まれるような、穏やかで満たされた感覚だけがあった。体感してきた全ての幸福、悲しみ、絶望が浄化され、純粋なエネルギーとなって結晶へと注ぎ込まれていく。彼は、世界の痛みそのものと、一つになった。
第六章 記憶の夜明け
湊という存在と引き換えに、記憶の結晶は極限まで輝きを増し、そして、静かに弾けた。光の波紋は音もなく世界中へと広がり、夜明け前の空を淡いオーロラのように染め上げた。
その光を浴びた人々は、ふと足を止めた。通勤途中のサラリーマンが、忘れていた幼馴染の顔を思い出す。喧嘩別れしたままだった老婆が、亡き夫との何気ない会話を記憶の底から掬い上げる。失われた繋がり、忘れ去られた温もりが、まるで長い夢から覚めたかのように、一人一人の心に蘇っていく。
街角で透明になりかけていた若者の輪郭が、みるみるうちに色を取り戻す。弱まっていた人々の「存在光度」が、再び力強い輝きを取り戻していく。世界は、忘却という長い眠りから目を覚ましたのだ。
主を失った古道具屋『時のかけら』だけが、ひっそりと静寂の中にあった。棚に並んだ品々は、もうあの寂しげな青白い光を放つことはない。代わりに、まるで持ち主の温かい記憶を宿したかのように、穏やかな光沢を帯びていた。
誰も、湊という名の青年がいたことを覚えてはいない。
しかし、人々が誰かを想い、失われた繋がりを大切にしようと心に決めた時、ふと胸の奥に灯る小さな温もりを感じるようになった。それは、世界中の記憶と一つになり、人々の心の中で永遠に鼓動し続ける、目に見えない守護者の息吹だった。
彼はもうどこにもいない。けれど、どこにでもいる。
忘却に抗う全ての人々の心の中に、その存在の灯火は、静かに、だが確かに燃え続けている。