硝子のレクイエム

硝子のレクイエム

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第一章 硝子の軋む音

夜の静寂は、古い紙の匂いと混じり合って、僕の小さな書斎を満たしていた。水島響(みずしまひびき)、三十五歳。大手出版社を飛び出し、今ではフリーの校正者として、インクの染みついた孤独を糊口の糧としている。僕の仕事は、言葉の死骸を拾い集め、整然と並べ直す墓守のようなものだ。情熱も、創作の喜びも、とうの昔に置き忘れてきた。

そんな僕の元に、奇妙な依頼が舞い込んだのは、冷たい雨がアスファルトを叩いていた一週間前のことだった。差出人は小さな出版社の編集者を名乗る男で、依頼内容は、先月「不慮の事故」で亡くなった無名作家の遺稿の校正だった。作家の名は、月村海(つきむらかい)。世に出るはずのなかった、たった一つの長編小説。

「商業的な価値は期待しないでください。ただ、故人のご遺族が、せめて形として残したいと……。供養のようなものです」

電話口でそう語った編集者の声には、どこか事務的な響きしかなかった。僕は特に感慨もなく、その仕事を引き受けた。どうせいつものように、誤字と脱字を機械的に修正するだけの作業だ。

分厚い原稿の束が届き、僕は赤ペンを片手に最初のページをめくった。物語はありふれた恋愛小説だった。構成は稚拙で、人物描写も浅い。編集者の言葉通り、商業出版のレベルには到底達していない。僕はため息をつきながら、機械的に文字を追っていく。

だが、数十ページを読み進めたところで、僕の指がぴたりと止まった。

『彼女に別れを告げられた夜、僕の魂は硝子のように軋んだ』

奇妙な比喩だ、と思った。魂が、硝子のように、軋む。凡庸な文章の中で、その一文だけが異様な光を放っていた。それは不格好な宝石のように、物語の流れを乱している。僕は職業柄、言葉の癖には敏感だ。この表現は、どこかで……。いや、気のせいだろう。僕は首を振り、校正作業を続けた。

しかし、その表現は、まるで亡霊のように何度も現れた。主人公が友人に裏切られたとき、夢を諦めたとき、そして孤独に打ちひしがれたとき。文脈は違えど、絶望的な感情が描かれる場面で、必ずこの一文が添えられているのだ。

『魂が硝子のように軋む』

それはもはや単なる比喩ではなく、作者の署名であるかのような、執拗な反復だった。僕は原稿から顔を上げ、窓の外に広がる無機質な夜景を見た。なぜだろう。この文章を読んでいると、僕自身の胸の奥深くで、忘れかけていた何かが、きぃ、と微かな音を立てて軋むような気がした。月村海の「不慮の事故」という言葉が、不意に重々しい意味を帯びて、僕の思考にのしかかってきた。これは本当に、ただの供養のための原稿なのだろうか。

第二章 残響なき言葉

月村海の死に、僕は次第に囚われていった。警察は、彼が夜の埠頭で足を滑らせて転落した、単なる事故として処理していた。目撃者もいない。遺書もない。だが、あの遺稿を読んだ後では、それを鵜呑みにすることはできなかった。あの執拗なまでの「軋み」の描写は、平凡な事故死という結論とは、あまりにもそぐわない。

僕は校正作業を中断し、月村海という作家の輪郭を追い始めた。しかし、その作業は困難を極めた。彼を知る人間は、驚くほど少なかったのだ。依頼主である編集者に連絡を取ってみると、彼は月Muraと数回メールをやり取りしただけで、一度も会ったことはないという。「正直、才能があるとは思えませんでした。文章に熱がないというか……」と、彼は気まずそうに言った。

僕は数少ない手がかりを元に、月村が生前アルバイトをしていたという古書店を訪ねた。埃っぽい店内で、老店主は少し考え込んだ後、ぼそりと言った。

「ああ、月村くんか。真面目だったけど、影の薄い子だったなあ。本の話をしても、どこか上の空でね。彼が小説を書いてたなんて、今初めて知ったよ」

誰もが口を揃えて、月村海を「平凡」で「印象に残らない」人物だと語った。その評価は、僕が読んだ遺稿の凡庸さと確かに一致する。だが、それならば、あの異様な比喩は何だったのか。魂の奥底から絞り出したような、あの痛切な響きは。

僕は再び書斎に戻り、原稿の束に向き合った。赤ペンを置き、今度は一人の読者として、彼の言葉の森を彷徨った。何度も、何度も。そして、ある法則性に気づいた。

『魂が硝子のように軋む』

この表現は、単なる絶望の瞬間に使われているのではなかった。それは決まって、「守るべきだった誰かを、自らの弱さゆえに裏切ってしまった」という、激しい後悔と罪悪感が描かれる場面で現れるのだ。稚拙な物語の構造の中に、その部分だけが、作者自身の血で書かれたかのように、生々しい手触りを伴っていた。

これは、月村海自身の告白なのではないか。彼は誰かを裏切り、その罪の意識に苛まれ、死を選んだのではないか。しかし、彼がそれほどまでに悔いた「裏切り」とは、一体何だったのだろう。彼の周囲からは、そんなドラマを窺わせるような情報は、何一つ出てこなかった。調査は完全に行き詰まり、僕は再び、意味のない文字の羅列と向き合うしかないのかと、深い無力感に包まれた。

第三章 共鳴する罪

手詰まりになった僕は、最後の望みをかけて、月村海が事故死したという埠頭を訪れた。潮の香りが鼻をつき、錆びた手すりが冷たく掌に伝わる。ここで彼は命を落とした。何を思い、何に絶望して。

僕は漫然とあたりを歩き回った。すると、古びた倉庫の壁際に、雨風に晒された段ボール箱がいくつか積まれているのが目に入った。誰かが不法投棄したものだろう。その中の一つが崩れ、中から濡れて汚れたノートの束が覗いていた。何かに引き寄せられるように、僕はそれを手に取った。それは、日記のようだった。インクは滲み、ページは固着していたが、辛うじて文字を読むことができた。

僕は息を呑んだ。そこに綴られていたのは、プロの作家を目指す青年の、苦悩と希望に満ちた日々だった。そして、その日記の最後のページに書かれていた文章に、僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。

『編集者の水島さんは、僕の才能を信じてくれると言った。なのに、彼は僕を裏切った。編集長の決定だと言って、僕のデビューは白紙になった。僕の全てだった物語が、ゴミのように捨てられた。あの夜からずっと、僕の魂は硝子のように軋み続けている』

水島。それは僕の名前だ。

全身の血が凍りつく。記憶の扉が、錆びついた音を立ててこじ開けられた。五年前、僕はまだ出版社の編集者だった。僕は、ある無名の新人作家の才能に惚れ込み、彼のデビューのために奔走していた。彼の名は、月村陸(つきむらりく)。だが、売上至上主義の編集長に彼の作風は一蹴され、僕は抵抗もできずに、彼のデビューを潰してしまった。夢を奪われた彼は、筆を折り、僕の前から姿を消した。

月村陸。そして、僕が遺稿を校正している作家は、月村海。

まさか。僕は震える手でスマートフォンを取り出し、二人の名前を検索した。すぐに、月村陸と海が兄弟であるという事実に行き着いた。

全てが繋がった。

これは殺人事件などではなかった。月村海の死は、兄の無念を晴らすための、僕一人に向けられた壮大な復讐劇だったのだ。

彼は、兄が遺した日記を読み込み、兄の絶望を追体験した。そして、兄の言葉、兄の文体、兄の魂の叫びである「魂が硝子のように軋む」という表現を自らの文章に憑依させた。僕が校正者として言葉に敏感であることを見越して。僕がいつか、この遺稿に辿り着き、その異常性に気づき、自らが犯した罪を思い出すように、巧妙に仕組んだのだ。

あの凡庸な物語は、カモフラージュだった。月村海が本当に書きたかったのは、物語そのものではなく、兄の魂の叫びを僕に届けるための、たった一つの比喩表現だけだったのだ。彼は自らの命をインクにして、僕の罪を告発する最後の一文を書き上げた。

埠頭に立ち尽くす僕の耳に、幻聴のように、硝子の軋む音が響いていた。それは、月村兄弟の嘆きであり、同時に、僕自身の魂が発する悲鳴でもあった。

第四章 未完のレクイエム

書斎に戻った僕は、二つの原稿を机の上に並べた。月村海の稚拙な遺稿と、泥に汚れた月村陸の日記。片方は、兄の絶望を模倣した復讐の書。もう片方は、才能ある若者が夢を絶たれた、痛切な記録。これらは、別々のものではない。二つで一つの、魂の物語なのだ。

警察にこの事実を話すべきだろうか。いや、彼らは動かないだろう。これは法で裁ける事件ではない。これは、言葉によって生まれ、言葉によって裁かれるべき、魂の領域の問題だ。

僕は赤ペンを握りしめた。だが、それはもう、誤字を正すための無機質な道具ではなかった。それは、失われた物語に再び命を吹き込むための、魔法の杖であるべきだった。

僕の罪は消えない。僕が月村陸の才能を、そして彼の人生を、守れなかったという事実は変わらない。その結果、彼の弟である月村海の命まで奪ってしまった。この重荷を、僕は一生背負って生きていかなければならない。

だが、ただ罪に打ちひしがれて終わりにするわけにはいかない。僕には、僕にしかできない償いがあるはずだ。

僕は、月村海の遺稿の校正を始めた。しかし、それはもはや単なる校正ではなかった。僕は、月村陸の日記から彼の瑞々しい感性、ほとばしるような情熱の言葉を拾い上げ、海の遺稿の中に織り込んでいった。海の骨組みに、陸の血肉を通わせていく。稚拙だった物語は、次第に深みを増し、登場人物たちは生々しい感情をもって動き始めた。

それは、二人の兄弟の共作を、僕が「編集」するという作業だった。かつて僕が放棄した、編集者としての、最後の仕事。

『魂が硝子のように軋む』

その一文に辿り着くたび、僕はペンを止め、深く目を閉じた。僕自身の魂もまた、同じように軋むのを感じながら。しかし、その痛みは、もはやただの苦痛ではなかった。それは、彼らの生きた証であり、僕が彼らと繋がる唯一の回路だった。

どれほどの時間が経っただろうか。窓の外が白み始めた頃、僕は最後の一文を書き終えた。それは、もはや月村海の作品でも、月村陸の作品でもない。彼ら兄弟と、彼らの才能を殺した僕とが、共に紡ぎ出した、一つの鎮魂歌(レクイエム)だった。

僕は原稿を抱きしめた。それはまだ、インクの匂いがする、温かい塊だった。僕はこれを、必ず世に出さなければならない。それが、僕に遺された唯一の道であり、僕がこれから歩き出す、贖罪の旅の始まりなのだから。

僕の魂は、まだ軋み続けている。だが、その音はもはや絶望の響きだけではなかった。それは、新しい物語が生まれようとする、微かな産声のようにも聞こえた。

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