路地裏の最奥、湿った石畳の突き当たりに、その店はひっそりと息を潜めている。「時計修理・刻(とき)渡り」とだけ書かれた真鍮の小さなプレートは、長年の雨風に晒され、緑青(ろくしょう)を吹いて古びた輝きを放っていた。
店主の総一郎は、ルーペを右目に嵌め込んだまま、作業台に向かっていた。店内には、無数の時計が刻むチクタクという音が満ちている。壁掛け時計の重厚な振り子の音、置時計の軽快なリズム、そして彼の手元にある小さな腕時計の、心臓の鼓動のような微かな震え。それらが重なり合い、不思議な調和を保ってこの空間の「時間」を支配していた。
外は雨だった。六月の粘り気のある雨が、店の曇りガラスを絶え間なく叩いている。総一郎がピンセットの先で極小のネジを回し終えたその時、カラン、とドアベルが鳴った。
湿った風と共に店に入ってきたのは、濡れた髪を拭おうともせず、蒼白な顔をした若い女性だった。二十代半ばだろうか。彼女は両手で何かを包み込むように胸元に抱えている。
「あの……ここなら、直せると聞いて」
彼女の声は雨音にかき消されそうなほど細かった。総一郎は無言で顎をしゃくり、カウンターの椅子を勧めた。
「見せてごらんなさい」
総一郎の低い、錆びたような声に促され、彼女は震える手でハンカチに包まれた物体をカウンターに置いた。開かれた布地の中には、銀色の懐中時計が横たわっていた。蓋には細密な唐草模様が彫り込まれているが、全体的に曇り、どこか「死んだ」ような気配を漂わせている。
総一郎は白手袋をはめた手で、恭しくその時計を手に取った。重みがある。ただの金属の重さではない。持ち主の情念が沈殿したような、独特の重力だ。
「祖父の、形見なんです」
女性――遥(はるか)と名乗った客は、ぽつりぽつりと語り始めた。
「祖父が亡くなった時刻、午後四時十二分で、この時計も止まりました。私が……動転して、床に落としてしまったんです。それ以来、どこの時計屋さんに持って行っても、部品がない、古すぎて構造が分からないと断られてしまって」
総一郎は裏蓋を専用のオープナーで慎重に開けた。内部の機械(ムーブメント)が露わになる。美しいが、沈黙した小宇宙。
ルーペ越しに覗き込むと、テンプの軸が歪み、ヒゲゼンマイが絡まっているのが見えた。確かに重傷だ。だが、それだけではない。総一郎には見えた。歯車の隙間に、砂粒のようにこびりついた「ためらい」のようなものが。
「直せますか?」
遥が祈るような目で見つめる。
「機械としての修理なら、可能だ。だが、あんた自身はどうなんだ?」
「え?」
「この時計は、止まりたがっているように見える。あんたが、止めておきたいと願っているからじゃないのか」
遥はハッと息を呑んだ。
「そんなこと……直したいんです。祖父の大切な時計だから」
「本当にそうか」
総一郎は作業台から顔を上げ、ルーペを外して彼女の目を真っ直ぐに見た。
「時計というのはな、ただ時間を計る道具じゃない。持ち主の『今』を切り取って、過去へと送り続ける機械だ。こいつを直すということは、四時十二分より先の時間を、あんたが生きるということだ。お祖父さんを過去の人にして、置いていくことになる。その覚悟が決まっていないんじゃないか?」
図星だったのだろう。遥の瞳が揺らぎ、涙が溢れ出した。
「……怖かったんです」
彼女は絞り出すように言った。
「あの日、この時計が止まった時、祖父の時間がそこで永遠に保存されたような気がしました。もし、これがまた動き出したら……本当に祖父がいなくなってしまう気がして。でも、止まったままのこの子を見るたびに、自分が前に進めていないことを突きつけられているようで、苦しくて」
総一郎は小さく頷くと、再びルーペを嵌め直した。
「矛盾しているな。だが、それが人間だ。そして、時計ってのはそんな人間の矛盾に寄り添うために回るもんだ」
彼は作業を開始した。その手つきは、魔法というよりは、祈りに近かった。極細のピンセットが、絡まったヒゲゼンマイを一本一本、丁寧に解きほぐしていく。それは、彼女の心の中で絡み合った後悔と未練の糸を解く作業と重なるようだった。
「いいかい、お嬢さん。時間は流れる川のようなものだと言われるが、わしは違うと思う。時間は『琥珀(こはく)』だ」
総一郎は手を動かしながら語りかけた。洗浄液に浸された歯車が、古い油汚れを落とし、本来の輝きを取り戻していく。
「一瞬一瞬が樹脂のように固まって、透明な層になって積み重なっていく。時計を動かすというのは、新しい層を重ねることだ。古い層を消すことじゃない。お祖父さんとの時間は、その時計の底のほうで、永遠に琥珀の中に閉じ込められて輝き続ける。新しい時を刻んでも、それは傷ついたり消えたりしない」
歪んだ軸を修正し、新しい油を差す。ルビーの軸受けに赤い一滴が落ちる。それは、止まっていた心臓に血液を送る行為だ。
カチッ。
小さな音がした。総一郎がリュウズを巻き上げる。ゼンマイが巻き締まる感触が指先に伝わる。エネルギーが蓄えられる。
そして、総一郎がテンプを軽く弾くと、それは生き物のように身震いし、規則正しい往復運動を始めた。
チク、タク、チク、タク。
店内の無数の時計の音に、新たな、しかし力強いリズムが加わった。
「……あ」
遥が声を漏らした。その音は、彼女が恐れていた「別れの音」ではなかった。もっと温かく、鼓動のような、生を肯定する音だった。
「ほら、お祖父さんの時間は消えていない。この音の向こう側に、ちゃんとある」
総一郎は磨き上げた時計を彼女に手渡した。銀色のケースは曇りが取れ、店内の温かなランプの光を反射している。
遥は両手で時計を受け取ると、それを耳元に寄せた。目を閉じ、涙を流しながら、深く安堵したような微笑みを浮かべた。
「聞こえます……。ありがとうございます。本当に……」
「礼には及ばん。うちは時計屋だからな」
総一郎はぶっきらぼうに言い、また作業台に向き直った。
遥が店を出て行く頃には、雨は小降りになっていた。ドアベルの音が軽やかに響き、彼女の背中が見えなくなる。
店には再び、総一郎と無数の時計たちだけが残された。しかし、店内の空気は先ほどよりも少しだけ澄んでいるように感じられた。
総一郎はふと、自分の作業台の隅に置かれた、動かないままの古い腕時計に目をやった。もう何十年も修理できずにいる、自分自身の過去の象徴。
「……琥珀、か。偉そうなことを言ったもんだ」
彼は自嘲気味に笑うと、再びルーペを覗き込み、次の客の「時間」と向き合い始めた。
無数の秒針が、それぞれの速度で、それぞれの物語を刻み続けている。夜はまだ長く、琥珀色の時間は静かに降り積もっていく。