色のない記憶のオルゴール

色のない記憶のオルゴール

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第一章 黄金色の霧

水無月奏(みなづき かなで)の営む古物店『追憶の森』は、時間の澱が静かに溜まる場所だった。埃の匂いと古い木の香りが混じり合い、壁際に並べられた品々は、かつての主の息遣いを今に伝えている。奏にとって、この店は世界との間に引かれた、心地よい境界線だった。

彼には秘密があった。幼い頃から、人が強い想いを込めた物に触れると、その記憶が「色を帯びた霧」として見えるのだ。喜びは黄金色に、悲しみは藍色に、怒りは燃えるような緋色に。霧の中に揺らめく断片的な映像は、持ち主の魂のささやきそのものだった。この力ゆえに、奏は他人の感情の奔流に飲み込まれることを恐れ、人との深い関わりを避けて生きてきた。古物商は、彼にとって天職であり、完璧な隠れ家だった。

ある雨の日の午後、店の扉が軋みながら開いた。入ってきたのは、背を丸めた小柄な老婆だった。深く刻まれた皺の一本一本が、長い年月を物語っている。彼女は濡れた傘を丁寧に畳むと、震える手で風呂敷包みを解き、カウンターの上にそっと置いた。現れたのは、磨き込まれたマホガニー材の、古風な手回しオルゴールだった。

「これを、引き取っていただけませんか」

か細いが、芯のある声だった。

奏は無言で頷き、オルゴールにそっと指を伸ばした。触れた瞬間、彼の世界は一変した。経験したことのないほど濃密で、温かい黄金色の霧が、まるで生き物のように立ち昇ったのだ。霧の中には、陽光あふれる部屋で若い男女がワルツを踊る姿、生まれたばかりの赤ん坊をあやす優しい歌声、小さな手が母親の指を握りしめる感触までが、鮮やかに流れ込んでくる。幸福そのものを結晶化させたような、まばゆい記憶の洪水。奏は思わず息をのんだ。

だが、その幸福な光景の最後に、ほんの一瞬だけ、ぞっとするような異質なイメージが混じった。深い悲しみに打ちひしがれ、虚空を見つめる若い女性の横顔。そして、粉々に砕け散った手鏡の破片。黄金色の霧に混じる、一滴の濃紺のインクのように。

「お客様、このオルゴールは……」

奏が顔を上げると、老婆はすでに背を向けていた。

「もう、私には不要になったものですので」

それだけを言い残し、彼女は雨の煙る街並みへと消えていった。カウンターの上には、幸福と悲しみの残像を宿したオルゴールだけが、静かに佇んでいた。普段の奏なら、深入りはしない。物に宿る記憶は、あくまで過去の残滓。関わるべきではない。しかし、あの黄金色の温もりと、胸を抉るような一瞬の悲しみのギャップが、彼の心を掴んで離さなかった。奏は初めて、霧の向こう側にある物語を、どうしても知りたいという衝動に駆られていた。

第二章 褪せた楽譜

奏の探求が始まった。まず、オルゴールの底に刻まれた小さな焼き印に気づいた。『K.T. & Son's Clockwork』。この街の古い人間なら知っているかもしれない。奏はなじみの郷土資料館の司書を訪ね、古い商工名鑑をめくった。果たして、その名はあった。「桐谷時計店」。数十年前に廃業した、小さな家族経営の店だった。

資料によれば、店主は桐谷健一と妻の咲子。夫婦の写真が添えられていた。オルゴールの記憶に見た、幸せそうに踊る男女の面影がそこにはっきりとあった。奏の胸が小さく高鳴る。やはり、あの幸福な記憶は、この夫婦のものだったのだ。

しかし、調査はすぐに行き詰まった。桐谷夫妻は、三十年以上前に亡くなっていた。近隣の住民に聞き込みをしても、「優しいご夫婦だった」「腕のいい職人さんだった」という曖昧な記憶が語られるばかり。オルゴールを売りに来た老婆に繋がるような手がかりは、どこにも見当たらなかった。

諦めかけた奏は、もう一度オルゴールに触れた。黄金色の霧が再び立ち上る。彼は意識を集中させ、映像の細部に目を凝らした。赤ん坊をあやす若い咲子の背後、壁に一枚のカレンダーがかかっている。日付はぼやけているが、向日葵の絵が描かれていた。夏だ。そして、咲子が口ずさんでいたのは、この地方で古くから歌われている子守唄だった。

奏はふと、店の片隅に置かれた古いアルバムに目をやった。それは、以前引き取ったもので、街の祭りや行事の写真が収められている。パラパラとページをめくっていくと、一枚の写真に目が留まった。夏の商店街祭りの風景。その一角に、笑顔で客に応対する桐谷夫妻と、『桐谷時計店』の看板が写り込んでいた。そして、夫妻の傍らには、おかっぱ頭の小さな女の子が、はにかむように立っていた。

女の子。記憶の中には、赤ん坊しかいなかった。この子は誰だ?

奏は市役所へ向かい、さらに古い戸籍の記録を閲覧させてもらった。そこで彼は、桐谷夫妻に『晴(ハル)』という名の一人娘がいたことを突き止める。しかし、その記録の隣には、冷たいインクでこう記されていた。『昭和五十三年、死亡』。

奏は愕然とした。娘は、若くして亡くなっていたのだ。そうか、と彼は思った。オルゴールを売りに来た老婆は、桐谷咲子の母親か、あるいは姉妹なのかもしれない。娘夫婦と孫を亡くした悲しみから、幸福だった頃の記憶が詰まった品を手放したくなったのだろう。一瞬の悲しみの記憶は、娘たちの死を知った時のものに違いない。そう結論づけると、パズルのピースがはまったような気がした。だが、その納得は、心のどこかで奇妙な違和感を伴っていた。まるで、美しすぎる絵画に一点だけ、不自然な色が置かれているような感覚だった。

第三章 偽りの罪悪感

違和感の正体を突き止めるため、奏は過去の新聞縮刷版を調べることにした。ハルが亡くなったとされる、昭和五十三年の夏。指先がインクで黒くなるのも構わず、マイクロフィルムのページを繰っていく。そして、彼は小さな三面記事に釘付けになった。

『深夜の火災で夫婦焼死、女児は行方不明』

記事には、桐谷時計店が全焼したこと、焼け跡から店主の桐谷健一と妻・咲子の遺体が見つかったことが記されていた。しかし、娘のハルについては、『火災発生時、家の中にいたと思われるが、遺体は発見されず、行方不明』とあった。死亡、ではなかった。

奏の頭の中で、これまで組み立ててきた物語がガラガラと崩れ落ちていく。火事? オルゴールの記憶には、そんな惨劇の影は微塵もなかった。あるのはただ、陽光に満ちた幸福な日々だけ。そして、行方不明のハル。あの老婆は一体誰なんだ?

混乱したまま店に戻った奏は、すがるように再びオルゴールに手を置いた。今度は、ただ見るのではない。真実を知りたいと、心の底から強く念じた。

すると、奇跡が起きた。黄金色の霧の奥底、今まで見えなかった層から、新たな記憶の断片が滲み出てきたのだ。それは、炎の赤と、煙の黒に染まっていた。ごうごうと燃え盛る家。むせ返るような煙の中、幼いハルが誰かに強く抱きしめられている。必死に窓から運び出される光景。その腕の主は、近所に住んでいた若い女性だった。恐怖に歪みながらも、少女を庇うその顔。それは紛れもなく、先日店を訪れた老婆の、若き日の姿だった。

全ての点が、一本の線で繋がった。

あの老婆は、ハルの母親ではなかった。彼女は、火事で両親を亡くし孤児となったハルを不憫に思い、誰にも告げずに引き取り、自分の子として育てた「育ての親」だったのだ。オルゴールに宿る幸福な記憶は、桐谷夫妻のものではない。火事からハルを救い出した後、老婆がハルと共に築き上げた、新しい家族の記憶だった。

そして、奏が最初に見た、あの深い悲しみにくれる女性の横顔と、割れた鏡のイメージ。それは、成長したハルが、不慮の事故で亡くなった時の、老婆自身の絶望の記憶だったのだ。

老婆は、このオルゴールを「ハルの本当の両親の形見」だと信じ込んでいた。だからこそ、火事の記憶と結びつかなかった。彼女は、自分がハルから本当の親との幸福な時間を奪ってしまったという、偽りの罪悪感に苛まれていたのだ。そして、愛する育ての娘を失った悲しみと、その罪悪感から、ハルの「本当の家族の記憶」が詰まっていると信じるオルゴールを手元に置いておくことに耐えられなくなり、手放しに来た。その全てが、奏の胸に流れ込んできた。それはもはや、他人の記憶ではなかった。一人の人間が、愛ゆえに背負い続けた、あまりにも重く、そして尊い物語だった。

第四章 あなたの物語

翌日、奏はオルゴールを丁寧に布で包み、老婆の家を訪ねた。古いアパートの一室。ドアを開けた老婆は、奏の顔を見て一瞬驚き、すぐに警戒の色を浮かべた。

「何か、不都合でもございましたか」

「いいえ」と奏は静かに首を振った。「お返ししたいものがあって、伺いました」

部屋に通された奏は、テーブルの上にオルゴールを置いた。そして、ゆっくりと語り始めた。オルゴールに触れた時に見えた、黄金色の記憶について。陽光の中のワルツ、優しい子守唄、小さな手のぬくもり。老婆は黙って聞いていたが、その目には次第に涙が溜まっていった。

「どうして、あなたがそれを……」

「このオルゴールは、桐谷夫妻の記憶を宿してはいません」奏は、老婆の目をまっすぐに見つめて言った。「ここに在るのは、あなたの記憶です。あなたが、ハルさんを愛し、慈しみ、育てた日々の、かけがえのない記憶です」

奏は、火事の夜のことも語った。煙の中から少女を救い出した、勇敢な若い女性の姿を。その言葉に、老婆の顔から長年貼り付いていた仮面のようなものが、はらりと剥がれ落ちた。堰を切ったように、彼女は全てを語り始めた。火事の恐怖、一人残されたハルへの憐憫、真実を告げられなかった後悔、そして、ハルと共に過ごしたかけがえのない時間と、彼女を失った深い喪失感。

「私は、あの子の親になる資格なんてなかったのかもしれない。あの子の本当の幸せを、奪ってしまったのかもしれない……」

「資格なんて、誰が決めるんですか」奏の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。「あなたは彼女を愛した。命がけで守り、育てた。その事実に、偽りはありません。このオルゴールが、その証拠です」

奏は、オルゴールを老婆の手にそっと返した。老婆は、震える指でそれを受け取った。まるで初めて触れる宝物のように、何度も何度も、その滑らかな木肌を撫でた。頬を伝う涙が、オルゴールの上にぽつりと落ちた。

「ありがとう……ありがとう……」

それは、奏に向けられた言葉であり、天国のハルへ、そして、長年自分を縛り付けてきた過去へ向けた言葉のようにも聞こえた。

店に戻った奏は、西日でオレンジ色に染まる窓の外を眺めていた。不思議なことに、彼の目にはもう、物に宿る記憶の霧は見えなかった。その代わり、街を行き交う名もなき人々、その一人ひとりの背後に、それぞれの色を持った、語られることのない物語が揺らめいているように感じられた。

これまで彼は、他人の記憶に触れることを恐れていた。だが今は違う。記憶とは、過去に囚われるための楔ではない。人が人を愛し、生きてきた証そのものなのだ。その尊さを、奏は知った。

彼の古物店『追憶の森』は、これからもそこにあり続けるだろう。しかし、その意味は、奏の中で静かに、そして確かに変わっていた。そこはもう、過去を封じ込める場所ではない。語られざる物語を受け止め、その温もりを未来へとそっと手渡していくための、聖域となったのだ。奏は、ゆっくりと息を吸い込んだ。雨上がりの街の匂いには、確かな希望の香りが混じっていた。

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