色のない空に、君の温度を思い出す

色のない空に、君の温度を思い出す

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第一章 真珠色の喪失

僕、蒼井湊の世界は、人々の感情が放つ色でできていた。

喜びは弾けるようなレモンイエロー、悲しみは静かに沈むインディゴブルー、怒りは網膜を焼くマグマレッド。生まれつきの共感覚らしい。物心ついた時から、言葉よりも先に色で相手を理解してきた。グラフィックデザイナーという仕事に就いたのも、この色彩豊かな世界を誰かと分かち合いたかったからだ。

数多ある色の中で、僕が最も美しいと感じていたのは「愛」の色だった。それは、親が子に向ける慈しみや、友人が示す親愛、そして恋人たちが交わす情熱。それらすべての根源にある温かい感情は、決まって柔らかな光を帯びた真珠色として見えた。月の光を溶かし込んだような、穏やかで、どこまでも深い色。

そして、僕の日常で最も鮮やかな真珠色を放っていたのが、同僚の橘沙織だった。

彼女が笑うと、その周りに真珠色の粒子が舞った。彼女が誰かの仕事を手伝うと、感謝の言葉と共に温かい光がオフィスに満ちた。僕は四年もの間、彼女から溢れ出るその光に焦がれ、いつしか彼女自身を心から愛するようになっていた。彼女の存在そのものが、僕の世界を肯定してくれる絶対的な光だったのだ。

だから、決心した。臆病な自分に別れを告げ、この想いを伝えようと。

金曜の夕方、仕事を終えた沙織を屋上へと誘った。夕日がビル群を茜色に染め、僕の緊張を示すカドミウムオレンジのオーラが揺らめいている。対する沙織は、いつものように穏やかな真珠色をまとっていた。その光が僕の不安を和らげてくれる。

「橘さん、あの……」

深呼吸し、言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。

「蒼井くん、聞いてくれる? 私、結婚するの」

彼女はそう言って、はにかむように笑った。左手の薬指には、小さなダイヤモンドが夕日を反射してきらめいている。その背後には、知らない男の姿が、ぼんやりとした輪郭で僕には見えた。彼からもまた、強い真珠色の光が放たれ、沙織の光と溶け合って、一つの大きな光輪を形成していた。

時間が止まった。いや、僕の世界だけが、停止した。

思考が真っ白になり、耳鳴りがする。彼女の言葉の意味を、脳が理解するのを拒絶していた。

次の瞬間、僕の身に信じられないことが起こった。

目の前で輝いていた沙織の真珠色が、ふっと、テレビの電源が切れるように消えたのだ。いや、違う。彼女の色だけじゃない。街行く人々から、窓の向こうの家族から、遠く響く恋人たちの笑い声から、ありとあらゆる「愛」を示す真珠色が、僕の世界から忽然と姿を消した。

まるで、世界から一つの原色がごっそりと抜き取られたように。

「……おめでとう」

かろうじて絞り出した声は、自分のものではないように乾いていた。沙織は幸せそうに「ありがとう」と言って、僕の肩を軽く叩いた。その手から伝わるはずの温もりも、親愛を示す色も、何も見えない。ただ、無機質な体温だけがそこにあった。

その日を境に、僕の世界から真珠色は二度と現れなかった。愛という感情を、僕は見失ってしまったのだ。

第二章 色なき世界の住人

愛の色を失った世界は、驚くほど色褪せて見えた。

喜びの黄色も、悲しみの青も、以前のような鮮やかさを失い、まるで洗い晒してくたびれた布のようにくすんでいる。人々が浮かべる表情の機微が読み取れず、会話は薄っぺらな音の羅列になった。これまで色に頼って人間関係を築いてきた僕にとって、それはコンパスを失った航海に等しい。

仕事への影響は深刻だった。クライアントが求める「温かみのあるデザイン」が、どうしても作れない。僕が選ぶ色はどこか冷たく、人間味に欠けていた。モニターに並ぶ色彩見本を睨みつけ、かつて確かに見えていた真珠色を思い出そうとするが、記憶の中のそれは靄がかかったように曖昧で、再現することができなかった。

僕は焦っていた。失った色を取り戻そうと、必死にもがいた。両親に会いに行き、昔の写真を見返した。そこには確かに家族の愛があったはずなのに、僕の目には何も映らない。学生時代に恋をした場所を訪れても、そこはただの殺風景な場所に過ぎなかった。

僕の世界は、静かに、しかし確実にモノクロームへと近づいていた。

そんなある日、僕は公園のベンチで、一人の老人を見つけた。白髪を無造使に伸ばし、古びたジャケットを羽織ったその老人は、毎日同じ時間、同じ場所で、大きなスケッチブックに何かを描いている。

僕が彼に奇妙な興味を抱いたのは、彼の周りに、何の感情の色も見えなかったからだ。喜びも、悲しみも、怒りも、何もない。まるで、彼自身が感情を失ってしまったかのように、完全な「無色」だった。僕が色を失いつつあるように、この老人もまた、色なき世界の住人なのだろうか。

それから僕は、仕事の合間に公園へ通い、少し離れた場所から老人を観察するようになった。彼はただひたすらに、鉛筆を走らせている。時折、顔を上げて空を見つめ、またスケッチブックに視線を落とす。その横顔は、深い諦念を湛えているようにも、あるいは何かを超越した静けさをまとっているようにも見えた。

彼に話しかけてみたい衝動と、彼の静寂を壊すことへの恐れがせめぎ合う。僕たちは、色彩を失った者同士なのかもしれない。もしそうだとしたら、彼はどうやってこの色なき世界で息をしているのだろう。その答えが、僕を救う鍵になるような気がしてならなかった。

第三章 スケッチブックの告白

季節が移ろい、冷たい雨が降りしきる午後だった。いつものように公園を訪れると、老人の姿はなかった。彼がいつも座っていたベンチは雨に濡れ、その下に、一冊のスケッチブックが落ちているのが見えた。

僕は迷わず駆け寄り、それを拾い上げた。雨水が染み込む前に、と表紙を開いた瞬間、息を呑んだ。

そこに描かれていたのは、風景画ではなかった。「色」そのものだった。

最初のページには、燃えるような赤。次のページには、どこまでも深い青。ページをめくるたびに、生命力に満ちた緑、太陽のような黄色、夕暮れの紫と、驚くほど鮮やかで、力強い色彩が目に飛び込んでくる。それは単なる色の模写ではない。それぞれの色が持つ「感情」までが、紙の上で呼吸しているかのようだった。

そして、僕は最後のページで凍りついた。

そこに描かれていたのは、僕が失ったはずの、あの「真珠色」だった。温かい光を内側から放ち、見る者の心を穏やかにする、あの奇跡のような色。それは記憶の中の曖昧なものではなく、あまりにも生々しく、鮮烈な「愛」の色そのものだった。

「……それは、私の心臓のようなものだ」

背後から、しわがれた声がした。振り返ると、傘を差した老人が立っていた。僕は慌ててスケッチブックを差し出す。彼はそれを受け取ると、雨宿りのために東屋へと僕を誘った。

「あなたも、見える人か」老人は静かに言った。

僕はこくりと頷く。そして、沙織に失恋したあの日から、愛の色が見えなくなったことをぽつりぽつりと話した。

老人は黙って僕の話を聞いていたが、やがてスケッチブックの真珠色のページを開き、語り始めた。

「私もかつては、君と同じ世界を見ていた。感情は色であり、世界は色彩に満ちていた。特に、妻が放つこの真珠色は、私の全てだった」

彼の名前は、高村修平といった。五年前、彼は長年連れ添った最愛の妻を病で亡くした。彼女が息を引き取った瞬間、彼の世界から、すべての色が消え失せたのだという。

「絶望したよ。光を失った世界で、どう生きていけばいいのか分からなかった。だが、一年ほど経った頃だろうか。ふと気づいたんだ」

修平さんは、雨に煙る公園を見つめながら続けた。

「色は見えなくとも、感情はそこにある。妻との記憶、交わした言葉、手の温もり。それらは消えていない。私の心の中に、確かに存在している。見えないからといって、無いわけじゃない」

その言葉は、僕の胸に鋭く突き刺さった。

「だから、描き始めた。記憶の中にある妻の笑顔、人々がくれた優しさ、空の青さ、夕焼けの赤。心の中にある色を、この手で描き出すことで、私はもう一度世界と繋がろうと思ったんだ。この絵の具は、私の記憶そのものなのだよ」

衝撃だった。彼が無感情に見えたのは、感情がなかったからではない。ありったけの感情を内に秘め、それを一枚の絵に昇華させていたからだ。彼は失った世界を嘆くのではなく、心の中にある世界を、自らの手で創造していたのだ。

僕は、自分の愚かさを恥じた。色が見えるという能力に甘え、それこそが感情の全てだと思い込んでいた。見えなくなった途端、愛そのものが消えたと嘆いていた。

だが、違ったのだ。

見えないから無い、のではない。僕が見ようとしていなかっただけだ。

第四章 心で見る光

修平さんとの出会いは、僕の世界の見え方を根底から覆した。僕は、自分の過去を静かに振り返り始めた。

沙織への想いは、本当に彼女自身に向けられたものだっただろうか。それとも、彼女が放つ美しい「真珠色」に恋をしていただけではなかったか。僕は、色というフィルターを通してしか彼女を見ていなかったのかもしれない。彼女の言葉、仕草、悩みや喜び。その一つ一つに、きちんと向き合っていただろうか。答えは、否だった。僕は、自分の特殊能力に依存した、表層的な愛しか知らなかったのだ。

数日後、僕は結婚式を間近に控えた沙織に連絡を取り、会社の近くのカフェで会った。お祝いの品を渡すため、という口実で。

目の前に座る彼女の周りに、やはり真珠色は見えない。しかし、僕はもうそれに動揺しなかった。代わりに、彼女の表情を、声のトーンを、指先の微かな動きを、五感のすべてを使って感じ取ろうと努めた。

「準備、大変でしょう」

「そうなの! 席次表で揉めちゃって。でも、そういうのも含めて、なんだか楽しいんだけどね」

そう言って笑う彼女の目尻には、幸せそうな皺が寄っていた。その声は、弾むような喜びに満ちていた。僕は、その笑顔と声の中に、かつて見ていた真珠色よりもずっと深く、温かい「愛」の存在をはっきりと感じ取ることができた。それは視覚情報ではなく、心で直接受け取る、確かな温もりだった。

「橘さん、本当に、おめでとう。幸せになってください」

僕の言葉は、心からのものだった。何の色のオーラも出ていなかっただろうが、きっと僕の本当の気持ちは彼女に伝わったはずだ。彼女は少し驚いたように僕を見つめ、それから、「ありがとう、蒼井くん」と、これまでで一番優しい声で言った。

世界から色が完全に元に戻ることはなかった。しかし、僕の世界は以前よりもずっと豊かになった。色に頼らず、人の心の機微を想像し、言葉の裏にある感情を汲み取ろうとすることで、人間関係はより深く、複雑で、愛おしいものに変わっていった。

僕は今、新しいデザインのプロジェクトに取り組んでいる。それは、特定の色に頼らず、形と質感、そしてそれらが織りなす陰影だけで「温もり」を表現するという、僕にとっての新たな挑戦だ。

窓の外に目をやると、公園のベンチで修平さんが新しいキャンバスに向かっているのが見えた。彼の周りには、まだ色はない。僕の世界にも、まだ真珠色は戻らない。

けれど、それでいいのだ。

僕は静かに目を閉じる。すると、胸の奥深く、心臓のあたりに、自分だけの小さな光が灯るのを感じた。それは、誰かに見せるための色ではない。失ったものを嘆くのでもなく、誰かから与えられるのでもない。僕自身が、これまでの人生と、人との関わりの中で育んできた、内側から生まれた、かすかで、しかし確かな真珠色の光だった。

見えなくても、愛はそこにある。

色褪せた世界の中で、僕は今、誰よりも鮮やかなその真実を知っていた。

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