琥珀の時、紫紺の霧

琥珀の時、紫紺の霧

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第一章 紫紺の霧と鉛の少女

俺、湊 海(みなと かい)の目には、世界は常に煙っている。他人の心の裡に渦巻く『無意識の嘘』が、微細な色の霧となって視えるからだ。後悔は深海のような青、嫉妬は淀んだ緑、そして隠された愛情は桜の花びらのような淡いピンク色をしていた。俺はその霧に触れることで、嘘の根源にある真実の感情を、ほんの数秒だけ追体験してしまう。厄介なだけの呪いのような能力だ。

だから、俺は人との関わりを極力避けて生きてきた。探偵まがいの仕事で糊口をしのぎながら、感情の霧が薄い路地裏を好んで歩く。

その日、俺の事務所の古びたドアを叩いた女性、橘沙耶(たちばな さや)が連れてきたのは、小さな妹のユイちゃんだった。そして、俺は息を呑んだ。わずか五歳の少女の背中に、まるで巨大な亀の甲羅のように、鈍色の鉛でできた『重り』が食い込んでいたからだ。この世界では、人が抱える深い後悔や未練が、物理的な『重り』となって体に現れる。だが、子供に、それもこれほど巨大で重苦しい鉛の重りなど、あり得ない。

「助けてください。一週間前、突然……。ユイには、こんな後悔をするような覚えは、何一つないはずなんです」

沙耶の言葉は、悲痛な響きを帯びていた。彼女の周りには心配を示す水色の霧が漂っている。だが、ユイちゃんの周りに揺らめく霧は、俺がこれまで一度も見たことのない、不吉で禍々しい紫色をしていた。まるで毒の華が開く前の蕾のような、濃密な紫紺の霧。それは個人の嘘の色ではなかった。もっと大きな、得体の知れない何かの気配がした。

第二章 琥珀に眠る記憶

調査を始めると、同様の現象が街のあちこちで起きていることがわかった。特に子供や、これまで重りとは無縁だった善良な人々に、突如として黒曜石や錆びた鉄塊といった、不釣り合いなほど巨大な重りが現れている。そして、彼らの周りには決まって、あの紫紺の霧がまとわりついていた。

俺は意を決して、ユイちゃんの霧にそっと指先を伸ばした。

触れた瞬間、脳を直接殴られたような衝撃が走る。知らない男の絶望。見知らぬ老婆の悲嘆。無数の人々の、声にならない叫びが濁流のように流れ込んできて、俺は膝から崩れ落ちた。これはユイちゃんの感情じゃない。誰だ。いや、誰でもない。これは、この街そのものが発する巨大な悲鳴のようなものだった。

混乱する頭で、俺は引き出しの奥から祖父の形見を取り出した。古びた琥珀の懐中時計。かつて祖父が、この能力を持つ俺のために遺してくれた唯一の品だ。言い伝えによれば、この琥珀は『嘘の霧』を一時的に結晶化させる力があるという。

震える手で懐中時計をユイちゃんの霧にかざすと、琥珀が淡い光を放ち、紫紺の霧を吸い込み始めた。やがて、手のひらに小さな紫水晶のような結晶が残った。それを覗き込むと、万華鏡のように映像が乱反射していた。燃え盛る街、泣き崩れる人々、そして……崩壊し、ひび割れていく巨大な歯車のイメージ。世界の終わりを幻視しているかのようだった。

第三章 重りの管理者

俺が掴んだ断片的な情報を追ううち、黒服の男たちが前に立ちはだかった。「秩序維持局」と名乗る彼らは、重りが現れた人々を強制的に連行し、どこかへ隔離している組織だった。

「これ以上、首を突っ込むな。これは我々の管轄だ」

リーダー格の男、静馬(しづま)は氷のように冷たい声で言った。彼の周りにも霧はあった。だがそれは、あらゆる色を塗りつぶしたかのような、感情の読み取れない無機質な灰色の霧だった。まるで、心を殺した人間の色だ。

俺は彼らを、この異常事態を引き起こした元凶だと睨んだ。非人道的な人体実験か、あるいは何か巨大な陰謀が動いているに違いない。沙耶とユイちゃんを守るためにも、引き下がるわけにはいかなかった。俺は秩序維持局の施設に単身潜入することを決意した。彼らが何を企んでいるのか、この目で確かめるために。

第四章 世界の亀裂

施設の最深部は、巨大な伽藍のようだった。眩い光と機械の駆動音が鳴り響く中央に、天を突くほどの巨大な装置が鎮座している。そして、俺は信じがたい光景を目にした。隔離された人々から外科的に切除された無数の『重り』が、ベルトコンベアでその装置へと運ばれ、エネルギーに変換されていたのだ。

装置の中心部には、空間そのものが引き裂かれたような、漆黒の『亀裂』が口を開けていた。それはまるで、世界の心臓に開いた傷のようだった。

「見てしまったか」

背後に静馬が立っていた。しかし、その声に敵意はなかった。諦観と、深い疲労が滲んでいる。

「あれが、この世界の真実だ」と彼は言った。「我々の世界を流れる『時間』を管理するシステムが、崩壊寸前なのだ。あの亀裂から、世界の存在そのものが漏れ出している」

彼の口から語られた真実は、俺の想像を遥かに超えていた。『重り』は単なる後悔の具現ではなかった。それは、人間の感情エネルギーを分離・貯蔵するための器。秩序維持局は、人々の後悔や未練といった強い感情エネルギーを『重り』として集め、崩壊する時間システムを修復するための燃料にしていたのだ。

「子供たちにまで重りが現れたのは、純粋な魂が持つ感情エネルギーが、最も高純度だからだ。苦渋の選択だった。だが、こうでもしなければ、世界はとうに終わっていた」

そして、紫紺の霧。あれは個人の嘘ではなかった。世界そのものが発する「終わり」への無意識の恐怖と、それを認めないという巨大な自己欺瞞が生み出した、終末の霧だったのだ。

第五章 最後の嘘

「君の祖父は、このシステムの設計者だった」

静馬は俺の持つ琥珀の懐中時計に目を向けた。それは、システムに過大な負荷がかかった際の、最後の安全装置として作られたものだという。そして、その起動キーは、この世界で最も強く、特殊な『嘘の霧』。

「湊 海。君自身の霧だ。君の霧を、この時計で結晶化させろ。それが、世界を救う最後の希望だ」

俺は、初めて自分自身の内側へと意識を向けた。俺の周りに漂う霧は、何色だ?

――誰かを救いたい。困っている人を助けるのが、俺の存在意義だ。

それは嘘だった。心の奥底で燃え盛る、本当の感情。それは、この忌まわしい能力を持つ自分が、他人より優位な、特別な存在でありたいという醜いエゴ。そして、世界なんてどうなってもいいから、この呪われた目から解放されたいという、破壊的な渇望だった。

俺の身体から、これまで見たどんな霧よりも濃く、深く、そして美しい、夜明け前の空のような藍色の霧が立ち上った。それが、俺の『最後の嘘』。自己の存在意義への執着と、それからの解放を同時に願う、究極の矛盾を孕んだ感情だった。

「行け」静馬の声が響く。「君が、決めるんだ」

第六章 停止世界の観測者

俺は、藍色の霧を琥珀の懐中時計に吸い込ませた。生まれたのは、星屑を閉じ込めたかのように煌めく、小さな結晶だった。

迷いはなかった。俺はその結晶を、世界の亀裂が広がるシステムの核へと投じた。

世界が、白く染まる。

時間の崩壊は、止まった。鉛の重りを背負っていたユイちゃんの背中から、そっとそれが消える。街行く人々の体からも、後悔の象徴だった全ての重りが霧散していく。人々は顔を見合わせ、解放された喜びに微笑み合う。沙耶がユイちゃんを抱きしめる。静馬は、その光景を静かに見つめ、灰色の霧の奥で、ほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。

世界は救われた。だが、それは『修復』ではなかった。

俺の最後の嘘がもたらしたのは、永遠の『停止』だった。

世界は、時間が進むことをやめた。人々は、この幸福な一瞬を、永遠に繰り返すループに閉じ込められた。新たな後悔も、新たな嘘も、新たな喜びも生まれることはない。ただ、穏やかで、何も変わらない、完璧な一日が永遠に続く。

そして、俺は――湊 海は、そのループの外側に弾き出されていた。

肉体を失い、意識だけの存在となった俺は、時の流れから切り離された場所から、ただ世界を眺めている。愛した人々が、幸福な停滞の中で永遠に微笑み続ける姿を。

これが俺の願った解放だったのか。これが、俺が下した救済の答えだったのか。

答えは、ない。

ただ、琥珀色に染まった空の下で、繰り返される穏やかな世界を、俺は永遠に観測し続ける。たった一人の、停止世界の観測者として。

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