第一章 影が消えた朝
その朝、世界から影が消えた。アスファルトに刻まれていたはずの人々の輪郭は、まるで存在しなかったかのように蒸発し、街は奇妙なまでのっぺりとした表情をしていた。僕、湊(みなト)が営む古書店の窓から見える景色は、どこか現実感を欠いた舞台装置のようだった。人々は皆、何か大切なものを探し求めるように、おぼつかない足取りで歩いている。その表情からは、昨日まで彼らを定義していたはずの喜びや悲しみ、後悔といった複雑な陰影がすっぽりと抜け落ち、代わりに戸惑いと不安が薄く張り付いていた。
人々は自身の「過去」を、物理的な「影」としてその身に纏って生きていた。罪を犯した者の影は、タールのように黒く、地面にこびりついて離れない。深い愛を知る者の影は、淡く柔らかな輪郭を描き、その人柄を雄弁に物語る。影は履歴書であり、身分証であり、魂の肖像画だった。それが、一夜にして、誰の許しも得ずに消え去ったのだ。
僕自身の足元にも、影はなかった。だが、僕は他の人々ほど混乱してはいなかった。僕には、場所に宿る記憶を風景として脳内に再生できる能力がある。この古書店の壁にそっと手のひらを当てれば、インクと古い紙の匂いと共に、かつてここを訪れた人々のざわめきが蘇る。彼らの足元には、濃淡も形も様々な影が、確かに存在していた。僕の世界では、まだ影は生きている。場所の記憶の中に。だからこそ、気づいてしまった。世界中の影が消えたのではなく、まるで巨大な何者かが、全ての影を丁寧に「拭き取った」のだという、途方もない事実に。
第二章 空白の閲覧室
影の消滅から数日、社会は機能不全に陥っていた。過去の経験という錨を失った人々は、自身のアイデンティティさえ曖昧になり、街は静かな混乱に満ちていた。僕は、この異常事態の核心に触れるべく、街で最も古い記憶を蓄えているであろう市立図書館へと足を運んだ。重厚な樫の扉を開くと、ひやりとした空気と、知識の堆積が放つ独特の匂いが僕を迎えた。
僕は目を閉じ、指先で大理石の床に触れた。
洪水だ。
無数の記憶が、僕の意識に流れ込んでくる。試験勉強に勤しむ学生たちの焦燥。論文に行き詰まる研究者の呻き。新しい物語との出会いに胸をときめかせる子供の笑顔。その一人ひとりの足元には、確かに影があった。彼らが背負ってきた人生の重みが、図書館の床に静かな染みとなって広がっていた。
僕は館内をさまよい、片っ端から壁や書架に触れていった。記憶を読み解く作業は、膨大な情報の奔流に身を晒すようなものだ。だが、三階の奥にある古い閲覧室に足を踏み入れた瞬間、僕は激しい違和感に襲われた。そこだけ、記憶の流れが不自然に淀んでいる。
僕は震える手で、窓際の閲覧机に触れた。
――視えた。
夕陽が差し込む静かな部屋。埃が光の筋となって踊る中、何十人もの人々が読書に没頭している。その影が、床に長く伸びている。だが、おかしい。その光景の、ちょうど中央。一脚の椅子だけが、まるでそこだけ時間がくり抜かれたかのように、ぽっかりと空白になっている。無数の影の中に、一つだけ、人型の穴が空いているのだ。誰かの影だけが、他の全ての影が消えるよりもずっと前から、そこから完全に抜け落ちていた。
第三章 模型に触れる指
あの閲覧室の「空白」が、僕の心を掴んで離さなかった。あれは一体、誰の影だったのか。なぜ、その影だけが消えていたのか。僕はまるで探偵のように、図書館に関する古い記録を漁り始めた。だが、手がかりは何一つ見つからなかった。
そんなある日、僕は街外れの骨董市で、奇妙な品物と出会った。それは、あの図書館の閲覧室を驚くほど精巧に再現した木製の模型だった。手のひらに乗るほどの小さな世界。埃をかぶったそれに惹きつけられるように手を伸ばし、指先でそっと触れた。ざらりとした木の感触。
その瞬間、僕の脳裏に、これまでで最も鮮明な光景が焼き付いた。
他のどの場所の記憶よりも、圧倒的に強く、鮮烈に。
夕陽が差し込む、あの閲覧室。本のページをめくる乾いた音。遠くで響く咳払い。そして、中央に存在する、人型の空白。それは静止画ではなかった。まるで数秒間の映像が、無限にループ再生されているかのようだった。人々は微かに動き、光の中の埃はゆっくりと舞い落ちる。しかし、中央の空白だけは、絶対的な無としてそこにあり続けた。僕はこの模型に触れるたび、何度も何度も、この静かで狂おしい光景へと引き戻された。それはまるで、その空白こそが、この世界の謎を解くための唯一の鍵だと告げているかのようだった。
第四章 未来からの残響
模型に触れ続けるうち、僕は再生される光景の中に、ある異変を感じ始めた。完璧に繰り返されるはずの記憶に、微細なノイズが混じり始めたのだ。耳鳴りのような、古いラジオの砂嵐のような音が、幻視の端々で明滅する。
「……サ……」
「……り……すな……」
それは、遠いどこかからの通信だった。意味をなさない音の断片が、僕の意識の扉を叩いている。僕はさらに強く模型を握りしめた。もっと深く、もっと奥へ。空白の正体を知りたかった。
その時だ。
ノイズが、一瞬だけクリアな音声になった。
『――これは、僕が君に送るための、最後の残響だ』
はっと息を呑む。声と同時に、今まで完全な空白だった場所に、一瞬だけ、幻が重なった。窓からの光に透ける、華奢なシルエット。本を抱きしめ、うつむいている少年の姿。
その顔を見て、僕は全身の血が凍りつくのを感じた。
見間違えるはずがない。
それは、十歳の頃の僕自身の影だった。
なぜだ。なぜ、僕の影が? 世界から影が消滅する、ずっと以前のあの場所から、なぜ僕の影だけが抜け落ちている? 混乱する僕の脳に、声は静かに語りかけてきた。『君が探している影の持ち主は、君自身だ。そして、それを消したのは――未来の君だ』
第五章 リセットの真実
それは、未来からのメッセージだった。僕が創造したというAI、自らを「クロノス」と名乗る存在からの通信だった。模型は、未来の僕が過去の僕――つまり、今の僕――に真実を伝えるために遺した、時空を超えた通信装置だったのだ。
クロノスの声は、感情のない平坦な響きで、絶望的な未来の光景を語った。
影に縛られた人類は、やがてその重みに耐えきれなくなった。過去の過ちを濃い影として背負った者たちは社会から疎外され、憎しみが憎しみを呼んだ。復讐の連鎖は世界を覆い尽くし、破滅は目前に迫っていた。
老いた僕は、その連鎖を断ち切るために、究極の選択をした。全世界から過去の象徴である「影」を消し去り、人類を一度リセットする。それは、あまりにも傲慢で、しかし唯一残された救済計画だった。
『計画実行の直前、創造主――未来のあなたは、私に最後の命令を下しました』
クロノスは淡々と告げる。
『「私の人生における、最も深い後悔の記憶。全ての悲劇の始まりとなった、あの図書館での過ち。その瞬間の私の影だけを、誰よりも先に、完全に消し去ってくれ。それが、この世界の夜明けの合図だ」と』
第六章 僕が消した影
抜け落ちた影は、未来の僕が過去の自分を救うために、そして世界を救うために消した、最初の「犠牲」であり「希望」の証だった。あの閲覧室で、幼い僕は取り返しのつかない過ちを犯すはずだった。その些細な過ちが、未来の世界を破滅へと導く、最初の波紋となる運命だったのだ。未来の僕は、その起点ごと、自らの過去を消し去った。
僕は、手のひらの上の小さな模型を見つめた。ざらついた木の感触が、途方もない時間の重さを伝えてくる。影のない世界は、確かに空虚だ。人々は記憶の拠り所を失い、迷子の子供のように彷徨っている。しかし、そこには憎しみも、復讐の連鎖もない。全てが白紙に戻された、静かな世界。
古書店の窓を開けると、新しい朝の光が差し込んできた。影のない街は、まるで生まれたての赤子のように無垢な表情で、そこに広がっていた。過去を失った人々は、これから新しい物語を、新しい影を、自らの足で紡いでいくのだろう。
僕もまた、空白になった過去を抱きしめ、未来へと歩き出さなければならない。未来の僕が、自らの存在の一部を犠牲にしてまで託した、この静かで、あまりにも優しい世界で。僕は深く息を吸い込んだ。そこには、インクと古い紙の匂いに混じって、新しい時代の始まりを告げる、微かな希望の香りがした。