残香のリレー

残香のリレー

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第一章 触れた記憶は、パンの香り

柏木湊(かしわぎ みなと)の仕事は、沈黙を片付けることだ。遺品整理士という肩書は、どこか無機質で、彼の日常を的確に表していた。彼は他人の人生の終着駅で、残されたモノたちに淡々と札を貼り、箱に詰めていく。感情の波に飲まれぬよう、常に凪いだ心でいることが、この仕事を続けるための唯一の自己防衛術だった。

湊には、秘密があった。それは、呪いとも祝福ともつかない、特異な体質。故人が最後に強く触れた遺品に手をかざすと、その人物が死の直前に感じていた「一つの五感」が、稲妻のように湊の脳を貫くのだ。ある時は、窓から差し込む冬の陽光の眩しさ。またある時は、耳を劈く救急車のサイレン。そのほとんどは、苦痛や後悔、あるいは無の感覚であり、湊の心を静かに蝕んでいった。

その日、湊が訪れたのは、都心から少し離れた古びたアパートの一室だった。依頼主は高遠靜(たかとお しず)、八十二歳。孤独死だったと、遠縁の親戚だという男が電話口で事務的に告げた。ドアを開けると、カビや埃の匂いではなく、微かにひなたの匂いがした。部屋は驚くほど整然としていた。磨かれた床、きちんと畳まれた膝掛け、背表紙の焼けた文庫本が並ぶ小さな本棚。まるで、ついさっきまで主がここで穏やかに暮らしていたかのようだ。

湊はいつもの手順で作業を始めた。衣類をまとめ、食器を新聞紙で包む。その手は機械的で、心は遠い場所にあった。しかし、小さなちゃぶ台の上に置かれた一冊のスケッチブックが、彼の注意を引いた。ごく普通の、画材店で売っている安価なものだ。表紙には何も書かれていない。何気なく、そのざらりとした表紙に指先で触れた。

その瞬間、世界が反転した。

湊の鼻腔を、圧倒的なまでの幸福な香りが満たした。それは、焼きたてのパンの香りだった。小麦が焦げる甘く香ばしい匂い、溶けたバターの芳醇な香り、そして酵母が生きていることを主張する、かすかに酸味を帯びた温かい匂い。それは孤独な死の部屋に似つかわしくない、生命力に満ち溢れた、温かい記憶だった。湊は思わず息を呑んだ。これまで幾度となく死の残滓に触れてきたが、こんなにも優しく、満ち足りた感覚は初めてだった。

高遠靜。あなたはいったい、最期に何を見ていたのですか。一人きりの部屋で、なぜ、焼きたてのパンの香りに包まれていたのですか。その謎は、凪いでいたはずの湊の心に、小さな波紋を広げた。

第二章 沈黙のスケッチブック

その日から、湊の頭の中からパンの香りが離れなかった。作業を進めるほど、高遠靜という女性の人物像は、謎を深めていった。日記や手紙の類は見つからず、親しい友人との写真も一枚もない。依頼主の言った通り、彼女は人付き合いを好まず、孤独の中に生きていたのだろうか。

だが、部屋の隅々には、その印象を覆すような痕跡が散りばめられていた。窓辺には、葉の一枚一枚が丁寧に拭かれた小さな観葉植物の鉢植えが並び、キッチンには使い込まれた泡立て器や麺棒が大切そうに置かれていた。それは、日々のささやかな営みを慈しむ人間の手つきを物語っていた。

湊は再び、あのスケッチブックを手に取った。ページをめくると、鉛筆で描かれた柔らかなタッチの風景画や静物画が現れた。公園のベンチ、窓辺の花瓶、道端の猫。どれも特別な被写体ではないが、描いた人間の優しい視線が感じられる絵だった。しかし、最後の数ページは、真っ白なままだった。いや、よく見ると、消しゴムで消された跡が微かに残っている。それは紛れもなく、丸いパンの形をしていた。

「どうして、これを消したんだ…?」

普段の湊なら、そんな感傷は仕事の邪魔だと一蹴しただろう。だが、あの鮮烈なパンの香りの記憶が、彼を単なる作業員であることを許さなかった。彼は故人のプライバシーの境界線を踏み越えている自覚はあったが、どうしても知りたかった。この温かい香りの正体を。彼女の人生の最後の瞬間に、確かに存在した幸福の欠片を。

湊は、遺品の中から古びたレシートの束を見つけ出した。その中に、一枚だけ日付の新しいものがあった。彼女が亡くなった日の朝の日付だ。店の名は「ひだまりベーカリー」。住所は、このアパートから歩いて数分の場所だった。

湊は、その小さな希望の糸をたぐり寄せるように、アパートを出た。午後の柔らかな日差しが、彼の背中を押しているような気がした。仕事の範疇を逸脱したこの行動が、自分の心をどう変えるのか、彼自身にもまだ分かなかった。

第三章 ひだまりの告白

「ひだまりベーカリー」は、商店街の路地裏にひっそりと佇んでいた。ガラス張りの扉の向こうには、焼きたてのパンが温かい光を放ちながら並んでいる。湊がドアベルを鳴らすと、「いらっしゃいませ」という明るい声と共に、あの記憶と同じ、甘く香ばしい匂いが彼を包み込んだ。

カウンターの奥から現れたのは、小麦粉を頬につけた若い女性だった。彩(あや)と名札にある。湊は少し躊躇いながらも、靜の写真を彼女に見せた。

「この方をご存知ありませんか?」

彩は写真を見ると、ぱっと顔を輝かせた。

「高遠さん!もちろん知っています。毎日、朝一番に来てくださる常連さんでしたから」

その言葉は、湊の予想を裏切るものだった。孤独を愛した気難しい老人ではなかったのか。

「彼女は…どんな方でしたか?」

「とても静かで、優しい方でした。いつもクリームパンを一つだけ買って、店の隅の席でゆっくり食べていかれるんです。そして…」

彩は言葉を切り、少し寂しそうに目を伏せた。

「そして、私に絵を教えてくれていたんです」

湊は息を呑んだ。彩は、ぽつりぽつりと語り始めた。彼女はパン職人であると同時に、パンの絵を描くのが夢だったこと。その夢を打ち明けたとき、常連客だった靜が「それなら、私が少しだけ手伝ってあげましょう」と、スケッチブックを手に、絵の描き方を教えてくれるようになったこと。

「高遠さんは、私の先生だったんです。亡くなる日の朝も、ここに来てパンを買っていかれました。その時…」

彩の声が震えた。

「このスケッチブックを、私に渡そうとしてくださったんです。『あなたへの最後の課題よ。あなたが一番美味しいと思うパンの絵を描いてごらん』って。でも、他のお客さんが入ってきてしまって…高遠さん、『また後で』と言って、スケッチブックを持ったまま店を出て行かれたんです。それが、最後になるなんて…」

湊の脳裏で、すべてのピースが繋がった。

靜は、孤独ではなかった。彼女は、若いパン職人の夢を静かに応援し、温かい繋がりの中にいた。湊が追体験したあのパンの香りは、死の間際の孤独な部屋で嗅いだ幻ではなく、この店で、彩にスケッチブックを渡す直前に感じた、希望と優しさに満ちた本物の香りだったのだ。

彼は愕然とした。自分の仕事は、ただモノを片付けることではなかった。時として、故人が誰かに渡そうとしていた「最後の想い」そのものを、知らぬ間に処分してしまう行為でもあったのだ。スケッチブックに描かれず、消されたパンの絵。それは、彩に託されるはずだった、未来の絵だった。湊の価値観が、根底からガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。

第四章 渡されたバトン

湊はアパートに戻ると、すぐに依頼主である遠縁の親戚に電話をかけた。事情を説明し、高遠靜の最後の想いを告げた。電話の向こうの男は、しばらく黙っていたが、やがて「…そうですか。そのスケッチブックは、そのパン屋さんに渡してあげてください」と、静かな声で言った。

翌日、湊は再び「ひだまりベーカリー」を訪れた。そして、あのスケッチブックを、彩に手渡した。

「高遠さんからの、預かりものです」

彩は、震える手でそれを受け取ると、表紙をそっと撫でた。彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ち、スケッチブックの上に小さな染みを作った。

「ありがとうございます…ありがとうございます…。先生の最後の課題、私、必ず描きます。世界で一番美味しいパンの絵を」

湊は何も言わず、ただ頷いた。店を出ると、背後でカラン、と軽やかなドアベルの音がした。それはまるで、一つの物語の終わりと、新しい物語の始まりを告げる合図のようだった。

彼の鼻腔に、店のパンの香ばしい匂いが流れ込んでくる。それはもう、死の記憶の断片ではなかった。誰かの優しさが、別の誰かの未来へと受け継がれていく、温かい希望の香りそのものだった。

これまで湊は、故人の最後の五感に触れるたび、人の生の儚さと虚しさを感じてきた。その記憶は、彼の心に薄い膜のように蓄積し、世界を灰色に見せていた。だが、高遠靜が遺した香りは、その灰色の膜を溶かし、世界にささやかな彩りを取り戻してくれた。

遺品整理の仕事は、これからも続くだろう。そして、彼はこれからも、数多くの死の記憶に触れることになる。しかし、もう以前のようには感じないだろう。人の想いは、肉体が滅びても消えるわけではない。それは残されたモノに宿り、誰かに見つけられるのを待っている。自分の仕事は、その見えないバトンを、次の走者に手渡すための、ささやかな手伝いなのかもしれない。

湊は、次の現場へと向かう車を走らせた。フロントガラスの向こうには、どこまでも続く青い空が広がっていた。遺品に触れることを、彼はもう恐れてはいなかった。時に悲しく、時に苦しい記憶に出会うだろう。だが、その中にはきっと、ひだまりのパンのような、温かい記憶も眠っているはずだから。彼の口元に、いつの間にか微かな笑みが浮かんでいた。

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